桜闇姫~闇鵺小話~
八、
夕闇が舞い降りた〈桜の間〉を、開け放した戸口にもたれかかって、榊は見つめていた。正確には、その中心に植えられている桜の樹を、である。
この館の主が独りになってからは、観桜の宴も絶え、花の季節にも関わらず、この庭は静けさに埋もれている。かがり火も灯されず、星明かりしか照らすもののないこの庭では、夜目にもうっすらと浮かび上がる桜花くらいしか、目に映らない。周囲は、鬱蒼と茂った木々によって、闇が深まるばかりだ。館から漏れる灯りを背に、榊は暗天に広がる巨大な白い塊を見つめ続ける。
闇に浮かび上がるその花塊は、昼とは違った美しさがある。昼の光の元では、誰の目にも優しい可憐なその色。風に踊る花弁も楽しげで、心浮き立たせてくれる。それが、闇の中では、不吉な程に白く、まるで得体の知れない妖しのモノを潜ませているように人の畏れを誘う。一斉に散る様に人は、己の魂を呑まれてしまう恐怖を味わいながら、その虜になることを喜びとも思うのだ。
昼と夜とでここまで印象の違う花も珍しいと、榊は口の端を歪めて自嘲気味に笑った。
そんな所まで、あの人にそっくりだと思ったのだ。彼女に、この花の名をつけた先代当主の慧眼には恐れ入る。 まこと、あの方には相応しい御名だ。
もうじき、月が現れる。その時を、榊は何をするでもなく待っている。嫌いだと思いながら、考え事をする時や仕事の前には、いつもこの場所に足を運んでしまう。なにか事が起こるのはいつもこの場所だからなのかもしれない。希望も、夢も、絶望も、過去も、そして救われない今も、全てここから始まる気がする。
(三年前のあの夜も……)
彼と彼女の宿業が定まった、あの一夜が、断片的に蘇っては消えた。
頭を振ってその光景を振り払うと、今度は、昼間思い出しかけたもっと昔の光景が浮かび上がってきた。かつては日常であり、永遠に続くと信じていた、幸せな子供時代の光景。
そして、今にして思えば、あれもまた、忘れ得ぬ運命の分岐点だったのだ……。
* *
「榊、私たちは親友だね?」
分かりきったことを確認するような問いに、榊は大人しく頷いた。
『自分は使用人の子ですから、身分が違います』と答えて、大層彼を怒らせてしまったことがあったので、それからは何も言わずに頷くことにしていた。
草の上に運び出した異国製の長椅子に腰を下ろした彼を、榊は斜め後ろに控えて見下ろしていた。
黒髪黒瞳の、この国に最も多い色彩をまとった彼は、未だ少年にも関わらず、既に大人の目をしていた。線の細い優しげな顔立ちに似合わない、鋭く暗い目。彼がこんな目を見せるのは自分といる時だけだ。そして、そんな目をしている時の彼が考えていることは、常に一つだけなのだ……。
(また、なにかあったか)
『私達は親友だね?』
最初にそう尋ねられた時、彼は、裏切ったら許さないと燃えるような眼差しで念押しした。お前だから話すのだと。自分の深く暗い胸のうちの決意を。
その時から、彼にとって自分は乳兄弟で最も近しい使用人から、親友であり彼の意を汲む懐刀へと変わったのだ。自分にとって彼は、大切な主人であることには変化はなかったが…。
奥津樹家の一の皇子、梧桐。
この柔弱そうな外見にも似合わず、巷ではなかなかの「器」だと言われていた。数年後には当主を継ぐことになる少年である。
「梧桐様、お茶を」
「ん…。なんだ、今日はお前が煎れたのか?」
斜め後ろから差し出された茶碗を受け取りながら、梧桐は目を見張る。
「桜に怒られるぞ」
彼らだけの時は、いつも、その役を他人に譲ろうとしない小さな妹の名を口にする。
