桜闇姫~闇鵺小話~
六、
〈みづちの表江〉と呼ばれるその男は、真っ暗闇の中で、目を覚ました。
辺りは真の暗闇だ。嵐の夜でさえも、こんなに暗いということはない。これは、外からの光を完全に遮断された、人工的に作れた闇だ。
もっとも、表江はその時そんなことを考えられる精神状態ではなかった。彼が目を開けたとき、一番に感じたのは、頭の芯がぐらぐらする不快感と吐き気だった。自分がおかれた状況も分からないまま、寝転がり、呼吸を整える。
ようやく頭痛も収まった表江が、まず考えたのは、ここが何処かということだ。何故だか混乱している記憶の時系列を整理して、一番新しい記憶を取り出してみる。
(朝、起きたよな。んで、飯食って……茄子の漬物、旨かったな――と、そんなこたあ、どうでもいいや。ああ、飯の時に、顔役に呼ばれたんだっけか。それから、仕事を言いつけられて……唐と一緒に……)
はた、と気づいた。
そうだ、自分は奥津樹家の見張りを言い付かっていたのだ。裏口で、唐と別れて、さて何処から忍び込むかと思案したのまでは覚えている。その後は?
「確か……そうだ!急に後ろから妙な薬を嗅がされて……!!」
「ご名答。随分、思い出すのに時間がかかったよねえ」
何処かから返って来た応えに、思わず悲鳴を上げて飛び起きる。人の気配など、露ほども感じなかったのに、と慌てて周囲を見渡した。が、どこまでも、墨汁を流したような漆黒が続いているだけだ。
「ちょっと薬の量が多かったかな」
また、声が聞こえた。先刻の声とは少し違う。少なくと二人、この同じ空間にいるということだ。
「だ、誰だっ!!人をこんなところに連れてきやがってのは手前らだな!?姿を見せやがれ、卑怯者め!」
「おや、僕たちは卑怯者らしいよ、カイドウ」
「誘拐犯が顔を隠すのは、お約束だと思うけどね」
「馬っ鹿じゃねえの、こいつ」
「身の程を知らないという意味では、愚かではあるだろうね。まあ、まだ相手は経験不足の若者なんだから、大目に見てあげなよ、アオイ」
アオイと呼ばれた男は、それもそうだと、くすくす嘲う。二人とも若い声だ。表江よりも年下かもしれない。その連中に子供扱いされたのだ。表江は顔を紅潮させて、闇に向かって吼えた。
「ふ、ふざけんなよ、手前ら!俺が、何処の誰だか分かってやってるんだろうな!」
最上の身内と聞けば、大抵の輩は報復を恐れて退く。殺しの元締めとしての最上の勢力は大きい。それに、その非情さも有名なのだ。
だが、相手は更に小馬鹿にしたように、鼻を鳴らし、
「あったりまえじゃん。何の為に、お前を連れてきたと思ってんの?駄目だわ、カイドウ。こいつ、正真正銘の馬鹿間抜けだ」
「まあ、だからこそ口は滑らかかもしれないじゃない」
まあまあ、とカイドウは相棒を宥め、それに、と言葉を続ける。
「こいつの言うことも一理あるかも」
「なんだよ?」
「ほら、姿を見せろって言ってたろ。アオイは美人だからなあ、見たくなる気持ちも分かる」
「お前ねえ……」
カイドウの発言に、アオイが頭を抱えているらしい。
「それって、意味違わねえ?」
その台詞には、思わず表江も頷いてしまった。
「そう?でも、僕としては見せびらかしたいなあ。相棒としては、鼻が高いんだけど。それにさ、どうせ見たところで、無事には帰れないんだからさあ、彼。見せてもいいんじゃない?」
と、にこやかに物騒なことを言う。と、そこへ、
「いつまで、遊んでるつもりなんだ?お前たちは」
と、さらに別の声が投げかけられた。二人より年上の、女の声だ。呆れ果てたように、
「さっさと片をおつけ。ったく、すぐに脱線するんだから。それを心配して、主さまは私をお目付け役に選ばれたんだからな」
「はいはーい。ツタ姉は、厳しいな」
「それじゃあ、そろそろ本題に入ろうか」
ツタの叱責を受けて、二人は表江に向き直った。途端に、先刻まで漂っていた和やかな空気が、しんと凍りついた。
「聞きたいことが、あるんだけどさあ。正直に喋ってくれる?最上の顔役が最近受けた仕事のことなんだけどー」
