終着駅の虎
星屑による星屑のような童話。お読みくださるとうれしいです。
ひだまり童話館第11回企画「さらさらな話」参加作品。
(あれは、私がまだ赤ん坊のときだった。もう、二十年もたつのか)
黄色と黒のしま模様の毛皮を身にまとった雄の虎、「シャクシャリ」は思いました。
ここは、人里離れた山奥にある、かつての終着駅の近く。
片手で数えられるほどの数でしたが、この駅にも毎日毎日汽車がやって来て、人々が乗り降りしておりました。
ですが、それも今は昔です。
人がいる間はそれなりのにぎわいを見せていた駅舎も、列車が来なくなって久しい今は、しょぼくれた廃墟と化しています。
壁のところどころに穴が開き、背の高い草で建物は半分埋もれていました。
シャクシャリにとって、それはずいぶんと見慣れた光景でした。
なにせ、もう10年もこの景色を見続けているのですから。
駅舎を見渡せる、少し離れた高台に身を横たわらせたシャクシャリは、朝から日の暮れるまで、一日のほとんどの時間を駅舎を眺めるのに使います。
といって、全く動きがないわけでもありません。
風が時折り吹き抜けては、あたりの草木を、さらさらと音を立ててなびかせるのです。
そんなとき、シャクシャリは決まって少しだけ首をもたげ、そちらを見やりました。
けれどそこに、何かがあるはずもありません。
それが分かったシャクシャリは、ごろろと太い声のため息をついたあと、何事もなかったかのように、元の恰好に戻るのでした。
こんな毎日の繰り返しのシャクシャリですが、最近はめっきりと体力が落ちたと感じるようになっていました。
うつらうつらとすることが多くなって、夢を見ることが多くなったのです。
そして今、シャクシャリは夢の中で20年前の出来事を思い出していました――。
☆
まだまだお母さんに甘えたい盛りの、シャクシャリ。生まれてから1年もたっていない、小さな赤ちゃん虎です。
でも、今のシャクシャリは、おなかがペコペコでした。
昨日の昼に狩りに出かけて行った母虎が、それきり帰って来なかったからです。
(もう、帰って来ないのかな……)
シャクシャリがそう気づいたのは、お母さんの虎がいなくなって丸一日たった、昼下がりのことでした。
お母さんが出かけたしばらく後に聴こえた、何かが“ばん”と爆ぜる音。
その後、あたりに漂った吐きたくなるような焦げた臭いが、シャクシャリの鼻の中に、まだ残っています。
小さいとはいえ、シャクシャリも虎。生きるためには、いつまでもすきっぱらを抱えたままではいられません。
くいと顔を上げたシャクシャリが、空をにらんだまま、よろよろと立ち上がりました。
そのときでした。
シャクシャリが、忘れもしないあの人――カチュラに初めて会ったのです。
(これが、お母さんの言っていた人間? 恐ろしい、人間……)
でも、母虎から聞いていた人間の様子とは、だいぶ違っていました。
思ったより体が小さいし、なにより、そのお月さまのような笑顔が、ふんわりとやさしかったのです。
「わあ、こんなところに、赤ちゃんの虎がいる! どうしよう……噛みつかれちゃうかな?」
そのあどけない感じから、どうやら目の前の人間が自分と同じ「子ども」なんだとシャクシャリが気付いたとき、少年が、小さなシャクシャリを抱え上げました。
――ふわり。
思いもよらぬことに慌てたシャクシャリは、そこから逃れようと少年の腕の中でもがきました。けれど、人間の子どもの腕の力にかないませんでした。
とそのとき、自分を抱いた少年が甘ずっぱい果物のような、そんな不思議とやさしい匂いがすることに、気づいたのです。
(これが……人間の匂い? やさしい……匂い?)
匂いに気を取られ、もがくのをやめたシャクシャリを、少年がぎゅっと抱きしめます。
「ひとりぼっちだなんて、可哀相に……。ということはもう、この子のお母さんはきっと――。
うん、わかった。これからは、ぼくがキミのお母さんになってあげる!