「ご心配なく。今日のものは海の向こうから取り寄せた茶ですから、好きなように淹れていいと言われています。それに……お邪魔するのもなんでしょう」
そう言いながら、目線で促した。
目に染み入るような緑と午後の日差しの中で、女の子が小鳥と戯れている。手にした小さな餌入り箱を目当てに寄って来る鳥たちに取り巻かれ、可愛らしい声をあげて笑っている。その姿は小さな天の使いのようだ。白い羽根が本当に背に生えているのではないかと錯覚してしまう。
「お兄さまー」
彼らの視線に気づいて、大きく手を振る。
梧桐はそんな妹を眩しそうに見つめて、手を振り返した。
「無邪気なものだな」
そう、心底愛しくて仕方ないように微笑む。
「桜にはずっと、あのままでいて欲しいものだ」
一転して暗い声で呟いた主人を、榊は気遣わしげに見下ろした。
「梧桐さま?」
なにがありました、と促すと、梧桐はすぐには答えずもう一度、同じ言葉を口にした。
「榊、私達は親友だな?お前だけは、私の味方をしてくれるな?」
「はい」
「〈春風の宮家〉ではなく、この私個人に?」
「今更なにをおっしゃいます。次期当主のお世話をするようにと召し出されたのは、今のご当主。そのご恩はございますが、今私がお仕えしているのは梧桐様お一人です。私たちは共に育った仲ではございませんか。そう何度も申し上げました」
主人の意図が読めぬまま、榊は言葉を繰り返す。何かで神経質になっているのだ。こういう時は余計なことは言わずに安心させてやるのがいい。そうすれば、彼は自ら語りだす。
「そう、そうだね。私の唯一の望みを知っていてくれるのは、お前だけだものね」
梧桐の望み。その願い。
「桜だけは、幸せにしてやりたい」
この「恐るべき」家に生まれて、長子として、与えられた現実をただ黙って受け入れてきた梧桐。その彼が持った、ただ一つだけの譲れない意志。何があっても守り通そうと誓った存在。
それが桜だ。
ただ一つの心の拠り所である妹を彼がどれほど大切に思っているか、どれほど愛しているか、榊はよく知っている。それはもう、異常と呼べる程。
だが、桜を見ているとそれも仕方ないかとも思える。あの純粋無垢な笑顔で名を呼ばれると、榊ですら、この存在の為なら命をかけてもいいと思うくらいだ。この家の中で、唯一心を許せる兄妹として生まれ、幼い頃から肩を寄せ合うように生きてきた梧桐にしてみれば、目に入れても痛くないだろう。
「桜だけは、幸せな姫のままでいて欲しいんだ」
梧桐は、日溜りの中で笑う少女を目で追いながら、続ける。
「純真なままで。あのままの優しい娘のままで。そうして、普通の姫君としての幸せを掴ませてやりたい。あの子だけは、何も知らずに育って欲しい。自分がどんな家に生まれ、その家が代々何をしてきたか……。知らないまま、ここを出してやりたい。あの手に刃を握らせることなどないように。あの笑顔が、苦しみに歪むことがないように。あの子だけはこの家の暗い運命から必ず守り抜いてみせる。その為なら私はどんなことでもしよう。己の手が血まみれになろうとも、たとえ……たとえ、肉親の血を流してでも」
「梧桐さま!」
顔色を変えて遮った榊を、くすりと笑ってなだめると、
「誰もいない。確認済みだ」
普段は穏やかな梧霧の眼差しが、しん、と冷えた。顔から笑みが消え、そこに残ったのは仮面のような無表情だ。それが、怒りを押し殺した顔だというのを知っているのは、榊一人である。榊もすぐに表情を取り繕うと、館内から見られても不審を抱かれないように、前を向いたまま囁いた。