「だ、誰が、手前らなんかに、機密を喋るもんかよ……!」
急に訪れた変化に、表江は内心でビクつきながらも、強がって見せた。
「ええー、喋ってくんないと、こっちにも考えがあるよ」
子供じみた言葉遣いだけそのままに、アオイの声から一切の温かみが失せる。
すうっと、周囲の闇が濃度を増したような感覚に、表江の背を寒気が這い登った。威勢の良さが売りの表江が、一瞬で、声も出なくなってしまう。
「痛い目を見ないと駄目かな」
淡々と、カイドウが呟く。
ヒュン、ヒュン、と何かが空気を裂く音がする。そう思った次の瞬間には、頬に灼熱の痛みが走っていた。ぬるりとした血が溢れるように流れ出す。次に、右腕、左足。そして、首筋をそれが掠めた時には、滝のような冷や汗で、着物の背中はぐっしょり塗れていた。
「いいよ、カイドウ。僕がやるから」
意外なことに、アオイが止めた。
「痛い目って、退屈な時にはいいけど、時間かかるじゃない。いつもだったら遊んでもいいんだけど、今回は急ぎみたいだから。ね、ツタ姉?」
「そうだな」
「ね、僕がやるよ。どうやら、カイドウのリクエストにも答えられそうだし」
「分かった」
カイドウが頷くと、闇の中にぼんやりと小さな光が生まれた。蝋燭だと、表江が認識するとすぐに、その真横に人間の顔が浮かび上がった。まだ成人にも達していない少年の顔だ。
カイドウが自慢したいと言った言葉も分かる。なかなかの美少年だ。唯一の光源で照らされているせいか、やけに輝いて見えて、自然と目がいってしまう。引きこまれるように見つめていると、いつしか、冷たい石を思わせる黒瞳から目が離せなくなっていた。
蝋燭の炎と、それを写して輝く黒い宝石が、ゆらりゆらりと交互に、瞳に現れては消える。それを、表江は美しいとすら思いながら、追った。
表江が注視している前で、アオイは満足そうに目を細めた。そして、愉しげな笑みを刻んだ薄い唇から言葉を紡ぐ。
「はじめまして、僕はアオイ。君の名は?」
君の名は?君の…君の…名前…名前は?
少年の声が、幾重にも脳裏で反響した。意識という水面に、その言葉は一石を投じ、一周ごとに広がって、ゆっくりと浸透して行く。
「表江…」
はっと、気づいたときには、応えが口を滑り出していた。
「お前のご主人は、最上の顔役だね?」
「は…い」
「最近受けた仕事で、〈綱斬りの朱瑛〉のところに廻したやつがあるでしょ」
「……」
(駄目だ、言っちゃあいけねえ!)
心の奥深い所で、かろうじて生き延びている正常な自分が叫んだ。
何故か、思い通りに身体が操れない。ひどく鈍い感覚を総動員して、今にも震えそうな唇を閉ざす。
が、しかし……。
「表江」
やんわりと、アオイが呼びかける。
炎の揺れる黒瞳が、その輝きを増すと、心が振り子のように揺れた。
「あ……」
そして。にっこりと、優しく甘い微笑みに誘われた途端、辛うじて止めていた意識はあっけなく陥落した。
「話して、くれるよね?」
当然の権利のように要求され、それを心地よいと感じた時には、表江は陥ちていた。
「相変わらず、お見事だね」
窓に下ろしていた暗幕を取り払って、少し明るくなった部屋の中、床に座り込んで、ぱちぱちと手を叩くのは海藤である。葵とほとんど歳は変わらない。彼もまた、葵ほどではないが、整った顔だちの少年だ。
午後の黄昏が、殺風景な古い倉庫に蜜色の光を差入れている。放置されているガラクタの山が、命を吹き返したかのように黄金色に
染まっている。
その上に、器用に横座りしていた女――蔦が、立ちあがって、二人の少年の方へと足を運ぶ。芥子色の着物を粋に着崩し、長い黒髪を頭の高い位置で一つに束ねた彼女は、成熟した艶のある妙齢の女性だ。
海藤の少し前にいる葵が、こちらに背を向けたまま、
「ちっとも、凄くなんかないよ」
投げやりな返事を返した。
すぐ側に、ぼろ布のようにうつ伏せに横たわる、男の背中が見えている。葵の尋問によって全てを白状した表江である。
