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ヤマダヒフミ自選評論集

ヴィスコンティ 「ベニスに死す」

 

 ヴィスコンティ「ベニスに死す」は傑作である。この作品の最後で、失意の音楽家は目の先に仮想的な美を見出して死んでいく。

 

 主人公の音楽家は、自分の音楽が美にたどり着かなかった、その失意を抱いたままベニスに療養に来ていた。そこで彼は正に自分の求めていたもの…美の化身としての少年を見出す。少年はギリシャ彫刻のように美しい姿で、中年の音楽家を魅了する。だが、この二人はほとんど触れ合わない。会話すらしない。一方的に少年を見つめているだけだ。少年は何を考えているのかわからない。

 

 人間にとっての美とはおおよそこういうものであろう。つまり、それは手に取れば消えてしまうような淡いものである。どんな美女でも美少年でも、関係を持てばそれは違う次元の話になってしまう。愛憎の物語になり、互いの欠点や矛盾、人間臭さが暴露され、美はバラバラに砕けてしまう。

 

 ヴィスコンティはこの少年の姿を美しい夢のまま留めておこうとした。その為には音楽家と少年との接触は最小限のものにする必要があった。音楽家は一方的に少年を見つめているだけである。

 

 やがて、当地で流行していた病にかかり音楽家は具合を悪くする。彼は死を悟る。死ぬ前に床屋へ行き、身だしなみを整え、化粧をしてもらう。

 

 作中でも丁寧に描写されているが、この中年の音楽家が化粧をした様は醜い。それは道化である。彼は病で精神に異常をきたしたのか、自分を化粧で飾り立てて美しくしようとする。髪を黒く染め、唇には紅をつけ、気取った帽子を被る。彼は道化であり、美しくなろうとするからこそ、醜くなってしまう様を、ヴィスコンティは冷酷に描いている。

 

 やがて音楽家は何かに導かれるように砂浜に出る。砂浜では…彼の愛する少年が他の少年と戯れている。音楽家は少年を見つめる。彼はゆったりした椅子に座り、意識が消えていくのを感じ取っていく。少年は浜に出て、太陽の光の元、彫刻にあるような独特なポーズをする。その姿を見て、音楽家は積年、自分が探し求めていたものを発見したような気がする。彼はふらつきながら手を少年の方に伸ばすが、すぐに手はダラリと垂れ、意識は途絶え、死んでしまう。その死体を周囲の人間が気づいて、砂浜から運んでいく。それは無様な死に方であり、孤独な死だった。

 

 ここにおける愛は一方的なものである。音楽家は一方的に少年を見つめ、夢想し、頭の中では少年を犯しさえする。だが、音楽家の理想は手の先に留まったまま、彼はそこに到達できずに死んでいく。少年は音楽家が死んだ事を知っただろうか? …おそらく、少年は何も知る事はないだろう。彼は彼自身の美にも気づかないまま、顔も体つきも時間と共に変わっていく事だろう。それに、そこに気づいた所で意味はないのだ。

 

 人間は偶像を求める生き物であるから、それが中身の充満した存在だとがっかりしてしまう。今はタレントがしきりに大衆の求める像を演じようとしているが、それが中身のある生きた人間だと暴露されると、大衆はがっかりして引き下がってしまう。彼らに対して一番効力のあるのは空虚な人形、偶像であって、大衆は勝手に自分の幻想を詰め込める容器として、その対象を心底愛するだろう。しかし、そこには同時に空虚さや虚しさも同居しているに違いない。

 

 音楽家が死ぬラストシーンでは、映画監督としてのヴィスコンティの強烈な手腕が炸裂している。ダーク・ボガード演じる主人公は最後に、夏の暑さの中で、ダラリと髪染めの液を垂らして死ぬのである。この髪染めの液が思わずこぼれ落ちる様は、主人公の醜さを象徴している。この男が美を求めながら醜に移行する様を実に良く表している。

 

 カメラは、音楽家と少年の間を行き来する。音楽家にカメラが向いた時は、醜いままに哀れに死んでいく人間が映っているし、海辺が映されると、光のせいで影になった、美しいシルエットを晒している少年が映し出される。