「何が、ございました」
梧桐は、飲み込みの良い側近に満足したらしく、押さえた声音で一言、告げた。
「父上が、桜を次期当主にしたがっている」
咄嗟に、言葉が出なかった。
まさかという思いと、来たかという思いが、交錯する。
「父上が、以前から桜を狙っておられるのは知っていたが、どうやら本気で乗り出すようだ」
「そんな…。配下の者たちが承知致しません。既に次期当主としてあらゆる教育と技を修められ、実績も積んでおられる梧桐さまがいらっしゃるのに」
そう、梧桐が血の滲むような努力をして「裏」の配下たちを納得させるだけの技量を身につけたのを榊は知っている。
それもこれも、愚鈍な後継ぎとしての謗りを受けない為。ひいては桜の為。彼が当主として相応しくないとなれば、桜が担ぎ出されるかもしれない。彼女には指一本触れさせないと決意した梧桐が、桜に目を向けさせないためにどれ程、苦労したことか。そして、その苦労は報われていた。彼は今や次期当主としての支持を不動のものにしている。
ただ一人、現当主、藤胤を除いては。
「いったい、何がご不満なのでしょう。そもそも、あの桜さまの何処が相応しいとおっしゃるのか、私には分りません」
虫も殺せぬ、刃物ひとつ握れぬ、深窓の姫君として育まれた彼女を、よりにもよってこの家の当主になど。
家元としての奥津樹家ではない。
もう一つの、奥津樹の当主に、など。
「分らない。既になんらかの『試し』をしたのかもしれない。この私の目を掠めて、ね。それとも事あるごとに歯向かう生意気な息子を腹に据えかねているのか」
その程度の理由ならいいのだけれど、と皮肉げな笑みを口元に浮かべる梧桐だ。
「いずれにせよ桜は渡さない。あの男の手になど、この家になど、決して!あの子に、血塗られた修羅を歩ませたりはしない。その位なら、この私が……!」
「梧桐さま……」
無表情の仮面の下で、胸を掻き毟られるような激情を必死で押さえている主人を、榊は辛そうに見つめた。
梧桐は目を閉じると、
「榊、私は当主になる。たとえ、父上を倒してでも」
静かに謀反の決意を口にした。
「桜を『鵺』の頭などにしない為に」
協力するな、と念を再び押されて、榊は遠く――羽根に埋もれた汚れなき少女の姿を見やった。
梧桐と共にずっと側にあってその成長を見守ってきた、彼自身にとっても大切な少女である。
「…もちろんでございます。たとえ、志半ばで貴方が倒れられるようなことがあろうとも、桜さまは私が必ずお守りします」
梧桐は、心強いと嬉しそうに頷いた。
これが、二人の誓い。
このすぐ後に梧桐は当主の座を継ぐ。そして、数年後。
あっけなく破られることになる、誓いであった……。
あの時は、そんなつもりはなかった。
本気で誓ったのだ。
それは真実。
ただ、あの後。
知ってしまった時から、榊の中の運命が狂い始めたのだ。
何故、藤胤があれほど桜に執着したのか。その理由を理解してしまった時から。
* *
「榊……?」
ふわりと羽のように柔らかく名を呼ばれ、声をかけられるまで気づかなかった己に驚きながら、榊は顔を上げた。
館内を明々と照らしていた灯火は、何時の間にか落とされていた。自分が真っ暗闇の中にぼんやりと佇んでいたことを知る。白い桜の枝に、手燭のようにかかっている朧な月。
もうそんな時刻だったかと、過去を想う時にはつい自失してしまう己を嘲笑った。
『桜の木の下には、魔が潜む』との口伝通りに、榊の瞳には、桜を背景に従えた美しい少女姿の魔物が映っていた。