……ぼくの名前は、カチュラ。よろしくね!」
少年の言葉の意味がよく分からないシャクシャリは、ただ黙ってカチュラの顔を見上げました。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
シャクシャリをそっと草むらの上に降ろしたカチュラが、ふいと姿を消しました。
一瞬、気持ちが暗くなったシャクシャリでしたが、しばらくしてカチュラが両手でやっと抱えるほどの木箱を抱えて戻って来ると、ほっと安心のため息をつきました。
「これが、キミのおうちだよ。ぼく、これから毎日キミのごはんを持ってくるからさ、ここで待っててね。それから――」
少しの間、首を傾げて考えていたカチュラでしたが、ちょっとだけ頬を赤くして、言いました。
「今日から、キミの名前はシャクシャリだよ。強そうでいい名前だと思うんだけど……気に入ってもらえるかな?」
(名前――? ぼくの――?)
小さなシャクシャリが、カチュラの頬をぺろぺろとなめました。うれしい気持ちを伝えたのです。
カチュラの顔に、たくさんの微笑みの花が咲きました。
「気に入ってくれたようだね! じゃあ、これから毎日来るからさ……。とりあえず、これは今日の分だよ。こんなのしかなくて、ごめんね」
カチュラは、ズボンのポケットからたくさんのキャンディを取り出し、シャクシャリの目の前に並べました。
シャクシャリは、草の上の赤や黄色や水色のキャンディーに鼻を近づけ、匂いを嗅ぎました。そして、おそるおそる赤いキャンディーを口に含んだシャクシャリが、一度、「ぷぎゃあ」と猫の悲鳴のような声をあげ、勢いよくそれをしゃぶり出しました。
「じゃあ、また明日ね!」
カチュラは、キャンディに夢中なシャクシャリを残し、自分の住むところへと帰って行きました。
それから毎日。カチュラは、シャクシャリのいるこの場所にやって来ました。
ミルクにソーセージ、パン……。
家にあるものをお母さんの目を盗んで持ち出しては、ズボンのポケットに入れて運んでくれるカチュラ。
それはもちろん、シャクシャリにとって一日のうちの一番の楽しみでした。
その日、あそび回ってどんなにくたくたになっていても、カチュラがやって来る夕方の時間には必ず元の木箱の場所に戻って来て、カチュラを待ちます。
そんなことが続いた、ある日のことでした。
カチュラが、いつもの食べ物と一緒に、ちょっと太い紐のようなものを持ってきたのでした。
「これはね、猫用の首輪なんだよ。友達から、もらったんだ。シャクシャリの名前を刻んでおいたから、首につけてもいい?」
カチュラはそう言って、手に持った茶色の革バンドをシャクシャリに見せました。
当然、その文字はシャクシャリには読めません。
ですが、どうやら人間の文字で自分の名前がナイフで掘られ、そこに黒く色を付けられていることだけはわかりました。
シャクシャリが、ヒゲをぴんと立てました。
それは、最近シャクシャリがよくやる、カチュラのいうことに同意した印なのです。
「いいんだね? じゃあ、つけるよ。……あれ、キミ、思ったより大きくなったみたいだね。皮のバンドが短くて、首に付けられないや」
そう言うと、カチュラはシャクシャリのふさふさした長いしっぽに、バンドを付けました。
それを見たシャクシャリが、ぴん、とヒゲを勢いよく伸ばします。
「ありがとう。じゃあ、また明日ね!」
カチュラは、足早に家へと戻って行きました。
それからまた何日もたった、ある雨の日のこと。
いつものようにやって来たカチュラの瞳が、しっとりと濡れていたのです。
それが雨つぶのせいなのか、涙のせいなのか、シャクシャリにはわかりませんでした。
いつもと違い、大きなバッグを背負ったカチュラ。
ポケットから出したパンを草の上に置き、瓶に入ったミルクを皿の上に開けると、すぐにミルクに口を付けたシャクシャリの背中をさらさらとやさしくなでました。
「大きくなったなあ、シャクシャリ。もう、ぼくがいなくても、大丈夫だよね……。
