1.ズレている
『ここどこ?』
珍しく彼女の方からメッセージが届いた。
小舘さんはどうやら機械類が苦手なようで、電話以外で携帯端末を操作している姿をほとんど見たことがない。
そんなレアな彼女からのメッセージに動転して、持っていた端末をガツンと顔に落としてしまう。至近距離で煌々と明かりを垂れるディスプレイ。たった数文字が、顔の上で大きく主張していた。
俺は落とした端末を掴み上げる。
「どこと言われてもな……」
時刻は二十四時を回ろうかという頃。俺は狭い自室のベッドの上で頭をひねる。
『もう少し情報をくれ』
俺がそうメッセージを送信した瞬間、画像がひとつ送信されてきた。
明らかに俺のメッセージを確認してからの返信ではない。もしかしたら、手慣れていない彼女は画像送信にもたついていたのかも知れない。少し眉根を寄せ、もどかしそうに携帯端末をいじる姿が想像されて、思わず口元が緩んだ。
「蛍沢駅……」
画像は、駅のホームらしき場所に設置されている駅名標だった。蛍沢駅と大きく書かれている。次と前の駅名は、かすれていて読めない。田舎臭い錆びた駅名標なので、経年劣化だと思われる。しかし、なんだか画像の方が歪んでいる気もした。寝入りばなの目をこすってみたけれど、やっぱりぼんやりとして読めない。
『帰りたい。助けて』
彼女が弱音を吐くのは珍しかった。雪でも降りそうだ。
真夏に雪が降るなんてあり得ないことだが、俺は思わず窓を見る。カーテンが閉められた窓からは、雪どころか明かりさえ見えない。
窓から視線を戻し、俺は蛍沢駅をネットで検索してみた。
すると、そんな駅は一件もヒットしなかった。ネットの検索にかからない駅が日本に存在するだろうか。
錆びた駅名標の画像。存在しない駅。もしかしたら、廃駅なのかも知れない。
そう思ったが、小舘さんは実際に到着している。彼女の性格上、悪戯ということも考えにくい。ならば、やはり蛍沢駅はどこかに存在すると考えていいはずだ。
しかし、ネットの検索にはかからない。すべての情報がネットにあるとは思っていないが、どうしても違和感が拭えなかった。
何かが、どこかでズレている。
◆
おかしい。
いつもとは何かがズレているような感覚。
駅のエスカレーターに足を乗せたとき、不意にそんな違和感を覚えた。
やけに静かな夜だった。
その静けさの正体に思い至らないまま、わたしの体はどんどん地下へと下っていく。
地下鉄の駅。その奥から生ぬるい風が吹き上がってきて、湿気でべたついた袖口がはためく。
「はあ……」
思わず漏れた溜息は、アルコールの匂いがした。
少し頭がクラっときて、エスカレーターの一番下で立ち止まる。
『たまには小舘さんも来なよ』
そう言われて、断り切れずに会社の飲み会へ参加した。
そして、わたしは居酒屋の隅に追い込まれ、ひとりで酒を飲み続けるはめになった。盛り上がっている同僚たちを掻き分け、ひとり立ち去る気力もない。仕方なく、終電近くまで居酒屋の隅を占拠していた。
行かなきゃよかった。
心底、そう思った。行きたくもない飲み会への誘いに、どうして頷いてしまったのか。どうやら、わたしは押しに弱いらしい。だから普段は周囲の人間となるべく距離を取って過ごしていた。誘われなければ断る必要もない。ところがどうだ。今日はこの体たらく。
本当に地獄のような時間だった。誘っておいて蚊帳の外に追い出したやつ全員の首を刎ねて盛り合わせたら、爽快だったに違いない。もちろんやってないし、やらないけれど。
こんなとき、あいつだったら――浜懸くんだったら、何食わぬ顔で断るんだろう。
実際、そうだった。
俺は帰ってゲームするんで、なんて言ってさっさと帰ってしまった。ゲームには詳しくないけれど、いっそ浜懸くんとゲームでもしてた方がマシだったに違いない。