「何故だ?蝋燭を使って、相手の意識を虜にし、意のままに操る。なかなかできる技じゃないと思うがね」
男のような言葉遣いで、蔦が問う。海藤も、蝋燭を吹き消しながら、葵の答えを待っている様子。
「だってさ」
不貞腐れたような、照れくさそうな顔で、葵はしぶしぶ口を開いた。
「俺のは、ただの真似じゃん。しかも、暗闇と炎っていう道具立てがなきゃ、できないし」
「誰と、比べているのだ」
「姫さま」
海藤と蔦は、顔を見合わせた。良い返答を見つけることができない彼らに構わず、葵は続ける。
「姫さまはさあ、その存在だけで、人を魅了する。しかも、意図せずに。俺にはとてもできないや……」
「葵、それは比べるのが間違ってるよ」
慰めてくれる相棒に、葵はにやりと笑った。
「分かってるって。だからこそ、俺たち、あの方に従ってるんだからさ。それより、どうする?」
「私が報告にいくから……」
いつもの調子を取り戻した葵に、内心でほっと息をつきながら、蔦は年下二人に指示を出そうとしたが、
「えー、ここでお役御免?それはちょっとつまんないよねえ」
葵は、ぺろりと舌で唇を舐めながら、海藤に向き直る。
「俺たちを舐めてくれた礼はしとかないと」
くすり、と海藤も笑いながら、
「そうだね。きちんと、完膚なきまでに、叩きのめさないと示しがつかないね」
「お前たち……」
蔦は、額に手を当てて、頭痛を堪える表情だ。だが、止めるのも無駄だと思ったか、
「やるなら痕跡は残すんじゃないよ。手が足りないなら、誰か使ってもいいから」
と、釘だけさして許可してしまう。
「やったあ!じゃあ、どこまでやろっか」
「とりあえず、真打は姫さまにお任せして、と。最上んとこの縄張りは、いいよね」
わくわく、期待を込めた四つの瞳を、蔦は呆れたように見渡して、
「……先走るんじゃないぞ。お前たちに許されているのは後始末くらいだ」
「了解!」
子供のような歓声を上げながら、二人の少年の眼は、見る者を心寒くさせる惨忍な輝きを浮かべていた。
* *
黒幕が割れたとの報告を、桜は自室の布団の上で聞いた。
榊の強硬な勧めで、照明を落として、休んでいたのである。
薄暗い室内に、一つだけ灯火を点すと、榊は、起きあがった桜の前に膝をついた。蝋燭の炎が、桜の横顔に橙色の光を投げかけている。
「お前が言いにくそうにするということは、身内かしら」
桜は楽しそうに促した。対して、榊は表情を押し殺したまま、
「最上に貴女の命を狙わせたのは、阿波家の靖子様です」
「阿波のおばさま?」
右頬に手を当てて、桜は記憶を探る。
「……ああ、そういえば、三年前のあの折には地方に出ておられてご不在だったわね。どうりで。……うふふふ、もう身内では誰もいないと思っていたけれど……そう、知らないのなら、仕方ないわね」
「知っておられたなら、こんな真似はされないでしょう」
「狙いは、この家の当主の座?馬鹿ね、こんなものが欲しいなんて。でも、私も手放すわけにはいかないわ、今は。そう。知らないなら教えてあげましょう、骨の髄まで、忘れられないように」
あどけない顔に、毒を含んだその物言いが似合わない。似合わないからこそ、恐ろしく、美しい……。
「蔦は、控えていて?」
榊が障子を開けると、外の庭石の上に蔦が膝を折っているのが見えた。
「今宵、阿波のおばさまの所へお邪魔します。ニ、三人、集めて頂戴」
と、命を下した。
「桜さま!」
そんなお身体で、と榊は声を荒げたが、
「早いほうがいいでしょう?こういうことは。憂いがなくならないと、ゆっくり休むこともできないわ」
桜はすでに決めてしまった様子。
静かだが、有無を言わさぬ声は、絶対の命令だ。桜の本気には、決して逆らうこのできない榊は、溜息を落としながらも了承した。
「では、今宵、月の出とともに」
その言葉を合図に、蔦は一礼すると、風をまいて姿を消した。
それを確認して、桜は床から立ち上がる。手を叩いて侍女を呼ぶと、着替えの用意を申しつけた。