実はさ、ウチの家、引っ越すことになったんだ……。もうすぐ、あの駅から出発する列車に乗って、もっと大きな街に住むんだよ」
うつむいた、カチュラ。
シャクシャリも、さすがにこのときばかりは、ヒゲをぴんと上げられませんでした。
「ごめんよ……。でも、絶対に帰って来るから……列車に乗って、絶対また来るから!」
ぐるる……。
以前と比べ、ずいぶんと太くなった声を出したシャクシャリを振り切るようにして、カチュラが、駅へと向かいます。
どんどんと小さくなる、その背中。
その姿が見えなくなったとき、涙の流し方の分からないシャクシャリは、目を伏せたままゆっくりと、その白いヒゲを立てたのでした。
☆
シャクシャリは、カチュラを持ち続けました。
森の寝床で目を覚ますと狩りをして、その後、高台の場所にやって来ます。そして、駅を行き交う人々を遠くから眺めては一日を過ごし、夜になると、寝床へと戻りました。
毎日毎日、その繰り返し。
けれど、カチュラはあの後、一度も姿を見せたことはありませんでした。
それでも彼を待ち続けるシャクシャリは、見た目には、すでに立派な大人の虎になっていました。
たくさんの日が過ぎて、あれから10年ほどがたったときでした。
元からたくさんの人であふれるような駅ではありませんでしたが、ある日突然、人々の姿がまったく見えなくなったのです。
(急に、人がいなくなった。どうしてだろう)
シャクシャリがそんな風に考えながらいつもの高台で駅を眺めていると、近くを二人連れの人間の男が歩いているのが見えました。二人とも、シャクシャリが今まで見たことのない、黒光りする鉄の棒がついた長細い道具を、肩からぶらさげています。
思わず、シャクシャリは息をとめて、石のようになってその場に身を潜めました。
それはもう、虎の本能でした。
耳を立て、感覚をとぎすませた、シャクシャリ。
男たちの会話が、聴こえてきました。
「駅がなくなっちゃったら、このあたりは本当にさびしくなるな」
「……ああ。それこそ、獣が住むだけの場所になっちゃうだろうね」
(駅が――なくなるだって? カチュラが、ここに来れなくなるじゃないか)
体を動かしてしまいそうになったシャクシャリでしたが、なんとかそのまま、人間たちをやり過ごしました。
シャクシャリが、がっくりとうなだれます。
この10年、感じたことのなかった深い深い、さびしさ。
母からもカチュラからも教えてもらえなかった涙の流し方が、このとき初めて分かったシャクシャリでした。
それから、また10年が過ぎました。
シャクシャリは、おじいさんの虎になっていました。
あたりはすっかり人気がなくなり、あちこちで背の高い植物がはびこるばかりです。
それでも、シャクシャリはカチュラを待ち続けました。
――約束。
虎として生まれた自分が、最初で最後になるであろう交わした約束を信じたい――そんな一心からなのでした。
☆
――シャクシャリが、長い夢から目を覚ましました。
寝ぼけまなこであたりを見回すと、夢まぼろしか、駅舎の方向に何人かの人の姿が見えました。
久しぶりに見る、人間の姿。
それをなつかしく思ったシャクシャリは、思わずしっぽを振って飛びつきたい気持ちになりました。けれど、そこは森の王者です。
野生の血が、それを許しませんでした。
息を潜ませたシャクシャリが、人間の会話に耳を傾けます。
「どうして俺たちが、こんな危ない目にあわなきゃいけないんだろう」
「ああ。この辺りに人食い虎が出るっていうのは本当らしいしな」
「おお、こわっ! とっとと、罠を仕掛けて帰ろうぜ」
「10年前にここの駅が廃止されたのも、その人食い虎のせいだっていうしな。食われる前に、早く帰ろうか」
大きな虎一匹がちょうど入れそうな鉄格子の檻を、数人の男たちが今は使われなくなった駅舎の近くに運んできました。
檻の奥には、大きな鳥肉の塊が、ぶら下っています。
仕事を終え、人里へと戻っていく人間たち。
彼らがいなくなると、耳が痛くなるほどの静けさがあたりに戻りました。
(人食い虎って……誰のことだ?)