「桜さま……」
黒衣の着物に真紅の帯が、まるで鮮血のように瞳に焼きつく。
暗闇の中でも朧に浮かび上がるその白い美貌は、石膏像のようにひんやりとして見える。それが、唇だけをふっと引き上げて微笑むと、零れ落ちる花弁のように甘く印象を違える。
(この笑みだ)
今では、だいぶ慣れたとはいえ、触れたいと思う心を抑えがたいほどの魅力。それは既に魔力とも呼べる。初めてこれを目にした時から、運命は狂い始めたのだ。
きっかけは、なんだったろう。
確か、梧桐に叛意を翻そうとした側近の密談を偶然、桜が見てしまったのだ。その時、榊だけをこっそりと呼び寄せ、まだ幼子だった彼女は告げたのだ。
『お兄様の手を煩わせる程の者ではないでしょう。榊、始末して』
何も知らない筈のあどけない少女は、その時初めてあの微笑を浮かべ、
『お兄様に仇なす者は許さない』
そう、言い放った。そして榊に、裏切り者抹殺の命と、その為の策を授けたのだった。十数人を闇に葬る、血生臭くも完璧な策を。
十にも満たない子供、しかも蝶よ花よと育てられた姫にできることではなかった。いつもは小枝一輪手折るのも躊躇うような少女だというのに。
やはり、この方の中には奥津樹の血が流れているのだ。それも、最も濃く凝った血が。
そう思い知らされた。どんなに抑えても抑えきれない程、深い身体の奥に。逃れようもなく濃い血脈が受け継がれているのだ。それを、藤胤は知っていたに違いない。だから桜を欲した。
そして榊もまた。
ただ一度きり。あの時の一度きり見た、彼女を忘れることができず……。
(私は、約束を守れなかった)
否、守らなかったのだ。
この気持ちは、最後まで梧桐には分らなかっただろう。自分でも、分るほうがおかしいと思う。
もう疾うに狂っているのかもしれない。この汚らわしい、魂は。
(それでも私は……)
「何を考えているのかしら」
桜が歩み寄って来た。
真珠色の目が、分かっているというように、笑みを含んで艶めいている。
「榊、行くわよ」
華奢な白い指が差し伸べられた。
「桜さま…」
この指が、手が、深紅に染まる。その様を思い浮かべる。すると、哀惜と悦楽とが同時に胸に去来して、思わず差し出された手を胸に押し抱いていた。自然と膝をつく。
「榊……?」
(まったく、矛盾だらけだ……この心は)
皮肉に笑った彼の口元に、桜の自由な方の指が触れた。輪郭をそっとなぞり、頬を愛撫する。愛しまれていると錯覚してしまいそうな、優しい接触。
胸の痛みを懸命に押し殺しながら、振り仰いだ榊の目に、穏やかな月光色の眼差しが映った。宝玉のような瞳はただ美しいばかりで、その奥に潜む思いを表には出してくれない。
「桜さま……?」
声を発すると、あっという間に、桜は彼の手から擦り抜けた。泡沫の交わりは、僅かに頬に残された温もりだけ。
既にいつもの笑みを浮かべた桜は、再び指先だけで彼を呼んだ。
榊は立ち上がると、影のように少女の背後に滑り込んだ。常に彼の為に空けてある場所に。
月光の中を桜が一歩踏み出すごとに、一人、二人、と付き従う影が闇から湧き出し、集う。
「姫さま、蔦以下三名、お召しにより参上致しました。他にも数名、先に阿波の屋敷へ差し向けております」
「ご苦労様。参りましょう」
ふふ、ふふふふふふ
くすくす、くすくす
寝静まった春風の館に、微かな笑い声を残して、鵺たちは姿を消した。
* *
本当に、馬鹿だ。
安土は、吐き捨てたい衝動を抑えながら足を速めた。今はそんなことを口に出している暇もない。ただ、ひたすら急ぐだけだ。