「桜さま、どちらへ?」
榊が控えめに問うと、桜は、
「王宮へ。供をしなさい、榊」
花のような顔をほころばせた。
* *
一日の執務を終え、夕餉までの短い自由時間を、彼は私室で書を読んで過ごしていた。
第7代国王、晃久。今現在、この広大な大陸の頂点、至高の位に座している男だ。
色の白い――というより血色の悪い細面を、ぎちぎちに結い固めた黒髪が際だたさせている。目だけが大きい。常に落ちつきなく、動いている。極上の衣衣に包まれた身体も細く、とても武王と称えられた祖王の血筋とは思えなかった。
眉間に皺を刻み、神経質そうに紙を一枚一枚繰っていく。窓から吹き込む微風すらも気になるというように、たまに指で髪を撫で付けながら。
暗くなってきた室内に、気を利かせた侍女が灯りを持って入って来たが、ちらりと苛立たしげな視線を投げただけで、すぐに書物に目を落とす。
庶民であれば、そろそろ一人前として認められるが、一国の王としては、まだまだひよっこ扱いされる歳。執務と勉学で、一日は多忙を極める。好きなことに割く時間はほとんど取れないといっていい。夕餉前のこの時間が、僅かな息抜きだった。
その貴重な時間を邪魔するものは、たとえ羽虫であろうとも、許しがたい。
だから、侍女が下がってから暫くして、再びカタリと背後の扉が開く音が聞こえたときには、ピクリと頬の筋肉を引きつらせた。灯りは仕方ない。だが、空になった椀に茶でも注ぎに来たなら、余計なことだ。邪魔をするなと、あれほど申しつけてあるのに、新米の侍女でも入ったかと、晃久は背後も見ずに苛々と言葉投げた。
「何用だ。誰も呼んではおらぬぞ」
癇の強い細い声で叱責する。
だがその時、ふわりと吹きぬけた風が、よく知った淡い香の匂い運んできた。
晃久は息を呑んだ。尊大に顰められていた眉が情けなく下がり、白い顔からさらに血の気が引く。
なんということだ。ここ最近は、こうした訪いも無く、平穏だったというのに。
公の場で顔を合わせるには問題無い。むしろ目の保養になると、喜ばしいくらいだ。月に一度は顔を合わせる相手でもある。だが、こうして人目を忍んで彼女が現れる時は、禄でも無い用事があるに決まっているのだ。また、血なまぐさい事にならねばいいのだがと、諦めにも似た気持ちで、声をかけた。先刻までの権力者らしい物言いとは全く違う、抗うことを諦めた老人のような声音で。
「緋桜の姫。こ度は何用だ。私に何をしろという」
すると、背後の薄闇から、くすりと笑う気配。
「陛下には、ご機嫌麗しゅう。先日お教えした白梅の生け方、習得されまして?」
「つまらない前置きは無しにしてくれ」
「ふふふ、お邪魔のようですわね。では、用件をお話しますわ。陛下にお願い申し上げたい事があるのですけれど」
よろしいかしら、と問われて、唇を噛み締める晃久である。抗わないと知っている相手に対して、いいも悪いもあるものかと、拳が震えた。それが、怒りによるものなのか、恐怖によるものかは、自分でも分からなかったが。
「近々、わたくし共の身内が一人、亡くなります。どうぞ、その死因については詮索ご無用に願いますわ。司直の者たちにも、その旨よく含んでおいて下さいませ」
「病死ということで良いのだな」
「はい」
「……委細、承知した」
余計な質問ひとつしない晃久の態度に満足したのか、
「陛下の寛大なお心、感謝致します」
耳元で囁くような含み笑いを残して、気配は掻き消えた。
晃久は長く長く、息を吐き出した。手の中から書物が滑り落ちたのも気づかない。今ごろになって、汗が噴き出す。
「お恨み致しますぞ、祖王様。<鵺>などというものを残してくださったこと」
止めようもなく口から零れるのは、祖先に対する呪詛の言葉だ。
侍女が夕餉の支度ができたと呼びに来るまでの間、晃久は心地悪い冷えた汗の感触も忘れて、座り込んでいた。
「とんでもない者を、当主にしおって……」
上品な甘い残り香が、消えることなく彼を包み、いつまでも離してくれなかった。