3.蛍沢駅
「また蛍沢駅だ……」
ざらざらした車内アナウンスは、壊れたように繰り返している。
先ほどから、十分おきくらいで蛍沢駅に停車していた。シートに座っているわたしの背後に、蛍沢駅のホームがあるはずだ。一度振り返ったとき、見たことのない田舎の駅で、わたしは怖くなって二度と振り返ることができなくなってしまった。
ずっと下を向いて、見知った駅に到着するのを待っている。
でも、本当に到着するのか。
静かだった駅。妙に素朴な車両。動かない乗客。停車するのは聞いたこともない駅。
繰り返し、繰り返し、蛍沢駅へとわたしを運ぶ。
どうして、わたしばかりこんな目に遭うんだろう。
社内で疎まれ、ストーカーにつきまとわれ、挙句におかしな電車に乗ってしまった。
わたしは死ぬんだろうか。ネガティブな思考は、飛躍した結論に回路が繋がってしまう。
きっと死んでしまうんだ。ほかの乗客のように、もげそうなほど首を下げて――。
そこで、ハッとして顔を上げた。
電車は再び動き出し、暗闇を裂いて進んでいる。発車の揺れで、向かい側のシートに座っていた女性が横倒れになった。ずっと眠っていたその女性が、わたしを見る。白とピンクで揃えた服が似合う可愛らしいひと。彼女の長い髪の隙間。虚ろに濁った瞳が、わたしを見ていた。
跳ねるようにわたしは立ち上がる。かすれた悲鳴が飛び出した。
両手で口許を押さえ、周りを見回す。
「だ、誰か……」
この人、死んでます。
そう言おうとした。
でも、同じ車両内の誰もが、まったく気にしていない様子だった。ずっと首を下げて眠っている。
「あ……あぁっ」
車両内の薄暗い照明がちかちかと瞬く。
そうだ。
みんな――。
脚がガクガクと震えだし、立っていられなくなる。シートにどすんと尻餅をつくようにして、再び座る。
口のなかで歯が震えた。口を押えた手が震えた。全身が痙攣するように震えていた。まるで、冬の山に放り捨てられたかのような心地。
寒いのか。怖いのか。感覚がおかしくなる。
――みんな、死んでるんだ。
この車両の誰も彼もが、死んでいる。
涙が込み上げてきた。視界の下の方を滲ませる。
「どうしよう」
わたしの他に生きている人はいないのだろうか。
誰か助けて。浜懸くん、助けて。
死体を乗せて走り続ける奇妙な電車。窓の外は暗闇。動く者のいない箱の中で、走行音に紛れて別の音が聞こえた。連結部のドアが開いた音だった。
そして、隣の車両から誰かが現れた。
「たっ……!」
助けてください。
ショックのあまり、その言葉は喉元で潰れた。
「お、小舘さん。へへ。ぐうぜ……ぐ、偶然ですね」
あいつだ。
あの男だ。いつもいつも、通勤電車で気味の悪い視線を向けてきて、わたしにつきまとってくる男。
部屋着みたいな恰好で、異様に細い脚をしている。ズボンの下は、ほとんど骨と皮だけなんじゃないかと思えるほどだ。そんな脚で歩けるものなのか分からない。けれど、男はゆっくりと近づいてきた。
「あ、あの……。と、と、隣、良いですか?」
寝起きのようなしゃがれた声で、男は言った。
嫌だ。駄目に決まっている。話しかけられるだけで、視線を交わすだけで、寒気が走る。
そう言ったら、立ち去ってくれるだろうか。駄目だろうな。とてもじゃないが放っておいてくれるとは思えない。
青白い顔。乾燥した肌。引きつった薄い笑顔。ギラギラしているくせに、どこか冷たい視線。
吐きそうなほど気味が悪いというのに、目を逸らすことができない。目を逸らした瞬間に距離を詰められそうで恐ろしかった。男の一挙手一投足を見逃さないように、瞬きすら惜しんだ。いくら非力そうに見えても、わたしの力で男を圧倒できるとは思えない。隙を与えてはいけないし、隙を見逃すわけにもいかない。
ずり、ずり。
と、男は近づいてくる。周りの乗客たちは、やはり動く気配がない。助けなど期待できそうになかった。
「小舘さん。俺……、俺……」
痙攣するほど口角を上げて、男はわたしに手を伸ばす。
怖い。気持ち悪い。死にたくない。爆発しそうな拒絶感が、体の内から込み上げてくる。
逃げなくちゃ。どうにかして逃げなくちゃ。そう思っても、恐怖からなのか体が動かない。
男の荒くなっていく息づかいに呼応するように、車両内の照明が瞬く。
もう駄目だ。いまにも男の手が届く。わたしの髪と首筋の間に手を差し込もうとしている。嫌悪感で狂いそうだった。
助けて。
誰か、助けて。
強く拳を握って祈る。
『次は、蛍沢駅。次は、蛍沢駅』
はっきりとアナウンスが聞こえた。
それを契機に、わたしの凍っていたような体が動いた。
まったく、わたしはなんて馬鹿なんだ。愚図にもほどがある。
助けなんて来ない。来るわけがない。
わたしは誰も助けたことがない。だから、誰もわたしを助けてなんてくれない。
浜懸くんだって来てくれない。きっと、ゲームするんで、と言って断られるんだ。
自業自得のがんじがらめ。握りしめた祈りは、手前勝手な怒りに変わった。
「このやろう!」
慣れない怒号は上擦った。
それでも、わたしは握りしめた拳を男の顔面に叩き込んだ。そして、怯んだ男に向かってさらに足を蹴り出す。枯れ枝みたいな下半身を目がけ、やみくもに両足を振り回す。
「いぎぃいいっ?!」
まさに、枯れ枝を踏んだようなバキリとした感触があった。
男は奇怪な悲鳴を上げ、床を転がりまわっている。
わたしは震える脚を押さえつけるようにして立ち上がった。
同時に、電車が止まる。
『蛍沢駅。蛍沢駅』
誰も助けてくれない。
だから、わたしは自分で助かる。
「待って! 待って! 小舘さぁん! いはははは!」
涙を流し、わたしの名前を呼びながら男は狂ったように笑い出した。
その気味の悪い顔面を思い切り蹴り上げ、わたしは逃げ出した。焦燥と恐怖と興奮とが、わたしの中で荒れ狂う。
「ざまあみろ! ざまあみろ! このくそやろう!」
気が付けば、駅のホームでわたしは叫んでいた。
電車は男を乗せたまま再び走り出した。
「気持ち悪いんだよ! 死ね! 死ねえ!」
ぜえぜえと肩で息をする。
夏の湿気と、奇妙な高揚感とで、わたしの体は汗ばんでいた。べたつくシャツがとんでもなく不快なはずなのに、いまは気持ちが晴れやかだった。
いろいろなモヤモヤが吹き飛んでいったような気がした。わたしの未来は明るいとさえ感じるほど、感情が月をめがけて空に舞い上がった。
蛍沢という寂れた田舎の駅で、わたしは奇妙な高揚感に浮かされながら、遠ざかる電車を眺めていた。