魔術の訓練
アランは夢を見ていた。十に届かぬほどの幼いころの記憶である。
それは木々に囲まれた場所であり、枝葉の隙間からは温かい日が射し込む。風も穏かで、小鳥たちが歌っている。五感が大地に触れている感覚だ。そこでアランは初めて魔術というものに出会った。
切り株を椅子にして向かい合うふたり。ひとりはもちろんアランで、対面は髭を蓄えた老人だ。
手の皺、顔の皺、のみならず、身につけただぼだぼの貫頭衣にすら深い皺を作っている。長く白い髭を撫でつけながら、老人は口を開いた。
「さて、アラン様。今日は魔術について学んでいただきましょう」
アランはこくりと頷いた。
「魔術、魔法、呪術、呪文。言葉の違いはあれど、これら全て同じものだと思っていただいてもかまいません。枝葉の違いはありますが、根っこは変わらず、といったところですな」
剣の稽古は一年ほど前より本格的に始まった。アランは厳しい訓練があまり好きになれなかった。そして今日、また辛い訓練が始まるのかと内心落胆していたのだが、自分が想像していた稽古とはまるで違い驚いていた。
てっきり王都の養成所で行われるものかと思っていたのが、森である。いったいなにが始まるのかなにも想像がつかない。切り株の上で、なにやらあやしげな老人から、教えを受けるという状況が、絵本かなにかにある物語を想像させる。父上からやらされることで、アランは初めてわくわくしていた。
「言葉にはあまり意味はないのです。便利であるから名づけただけで、魔力というものはたしかにあるのです。生きとし生けるもの、例外なくです」
アランの知識では、魔法とは呪文を唱えることで、身の内にある魔力をなにかに変える、という理解だった。もしかしてこれはすでに枝葉だったのだろうか。
「なにはともあれ、感じてもらわなければ始まりません」
老人は手の平をアランの目の前に出した。アランはよく意味がわからず、ぼんやりとその手の平を見つめていたのだが、よく目を凝らしてみると、老人の手が青白く光っているように思える。
「なかなか筋がよいです。もう見えているようですな」
アランはさらにじっと見つめる。観察を続けるうちに、手の平全体が光っているのではなく、ほんの小さな光の粒が手から漏れ出ているのだと気がついた。
「これが魔力といわれるものです。霊気、精気、などと呼ぶこともありますが、まあ、このあたりでは魔力と呼ぶことが多いでしょう。さて、アラン様、この光に触れてみてください」
怖いような、おもしろそうな、どちらともいえないふわふわした心持ちでアランは指先をそっと伸ばした。光に触れている、ように思えるが、なにも感じない。
「もう少し近づけてみてください」
アランの手の平が老人と合わさった。
しわくちゃの手の感触があるだけで、やはりそれだけだ。
「ふむぅ。では、目を閉じて、手の平に集中してみましょう」
いわれた通り、アランはまぶたを閉ざした。手の平に集中しようとする。しかし改めてそうこうしていると、木々の葉がこすれる音、尻にあたる切り株のごつごつした感触、風に運ばれた草花の香りが邪魔をする。
手の平だけに気を集めるのはとても時間がかかった。感覚、意識をすべて集める。今のアランは手の平だけが生きていた。
すると、熱というか、粘り気というか、言葉にし難き感覚が、ほんの数瞬あった。
はっとしてまぶたを開けると老人がにこりと笑っている。
「はい。これが魔力です。今、アラン様は、たしかに魔術の一端に触れました」
老人は手の平をひっこめて立ち上がった。アランは名残惜しそうに老人の手の平を見つめている。
間違いなく、感触があった。ふとした瞬間、手の平に雫が落ちたような、そんな感覚だ。いまのアランはその雫の残滓を逃さぬように、何度も感触を反芻させている。
「感じることでしか魔術は学べません。アラン様、それをお忘れなきよう」
アランも立ち上がる。そして大きく頷いた。
「今日はまる一日魔術の稽古、という話でしたね」
こくりと頷くと、老人は一瞬空を見た。太陽の位置を確認しているようだ。大きく息を吸い込んで、ふうと一息つく。老人は両手をぱんぱんと叩いた。
「さあ、稽古です。日が暮れるまで、この森で遊んできなさい」
アランはびっくりした。それのなにが稽古なのか。
「感じることでしか学べないといったではありませんか。ゆえに、感じる稽古です」
そういって、老人はこほんと咳をする。アランの背の高さに合わせるように、腰を曲げた。
ささやき声でいわれたのは。
「本当はいけないのですけれどね。あちらにロレーヌ様がお待ちですよ」
アランが振り返る。すると太い木の陰から、ロレーヌの頭がひょっこり出ていた。こちらに気がついたようで、すぐにひっこめる。
「暗くなる前にここに戻ってくださいね」
にっこりと笑う老人に大きく頷いて、アランは走り出した。