4.太陽と月
いつもどおり、俺は想像の電車に乗っていた。
ここでは、誰も俺の邪魔をしない。何も俺を阻まない。ここは俺の頭の中。すべて俺のもので、俺の思うまま。都会からたった一駅で田舎の無人駅に到着することだってできる。体を動かすように電車を走らせ、息を吸うように人々を行き交わせる。
でも、あの日――。彼女に出会った日は、いつもと違った。
すぐさま俺は違和感に気付いた。
誰も俺を見ない。そこに俺がいないかのように通り過ぎる。あまりのことに息が詰まった。
いつもなら、みんな俺に微笑みかける。蔑ろにするなどもってのほか。俺が世界の中心だった。
なのに、今日はまるで創造主への信仰を失った徒だ。
更に、車窓からは見たことも想像したこともない景色が見えた。あまりにも鮮明な景色に、体が硬直する。
電車の中で、俺はまるで幽霊になったかのようだった。
戸惑いながらよろよろとシートに座ると、何かを感じたように人が近寄らなくなる。左右に空きができる。
人も、車両も、何もかも、俺の思い通りには動かない。
止まれ。俺の意思と関係なく動くな。止まれ。誰の許可を得て動いている。
だが、電車は止まらない。次々と知らない駅に停車しては進んでいく。
ふざけるな。見ろ。無視するな。俺はここにいる。俺を見ろ。
俺をいないものとして、電車の中に淡々と静かな時間が流れる。
「何なんだよ、これは……」
シートに座った体が、いつの間にか動かなくなっていた。痩せ細った脚はピクリとも動かない。まるで現実だった。
まぶたの裏側で大事に育てた俺の現実が、神様の垂らした糞みたいな現実に侵されたような気がして、怒りで狂いそうになった。
認めるものか。
塗り潰してやる。塗り替えてやる。
俺に居場所をくれなかった現実なんて、消えてしまえばいい。俺から真っ当な人生を奪い取った現実なんて、すり潰れてしまえばいい。俺の想像に飲み込まれてしまえばいい。
この電車は俺のものだ。誰にも邪魔はさせない。止まって良いのは、俺が作り出した駅だけだ。喋って良いのは、俺が許した者だけだ。
そうだ。お前も、俺のものだ。
俺と対面するように反対側のシートに座っている女性を睨み付ける。疲れているのか、うつむいて眠っていた。
許可なく眠るな。顔をあげろ。お前は誰だ。俺を見ろ。俺を無視するな。俺はここにいるんだぞ。
フガッと、漫画みたいな声を出して、その女性は目を覚ました。顔を覆っていたショートカットが流れ、彼女の相貌が俺の目に映った。
きれいな人だった。
メイクなどまるで知識がないけれど、暗い色合いのメイクが良く似合っていた。
胸ポケットからわずかに覗いている社員証らしきものから、小舘という苗字が見て取れる。
小舘という名前のその人は、眠そうに目をぱちくりとさせ、俺を見た。
「え? あ、あ……。いや、その……」
思わず、俺はうつむいた。声はうまく言葉にならなかった。
彼女の瞳があまりにも現実的だったから。こちらの瞳を覗き返した生々しい視線に、俺は怯んでしまった。
顔をあげられない。ひどく体が熱い。
恥ずかしかった。
どうしてうまく喋ることができなかったのだろう。おかしな男だと思われたかも知れない。妙に座りが悪かった。
彼女は何を思ったのだろう。何を話すのだろう。恥ずかしさで燃え尽きそうだったが、それ以上に彼女のことが気になった。
そっと視線を上げると、目の前のシートには誰も座っていなかった。
慌てて周囲を確認すると、彼女は踵を鳴らして隣の車両に向かっていた。肩越しに俺を見ている瞳には、何の色も見て取れない。
「ま、待って……!」
立ち上がった俺を見て、彼女は驚いたように目を見開き、足早に去ってしまった。
また誰も俺を見ない。ただ静かな時間だけが流れていた。たくさんの人々に囲まれ、俺は孤独感に苛まれた。ガタンゴトンと規則的な震動だけが、俺の味方だった。
脚が震えだし、俺はその場でうずくまった。
急に立てたことも驚きだったが、彼女が俺を認識してくれたことにも驚いた。確かに彼女は俺を見た。こんな俺を見てくれた。
天から降り注いだ糞に塗れた俺のような人間を、彼女だけが見てくれたんだ。小舘さんだけが――。
その瞬間に、俺の中で何かが弾け飛んだ。
そうして、俺は彼女に会いに行くようになった。毎日のように同じ電車に乗って、彼女を探した。彼女を見つめた。微笑みかけた。まだうまく話すことはできないけれど、少しずつ俺と小舘さんの距離は縮んでいった。
俺は頭の中の電車に乗って、今日も彼女に会いに行く。きっと、もうすぐ仲良くなれる。
彼女は俺の太陽だった。
◆
月だけが俺を見ていた。
駅は煌々と明かりを灯しているのに、人の気配がまるでなかった。時間的には、まだ人がいてもおかしくはない。だというのに、ひとっこひとりいない。駅前は静まり返っていた。
彼女のメッセージを思い出した。今日に限って、妙に駅構内は静かだったという。
背中を冷たい汗が伝った。
意を決して、不気味なほど無機質な駅構内へと踏み入る。
「すみません!」
改札から身を乗り出し、駅員詰所に声を投げる。
「誰かいませんか?」
返事はない。駅員さえ、いる気配がなかった。
間延びした電子音が駅構内に響いている。始発前の駅とも違う不気味な静けさだった。白い照明がひどく冷たく感じられる。
あまりにも静かで、自分の荒い息が大きく聞こえた。
ひとまず、全力で走って乱れた息を整える。
『駅に人が誰もいない。変だ』
彼女にメッセージを送った。
心のどこかで信用しきれていなかった事態が、空っぽの駅に身を置いて現実味を帯びた。
彼女の言っていたことは、すべて事実なのかも知れない。だとしたら、いったい何なんだ。悪戯にしては大掛かり過ぎる。これじゃあ、まるで怪談だ。
見知ったはずの駅構内が、幽霊屋敷のように感じられた。
「誰かいませんか!」
焦燥感に突き上げられるように、腹の底から叫んだ。
「誰もいないのか!?」
駅は、間延びした電子音を返すだけだ。
自分の呼吸の音と、足音が異様に響く。
「くそ……」
閉じられた改札を跨ぎ、無理やりホームへ向かってみる。不正乗車の疑いで駅員が出て来やしないかと期待したが、何事もなく地下へのエスカレーターへたどり着いてしまった。
ここを降りていけばホームがある。
そこで、耳馴染みのある警笛が聞こえ、ごうごうという震動が伝わってきた。電車がホームに侵入してきたのだ。
しかし、駅でのアナウンスは何もない。やはり、誰もいないのか。
『たぶん同じだ』
彼女からのメッセージが届く。
『蛍沢行きの電車だよ』
「まじか……」
エスカレーターを下りきると、ちょうどホームに電車が滑り込んできた。のっぺりとした銀色の車両。なぜだか輪郭がぼんやりと曖昧で、うまく視点が定まらない。はっきりと車両を捉えられない。
「これは、どうしたもんかな」