「何故じゃ、どうしたのじゃ、急に!?」
背後で、訳が分からずうろたえているらしい女の声が、さらに胸を悪くさせる。
ここまで愚かだとむしろ悲しくなる。振り向いて女の顔を確認するのすら虚しい。見たくない。かつて愛した面影が微塵も残っていないその顔を、見たくない。
だが、安土の意思は尊重されなかった。
女は彼の正面へ回りこみ、外へ出る為の硝子戸をがっちり背中に匿ったのである。女も必死だ。それもそうだろう。いきなり何の説明もせずに契約を放棄すると言い出して、一刻も早く立ち去ろうとしたのだ。彼女には安土の豹変が理解できない。
「なんなのじゃ!勝手は許さぬぞ」
後ろ手で錠を下ろし、
「一言の謝りもなしか!それが闇の元締めのやり方か!?せめて、説明なりなんなりいたせ。口を開くまで、ここから帰さぬぞ!」
髪が乱れて、必死の形相を彩った。射殺すように、睨みつけてくる。
「奥方様、私は手をひかせてもらいます。ここにいれば己の命も危うい。貴女に付き合って心中は御免だ!」
言い合っている暇はないのに、と苛立ちが声に現れた。―――と、女の眼差しが揺らいだ。急に萎れた花のように、生気が失せる。
「何故、何故なのじゃ……。わらわの何がそんなに気に食わぬ。そなたにとっては、説明する気も起こらぬほど価値がない……というのか」
「靖子殿……」
安土は初めて女の名を呼んだ。何十年か振りに口にする名だった。口にしてみると、ふいに感傷が彼を襲った。言うつもりなどなかった忠告が零れる。
「靖子殿、貴女もここから逃げなさい。一刻も早く」
「何を言って……?」
「闇鵺は恐ろしい組織です。貴女が考えているほど、甘くはない。貴女は、彼らを裏の国王親衛隊くらいにしか思っていないかもしれないが、我ら裏の世界の人間はあそこの怖さは骨の髄まで叩き込まれている。暗殺などという暴挙に出たからには、貴女は確実に消される。それも直ぐに。そして知らなかったとはいえ、手を貸した私も……。私はこれから身を隠す。貴女も身一つで、どこか遠くの地へお逃げなさい。一刻も早く」
「何を言っておるのじゃ。本家を手に入れるどころか、わらわに今の地位も捨てて、負け犬のように逃げよと申すのか」
「靖子殿!」
「ええい、冗談ではない!臆病風に吹かれたか!あのような、年端もいかぬ小娘一人に……!」
「靖子殿!」
安土は、両手で靖子の肩を掴んだ。かつて抱き寄せた時よりも、ふくよかなその感触。もはや、昔を彷彿とさせるものは何もなかった。それなのに、安土は叫んでいた。
「相手が悪い!何故、分かってくださらぬ!私は……私は……貴女が殺されるのを見たくない!!」
はっと口元を押さえたが、もう遅い。
(何を、私は…何を言っている!?)
安土は自分で自分の言葉にうろたえた。
「安土……」
靖子も、我が耳を疑う顔だ。
(だから……顔など見るものではない)
激情の去った後の妙に覚めた部分で、安土は考えていた。
昔の面影など欠片も見出せない、醜悪な欲の権化。そう思ったまま去りたかったのだ。そうすれば、彼女が死のうが生きようが安土の胸は痛まない。とうの昔に終わったことなのだから。
でも、そら。萎れた時に見せる、その目線の落し方。それはあの優しい娘と同じものだ。唯一とはいえ、傲慢な悪女の中に「彼女」に似た部分を見つけてしまえば……自分は……。
「甘いのね、最上の。それともその女、そんなに良かったのかしら?」
なんの前触れもなく、綺麗な声が窓から投げ入れられた。と同時に、安土の身体を形容しがたい怖気が走り抜けた。
(来…た…!)
