2.まぶたの裏側
俺は電車が好きだ。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。規則正しく体に伝わる震動。たまに体を傾ける揺れも、俺は大好きだった。
ビルの間を抜け、川を越え、山に穿たれたトンネルをくぐって、街から街へと列車は走っていく。知り合いや、知らない者同士を同じ箱に入れて、走っている間だけ彼らの人生を交わらせる。
名前も知らない。言葉を交わすこともない。だけど、同じ時間の同じ車両で毎日のように顔を合わせている誰かがいる。
そんな小さな繋がりが、とても奇妙で愛おしかった。
幼い頃、父親が遊んでいた電車のジオラマに憧れた。大きくなったら触らせてくれると言っていた。結局、それで遊ぶことは叶わなかったが、いま思えばそれが俺の電車好きの原点だ。
ただ、電車が好きだといっても車両や駅に詳しいわけじゃない。ただ乗るだけ。席に座って、あるいは手すりや吊革に掴まって、人々や景色に思いを馳せる。
それが、俺の人生唯一の楽しみだった。
まぶたを開けると、見えるのは狭い自室の天井。
俺は実際の電車に乗ったことがない。空想。想像。頭の中に思い描く妄想の旅だ。
思うように体が動かせなくなってから、俺はいくつの季節を過ごしたのか。もう数えるのはやめた。
窓を開けても、手の届かない景色を見せつけられているようで辛いだけだった。だから、窓とカーテンは閉め切ってもらっている。昼間でも薄暗い部屋の中。命のろうそくの灯が消えるまで、俺はずっとベッドに横たわっているしかない。
そんな、生きる意味さえ見つけられない日々に、小さな光を見つけた。ほんとうにささやかな明かりだった。でも、真っ暗闇の人生に射したその光は、俺の太陽だった。
俺は再び目をつむり、冷々とまぶしい蛍光灯の明かりを追い出した。
まぶたの裏側だけが、俺の現実だ。
◆
いつの間にか、まぶたを閉じていた。枕元で携帯端末が震動して跳ね起きる。
「やばい。寝てた……!」
取り出した端末のディスプレイに、『小舘さんからメッセージがあります』と表示されていた。
メッセージアプリをポップさせ、内容を確認する。
『線路歩いてみてる』
「いやいやいや……!」
危険すぎる。
電車が来たとき、左右に逃げ場所があるとは限らない。しかも見通しの悪い夜だ。駅で大人しく待っていた方がいいように思えた。
俺はその旨を伝えたあと、気になっていたことを尋ねる。
『何線に乗って、そこに着いたんだ? 蛍沢駅なんて聞いたことない』
送られてきた画像。駅名標の背後には、街明かりがなかった。真っ暗でほとんど見えなかったが、鬱蒼とした茂みがかろうじて見えた。眠りこけて終点まで行ってしまったとしても、近隣の路線でそんな田舎に行くことはないはずだ。
『――そしたら、変なアナウンスが聞こえて……。蛍沢駅にしか止まらなくなった』
彼女が乗ったのは、いつも通勤に使っている路線だったようだ。
今日に限って駅構内は妙に静かで、乗ったのは見慣れない車両だったらしい。そして、何故か蛍沢駅にしか停車しない。
『無視して座ってたら、あいつが現れて――』
彼女はストーカー被害に遭っていた。あいつとは、彼女をつけ回している男のことだ。警察にも届けていたらしいが、相手の素性が割れず、どうにもならない状態だった。
ただでさえ気味の悪い状況下で、最悪なことにストーカー男が現れた。たまらず、彼女は逃げるように蛍沢駅へ降り立った。
『そいつも蛍沢駅に降りた?』
『降りてない。わたしだけ』
『わかった。俺は近くの駅に行って、蛍沢駅のことを聞いてみる。危ないからそっちも駅に戻って待ってて』
そう返信すると、俺は大急ぎで身支度を整え、最寄り駅へ向かった。
彼女が伝えてきた路線は、俺の家の最寄り駅も通過する路線だ。まだ駅員が残っているか分からないが、行ってみよう。ネットで検索してもヒットしない以上、駅のことは駅員に聞くのが一番だと思った。
「ん?」
川沿いの道を駅に向かって走っていると、またメッセージが届いた。
『浜懸くんに助けを求めることになったのは、一生の不覚』
『こんなときに喧嘩売ってんのか』
俺は、そう返した。
少しでも和ませようと、いつも通りふざけた調子で彼女を煽ってみた。
でも、
『ごめん。ホントごめん。迷惑かける』
返ってきたのは、謝罪だった。余裕がないのだろう。相当、心細いに違いない。
『借りは必ず返す』
間髪入れずに送られてきたメッセージに、苦笑がこぼれた。お前はどこぞの武将か。もしくは、マフィアの幹部か。
社内で少し浮いている彼女は、もしかしたら外にも友人がいないのかも知れない。俺と同じで地方から出てきたらしいし、それもあり得る。彼女は、俺を除いて社内の人間とプライベートな付き合いはほとんどない。珍獣扱いされているようなやつだ。
だから、助けを求めるとしたら俺しかいなかったのだろう。
『返してもらえるときが楽しみでならない』
どうだろうか。面白おかしく返せたろうか。
仏頂面が少しでも和らいだろうか。
訳の分からない状況で不安なはずだ。待っていてくれ。どうにかこっちでも頑張ってみる。
『やばい。信じられない。戻ってきた』
新たなメッセージに、勇んでいた足がつんのめった。
「も、戻れたのか!」
危険を冒してしまったが、見知った駅に戻れたのなら一安心だ。
俺はホッと安堵の息を吐き、「良かったな」とアプリに文字を打ち込んだ。
しかし、送られてきた文字を見て送信の手が止まる。
『また蛍沢駅だ』