クリスマスコンサート
かのトーマス・マンはその作品「魔の山」の冒頭でその主人公「ハンス・カストルプ」を単純な青年と評した。もちろん、これに倣った訳ではないが,ここでの主人公を評するとなれば「もてないやつ」あるいは「さえないやつ」か。そうでありつつ、自己性愛は失っていないのだ。 さて、おりしも降誕祭の季節を迎え,街にはそのイルミネーションやクリスマスソングで溢れていた。明日は聖夜。それが過ぎ去った途端,それらの装いも迎春へ変わるのであろう。そういった事柄はさして毎年同じであるというのにこの男、妙に想いに耽けてしまっていた。
明けて出勤すると同僚の女性は何食わぬ顔で勤しんでいた。一目で作為だと察し、きっと去年の様に聖夜の女子会ではなく今年はリベンジを果たせるものだと悟った。彼はそんな彼女がさぞ嬉しいだろうとの想いから敢えて聴いてみてあげた。そうして彼女もそれに呼応して「彼と共にホテルで過ごすつもりです。」と破顔で答えてくれた。そんな風に屈託なく答える彼女にある意味健全さを感じずにはいられなかった。その彼女に較べ我主人公は昨年と同じくワンルームの一室でフォーレのレクイエムを聴きながら一人で過ごすのであろう。何よりもその禁欲な音楽はイヴにふさわしくあったからだ。
やがて終業となり彼は帰途についた。駅までの道すがら何時もの病院の前を通った。そういえば今日ここでクリスマスコンサートが催される。実はSNSを通じて彼がひそかに応援するソプラノ歌手が出演する事を知っていたのだ。彼は好きなアメリカのドラマで悩める男が救いを求め街の教会をふと訪れるシーンを思い出した。もちろん,救いを求めてのものでは無かったが幾分かの聖夜の情緒に接することが出来ればとの想いから寄る事にした。
その会場である一階のロビーのソファーに腰掛けるとよく会計が終わるまでこの様にして待ったものだという感慨に耽った。実は数年前までここに通院していたのだ。だからか看護師からその日のプログラムが手渡されるものの、何の縁もなくなった今やこうやって鑑賞するのは、どことなく厚顔である様に思えてきた。何せこれは入院している方のために企画されたコンサートゆえに。
それもこれも、自分の人生がこんな具合に風采があがらなくなったのはこのときの病気が遠因であったからだ。やはり二十代台前半の大病は少なからず影響した。何分一番がむしゃらに働かねばならない時期だったため上司から使いものならないやつだと疎ましがられたのだ。だがこういった事象のおかげで自然と心を閉ざすようになり、これに呼応するかのように周りも彼から遠ざかっていった。だが決して抗おうともしなかった。そう、受容し諦観を感じるのみだった。
やがてコンサートが始まった。選曲は誰しもが楽しめるスタンダートなクリスマスソングやカンツォーネが歌唱された。ふと聴衆を眺めると老若男女の患者たちが思い思いにその心地よさを楽しんでいる。一方、それに較べ自分はどことなく醒めているのではと考えてしまった。もちろん、これは一つの自己防備であった。そう、とにかく怜悧を装うという。
「最後に小児科病棟に入院されている皆様から花束をお贈りします。」
主催者である看護師長からそう告げられると年端もいかない子供たちが歌手や奏者に花束を手渡していた。そんな彼でもあっても幼くして入院を余儀なくされている子供らの姿を見ると、思わず涙ぐむのだった。それは自身も入院し、病身の苦しさを知っているだけに、幼いがゆえその心持が如何ばかりかとこらえきれなくなったわけである。
ふと思い出す。自身が退院後して暫くして外来で受診したときことを。未だ入院されている同室の方とこのロビーで会い,「若いんやからもう二度と無理したらあかんで」と優しい言葉を掛けられ無性に泣いた事を。
やはり来てみてよかった。機微に触れられたのだから。男は小さな幸福感に浸りそこをたった。