何十年も培ってきた本能が告げていた。己の命を危険に晒す者が、やってきたのだと。
のろのろと、靖子の背後の硝子戸から外に視線を向け、そこにひっそりと佇む少女とそれを取り巻く幾多の影を見つけたとき、安土は生まれて初めて死を覚悟した。
月光に照らされて、夜露に濡れた草が光の珠を結んでいる。ひっそりと控えめな輝きを放つ幻想的な草の絨毯を、少女は滑るように近づいてきた。顕わになったその顔は「神々の愛し子」との噂に違わぬ美しさだ。ただし、その神とやらは冥府を司る死の神に違いない。
「貴方だけなら逃げられたのに。昔の恋人を見捨てられない?情け容赦のない非情な男と聞いていたけれど……噂とは大違いね、とんだ人情家だこと」
「ひ……っ」
振り向いた靖子が、蟇蛙のような悲鳴を上げた。かくんと膝が萎えて、尻餅をつく。
「さ、桜…!」
「御久しゅう、おば様」
桜はにっこり微笑んで、優雅に着物の裾を引いて礼をとった。草の絨毯と背景の庭木が、一瞬、王城の謁見の間か何かのように見える。それ程、完璧で美しい所作。
対して靖子は、戸口から遠ざかろう必死であとずさるが、手足に震えが来てろくに進まない。
「誰か!!誰かー!!」
震える悲鳴を上げたが、
「館内の者はすべて眠っていただいた。呼ばれても無駄です」
暗黒の果てから聞こえてくるような声が、桜の背後から返るだけだ。
「さ…かき……!!」
一族内で、闇鵺にその人ありと謡われた名高い使い手の名は、靖子の耳にも届いていた。言葉の内容もさることながら、その男の声音に靖子は凍りついた。
正面きって鵺と遣り合う程、靖子も馬鹿ではない。闇討ちだからこそ勝算ありと踏んだのだ。それなのに今、彼女の前には正真正銘の〈闇鵺〉精鋭部隊が立っている。手は無意味にバタバタと床を叩き、足は力も入らず立つことができない。豪奢な打掛が肩から滑り落ちて、床を彩った。
その見苦しい慌て振りも、もはや気にならない安土である。ただ、彼ら二人の上に流れた歳月の長さが虚しく、そして哀しく、胸に去来するのみだ。
恐らく自分は助かるまい。だが……。
(相手は、四から五人。できるか?)
安土は冷静に状況を計った。時間を稼げれば……。万にひとつの勝機もないが、
(逃げることはできる)
誰が、と問う己の心には、わざと答えない。考えても仕方のないことだ。自分の心ほど分からないのが人間というものだろう。
安土は、気づかれないようにそっと袖口から掌の中へ、それを落とした。口元を抑える振りをしながら、それを口に含む。音のしない特殊な笛は、彼を影から守る最精鋭の部下たちにしか届かない。いつものように彼の身を案じて近くに潜んでいる筈。
後一歩で戸口に手が触れるところまで来ていた美貌の死神は、ふと動きを止めた。急に螺子の止まったカラクリのように微動だにしない。艶やかな黒絹の髪だけが、風にさらさらと揺れ、
「…………」
濡れたような唇が、かすかに動いた。安土には「さかき」と読めた。
呼ばれた男が、手を伸ばして少女の腰をさらった。それとほぼ同時に、今まで彼女が立っていた草の上に太矢が突き立った。草露がきらめきながら宙を舞い散る。
「姫!」
四人の内の誰かが、声を上げた。
静寂に満ちた、幻想的な月下の世界が壊れる。無粋な音を立てて草葉を蹴散らし、木の葉を叩き落しながら、人影が沸き出した。彼らを取り囲んで殺気を放っているのは、いずれも脛に傷を持つ身の無頼。その数、五十ほど。
桜は、榊の腕の中。
横抱きにされたままの姿で、漆黒の胸へことんと頭を落とすと、
「馬鹿な男。あの子に免じて見逃してあげようかと思っていたのに」
止めにするわと言いながら、榊の首に腕を回して上体を起こした。
周囲を囲む男たちをゆったりと見渡して、
「いらっしゃい」
甘やかに、誘った。