 

 この対比の中に、あらゆる人間の人生が含まれていると大袈裟に言ってもいいだろう。全ての人間は、虚像としての美・真理と、それを求めつつそこにたどり着かない醜い自分との間の中で煩悶して死んでいく事になる。それは人生の象徴であって、美はたどり着けば美ではない。

 

 人間が求めるものは全てこのようになっていて、それを神のせいにしようと、「物自体」「語り得ないもの」と言ってみても、なんでもいいわけだが、とにかく人間はこのようにして生きる。人は美にたどり着かない。真理にもたどり着かない。夢は現実にならない。現代の夢がどれもこれもみすぼらしいのは、たどり着くような夢しかみないからだ。「ベニスに死す」という映画が美しいのは、それがたどり着く事ができない夢を見た映画監督によって作られたからであって、そういう夢を見た音楽家を主人公としたからだ。たどり着く事のできる夢は夢ではない。美は美ではない。

 

 この映画は全編、マーラーの「アダージェット」という曲で彩られている。これが滅びを感じさせるような、穏やかな哀調を含んだ曲で、この映画の魂と言ってもいいほどだ。(原作の主人公のモデルがマーラーだからという理由があるのだが)

 

 私自身の話だが、いつか、この「アダージェット」を聴きながら雑踏の中をうろついていた事がある。その時は丁度、夕暮れ時で、街自体がオレンジ色に染まっていた。私はこの曲を聴きながら、強い感動に襲われたわけだが、その時に、街を歩いている人々が亡霊のような、滅んでいく世界の中で何か無意味な、全く無意味な空虚な運動をしているように見えた。それら全体が一つの風景のように見えた。

 

 私はその時に、自分自身の死を考えたが、その時にはまだヴィスコンティの「ベニスに死す」を見ていなかった。映画を見るより先に「アダージェット」を聴いていたわけである。私は後から「ベニスに死す」を見て、アダージェットという曲にこの映画の印象がついて回るようになった。

 

 ゲーテは「対話」の中で、死というものは日没のようなものだと語っていた。人が死んでも精神は生きており、それは日が山の向こうに没するように、なくなったと思ってもただ何かが見えなくなっただけなのだ、と。死んでも続くものはあるのだとゲーテは死の間際で残しておいた。それを現代の我々は今、ここに生きている存在として読む事ができる。

 

 私はその時の日没の印象を誰にも話さなかった。それをここでこうして書く事に若干のためらいと気恥ずかしさを覚える。おそらく、私は間違っているのだろう。こんな風に自分の体験を話す事が。

 

 「ベニスに死す」のラストシーンでは、老音楽家は醜い哀れな死に方をする。その髪染めの液垂れは、光の中の少年と見事な対比になっている。私は、うろついている夕暮れの風景の中で、自分の醜さについてもっと思うべきであった。映画の事を映画を見るよりも先に知っておくべきだった。そうすれば、私の中で私が見た風景は完璧なものとなっただろうに。しかしこんな文章には何の意味もないと断言できる。

 

 映画は誰でも見れる。みなが映画を見るべきなのだ。この映画には我々が見るべき幻想を詰め込んで見る事ができる。そんな度量の大きな、偉大な芸術作品となっている。それで、私もつい自分の幻想をこうして柄にもなく詰め込んでしまったのだ。私は本来、違う事を語るべきであった。自分の醜さをもっと鏡に映して見るべきだった。しかしそんな私の醜さをもこの映画は反射鏡として私に見せてくれた。だからこそ私はこの映画を見て、安堵する事ができた。それがフィクションである事が、私を安堵させた。

 

 結局の所、我々が見る全ては、死の直前にあっては記憶というフィクションに還元される。そしてその時、その目に美しい少年が見いだされようと、この現実という冷酷な映画の中では、彼の醜さを写すカメラはこの世のどこにも存在しない。それでも我々はそういうものを象徴として「ベニスに死す」という作品に映し出す事が可能であるのだ。

 

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