桜闇姫~闇鵺小話~
五、
朱瑛は打ちのめされていた。
予想しながらも否定したかった事実を突き付けられて。
私に会いたかったのでしょう、と囁かれた途端、先夜から続きのような眩暈に、再び襲われそうになる。膝に力が入らず、立っているのすらやっと。
(どうして……別人じゃないんだ)
勝手な文句だと思いながらも、胸のうちで零さずにはいられない。別人だったら良い理由があるわけではない。むしろ、もう一度最初から、あの人を探さなければならず、手間が増えるだけだ。
ただ、信じ難いだけなのだ。
この世に、こんなものが存在するなんて。
愛されるべくして生まれたような無垢な天使と、妖しい魅力を持つ闇の魔物が、同じ一つの身体に宿っているなんて。しかも、二重人格でもない。彼女の中では、その二つは何の違和感もなく、整然と収まっているのだ。どちらの、彼女も。どちらが欠けても自分ではないのだと。
朱瑛は、本来の目的も忘れて、呆然と立ち尽くしていた。すなわち、桜を殺すことを。
いきなり名指しで呼ばれて、驚きはしたものの、ばれているなら仕方ないと腹をくくって、少女の前に姿を現した。あの厄介な男はいなくなったし、チャンスと言えばチャンスなのだと。それがまるで自分に言い訳するようだと、何処かで思いながら。
そして、月光色の眼差しに見据えられた瞬間、彼は認めざるを得なかった。自分がここに来たのは、単に、この人に会いたかったからなのだということを。
この、年端も行かない美しい存在に。
桜は、穏やかな笑みを浮かべて朱瑛を見つめている。それは、あの茶会で出会った、優しげな姫君の顔だ。だが、彼女の前にいるのは、仲のいい友人ではなく、凶器を手にした暗殺者なのだ。それを怖れるでもなく見据えることのできる神経は、確かにあの夜出会った美貌の魔性のものだ。
なにもかも見透かそうとする、その眼差しに、朱瑛は足が動かなかった。竦んでしまっているのとは違う。むしろ、見惚れている。
「どっちが本当のあんたなんだ……」
「どちらも私よ」
桜は、唇の端を少し持ち上げた。そうすると、あの晩の彼女がちらりと顔を覗かせる。
「人間は皆、いろんな自分がいるでしょう?一人ということはない筈よ。残虐な殺人者が、幼子の前では善人に代わるとか、嘘ひとつついたことのない人が、大金を手にした途端、豹変するとか……よく、聞く話。ただ、大抵の人は、変化のない日常に埋没して、たくさんの自分を外に出す機会も、必要もないだけのこと。ただ……そうね、三年前のあの事件がなければ、私も、普通の『お姫様』のまま、一生を終えたでしょうね。そういう意味で言えば、本当の私は、こちら側なのかしら?」
幼さの残る優しい仕草で、よく分からないわ、と首を傾げている。草花のようだと唐が称えた、その風情で。
「そんなことよりも、私を殺しに来たのでしょう?」
どうしたの、と促されても、朱瑛は動けなかった。
そうだ、殺さなくてはならない。自分は依頼を受けた。一度受けたからには、必ず殺らなければならない。何度失敗しようとも。どんな理由があろうとも。契約不履行の代償は、元締め本人から与えられる「死」だ。それも、生きながらになぶり殺しにされる。他の仲間への見せしめに、死んだ方がマシだという方法で始末されるのである。
それを分かっていながら、朱瑛の手は動かなかった。短刀を忍ばせた懐が、ずしりと重い。
ややあって、朱瑛はのろのろと首を振った。
「私のところへいらっしゃい」
弾かれたように、顔を上げた朱瑛の目に映ったのは、感情の見えない、綺麗な顔だ。本気なのか、からかわれているのか、その表情からは窺い知ることが出来ない。
「あんた……誰なんだ」
あまりに抽象的な朱瑛の呟きの意味も、桜は理解したようだったが、答える気がないらしく、目を細めて首をかしげただけ。
「この家は、なんなんだ」
「春風の宮家」と呼ばれる程の旧家で、この国の文化の頂点に立つ家。その代わり、代代政治には無関係な、人畜無害な一族。
それが表だけの顔なのだということを、朱瑛はもう理解していた。
「何故、俺を……?」
同じ問いを、つい先刻榊が口にしたことなど、朱瑛には分かるはずもない。
ざああっと風が吹き付けて、花びらが舞い散った。意志を持つかのように、桜の周囲を取り巻き、黒髪がしなやかになびく。
風の音で、声が聞こえない。
ただ朱瑛はひたすらに、その紅い唇の動きを目で追った。
うっとりと、まるで愛しい人の名を呼ぶような微笑に、瞬間、嫉妬すら覚える。それなのに、何故かその瞳の奥に、相反する燃えるような感情を見出だした気がして、朱瑛は急に恐ろしくなった。
(なん……だ……?)