そんな付き合いの悪い浜懸くんだが、不思議と彼は嫌われない。逆に好かれている。なぜなのか。わたしはこんなにも嫌われているのに。本当に不思議で、本当に羨ましい。少し冷たい目をした浜懸くん。あんな飄々とマイペースに生きられたらと、憧れてしまう。
人を羨んで、自分と比べて、さらに気持ちが重くなる。
体も頭も重かったが、誰もわたしを家まで運んではくれない。床にへばりついたような足をなんとか引きずり、ホームへと向かった。
「んー……?」
駅に足を踏み入れたときの違和感。静けさ。その正体に気付いた。
駅構内には、誰もいなかった。ひとっこひとり見当たらない。
重い頭を上げて見回してみても、ホームには人の気配がない。いくら終電が近いとはいえ、繁華街の駅に人の気配をここまで感じられないというのは気味が悪い。異常事態と言っていい。
事故か、あるいは事件でもあったのだろうか。いや、それならむしろ普段よりも騒がしいはず。
そういえば、改札に駅員はいたっけな。アルコールで注意力が低下しているのか、見た覚えがない。
地下鉄のホームには、間延びしたピンポーンという電子音とエスカレーターなどの機械的な駆動音だけが響いている。まるで、人間のみが突然に消え失せたみたいだった。
生ぬるい空気が流れるトンネルは、どこまでも続いていて吸い込まれそうだ。
どうしたものかと立ち尽くしていると、トンネルの奥の方からごうごうと音が聞こえてきた。レールが震動して、電車の到着を感じる。
人のいない気味の悪い地下鉄。湿度の高い風がまとわりついてくる。すごく嫌な感じだ。酔いも相まって、いまにも吐いてしまいそうだった。
「でも……」
まあ良い。ちゃんと電車は来た。暗いトンネルを照らすライトの明かりが近づいてくる。
あとは席に座ることさえできれば、三十分もせずに自宅の最寄り駅だ。適度にエアコンがきいた部屋と、サラサラのベッドを想像して帰巣意識が高まる。
ベッドに倒れ込むまでは挫けないぞ。そう決意し、わたしは曲がった背筋をぐっと伸ばした。
いつも乗っている車両には、紫色の横線が入っていた気がする。だけど、目の前に滑り込んできた車両には、それがない。銀色。金属の素材ありのまま。そんな感じの鈍い銀色をしていた。
妙だ。何かとんでもない間違いをしている気がしたけれど、駅もホームも間違ってはいない。
軽やかに電車のドアが開く。
車内には少ないながら人がいる。みんな疲れた様子でうなだれていた。居眠りをしているのだろう。終電間際ではよく見る光景だ。
思ったよりかなり空いている車内に安堵して、不安な気持ちをホームに置き去りにした。
車内に踏み入ったわたしの背後で、軽快な音を立ててドアが閉まる。
電車はわたしを乗せて走り出した。そのとき、また違和感を覚えた。しかし、今度はその正体にすぐに気付いた。
車内アナウンスがなかった。ドアが閉まる旨を伝えるアナウンス。いつもなら必ず聞こえてくるはずのものがない。
首を傾げながら、車内に視線を巡らせる。
同じ車両には数人が乗車していた。そして、全員が全員、首がもげそうなほど下を向いている。完全に横倒れになっている人もいた。よほど疲れているのか。さすがにそんな体勢になったら目を覚ましそうなものだけれど、誰も起きる気配がない。
一瞬、チカチカと明滅した車内灯が不安を煽る。
電車はごうごうと音を立てて走り出してしまっている。駅に着くまでは、もう降りられない。
不気味に静まり返る車内で、わたしは不安を押し殺してガラ空きのシートに腰を下ろした。
『次……蛍沢……き。つ……は、蛍沢駅』
ざらざらとして音質の悪いアナウンスが告げた駅名は、聞いたこともないものだった。