意味が分からず、しばらく動くことができなかったシャクシャリがよろよろと立ち上がり、檻へと近づいていきます。
(駅が使われなくなったのは、私のせいだということか?)
一歩、また一歩。
シャクシャリが、冷たく光る鉄格子に向けて歩みを進めます。まるで狩りをするときのように、足音を立てずに。
(それなら、カチュラがここに来れなくなったのも、私のせいだ)
10年ぶりの涙で、前が見えなくなりました。
それでも勇気をふるったシャクシャリが、顔をぶるぶるとふるわせて涙を宙に飛ばし、前へと進みます。
やがて見えた、ぽっかり空いた檻の入り口。
シャクシャリは、そろそろとそこから中へと入り、そこで身を横たえました。
(人間になど、一度も手を出したこともないこの私が、人食い虎とは……)
ぶら下がった肉に、かぶりつく力も出ません。
肉に触れなければ、入り口が閉まる罠の仕掛けは動かないのです。檻の入り口は、ずっと開かれたままでした。
(もう、私などどうなってもいいのだ……。早く、捕まえに来てくれ……)
ところが、何日たっても人間たちはシャクシャリの前にやって来ませんでした。
いえ、本当は近くまで来てはいたのですが、入り口が閉まっていない状態に恐れをなし、檻まで来られなかったのです。
そんなことが、何日も何日も続きました。
何も食べないシャクシャリは、どんどん弱っていくばかりです。
それでもシャクシャリは、肉に見向きもしませんでした。ただただ目を閉じ、かつてのなつかしい駅の様子を、夢の中で思い出しています。
そんなときでした。
どんどん色が薄くなっていく意識の中で、あの、なつかしいカチュラの姿を見たのです。
(夢? ……いや、まぼろしか?)
シャクシャリは、夢の中のカチュラが急に成長し、大人になったのを感じました。
(もう、夢でもまぼろしでもいい……。これで、幸せな気持ちで天国に行ける)
シャクシャリは、天国の神さまが最後にいい夢を見させてくれたのだと思いました。
しかし、夢はそれで終わりませんでした。
愛しいカチュラが、シャクシャリに向かって叫んだのです。
「間違いない、シャクシャリだ! 君は、シャクシャリだろ?」
シャクシャリは、最期の力を振り絞って目を見開き、鼻をくんくんさせました。
(この匂い――間違いない!)
今、なつかしいカチュラがここにいるのです!
あれから20年がたち、大人になったカチュラが、目の前にいるのです!
(カチュラ……)
その思いは、一頭のやせ細った虎からひびいた、力のないうなり声となりました。
シャクシャリが、またぐったりとなって、目を閉じます。
「シャクシャリ……。最近、かつての終着駅近くにいるという虎の噂を聞いたんだ。しっぽのベルト……間違いない! やっぱり、キミだったんだね!」
シャクシャリに、カチュラの問いかけに答える力は、残されていませんでした。
けれど、シャクシャリが大事に大事にしていたからなのでしょう――黒ずんで、ぼろぼろになっていましたが、ちゃんと残ったしっぽの革バンドが、虎がシャクシャリであることをカチュラに教えてくれたのです。
「ごめんよ、シャクシャリ。今まで、会いに来れなくて。
あれから、君はきっと自然に戻っていったと思っていたんだけれど、ちがったんだね……。ずっと僕を待っていてくれたんだ……。ごめん、ごめんよ、シャクシャリ!」
シャクシャリの痩せた体にしがみつき、子どものようにカチュラが泣き叫びます。
その手が、さらさらとした虎の毛並みを、やさしくなでました。
「……」
シャクシャリは、声にならない声でお礼を言うと、カチュラの手を舌でちょろっとなめて、弱々しくヒゲを立てました。
「シャクシャリ!」
こうしてシャクシャリは、最愛の友の腕の中、幸せいっぱいな気持ちでその生涯の幕を閉じることができたのでした。
― おわり ―
お読みいただき、ありがとうございました。
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