あの、甘やかな眼差しの奥に見え隠れする、灼熱の炎はいったい何なんだ!?
背筋を、理由の分からない戦慄が駆け抜けた。
『榊に似ているからよ』
そう、読めたと思った時には、その場を逃げるように走り出していた。
正気に返ったのは、頭上から降って沸いた殺気を感じた時だった。
どこをどう走ったものか、まるで意識していなかったのに、身体はきちんと帰り道を覚えていたらしい。中庭を飛び出し、細い小道を辿って、北向きの庭に出る。邸内で最も自然のままの形を残して造られたこの庭は、藪や茂みが多く、身を隠しながら進むことができる。外に出るためには、最後に建物を突っ切らねばならないが、出入業者の多い裏口だから、気楽なものだ。
我を失いながらも、朱瑛は長年の習い性で、木立の間に身を隠しながら、走っていた。
――――恐ろしい。
得体の知れない恐怖に、彼は侵されていた。生まれて初めて知る種類の畏れだ。まるでお化を怖がる子供のようだ。振り返れば、捕まってしまうと、訳もなく思う。背中を押されるように、ひたすら走った。
――――あの美しい微笑みに捕まって、二度とは戻れなくなる……。
そうして、自失していた朱瑛が、いきなり叩きつけられた殺気に反応できたのは、日頃の鍛錬の賜物だった。
咄嗟に身体を捻って、地を転がりながら、袖口から出した太針を、勘で投げつける。かわされたと、思った瞬間には、刃が額の前まで迫っていた。
(早い…っ!)
身体をのけぞらせて刃から頭を遠ざけながら、片足で相手の手元を蹴り上げる。あわよくば得物を弾き飛ばそうと試みたその動きは、がっちりと受け止められてしまう。そのまま一回転して膝立ちになったところで、ようやく冷汗が噴き出した。
(何故、追ってこない)
体制を崩した朱瑛を見逃すほど甘い相手ではあるまい。恐るべき技量の持主だ。
目を上げると、相手は漆黒の影と化して、彼を見下ろしていた。殺気どころかなんの気配も感じとらせずに静かに佇んでいる。身じろぎひとつしない。男のくせに、艶のある漆黒の髪だけが、微風に揺れている。明るい陽光の下でさえ、暗黒を思わせる瞳が、鋭く朱瑛を眺めていた。
桜を守る影。
見えるのは、これで三度。そして同じ数だけ、刃を合わせた。そして、いずれも朱瑛の敗北だ。
「……榊」
あの美貌の姫の唇が、蜜のように甘く、その名を口にしたのを思い出すと、自分でも訳の分からない敵愾心が生まれた。
そして、同時に、畏れもよみがえった。彼をあの場から逃げ出させた恐怖。
この男の名を呼ぶのに、桜が見せたあの表情。それが、何故、恐ろしく思えたのか、榊本人を前にして、やっと分かった。
(あれは……憎悪、だ)
榊のことを思い起こす時の、彼女の表情に見え隠れするもの。
『榊に……』
最愛の者を呼ぶように優しく、焦がれるように甘やかに、その名を呼ぶくせに。
その奥に潜んでいるのは、殺意にも似た憎しみ―――。
ふたつの全く相反する感情。そのどちらをも、狂おしいほど強く、抱いているのだ。
この男に対して。
そんな馬鹿な、と思いながらも、朱瑛は自分の直感が正しいことを信じた。
(……異常だ……)
ぞっとした。
天上の月光を写し取ったような白金の光の奥に、底知れぬ程深く不気味な、狂気の闇を見た―――そんな気がして、我知らず震えが走る。
(何故……?)
その狂気は、朱瑛の理解を超えている……。
「桜さまと何を話した」
朱瑛の一挙手一投足すら見逃さぬ強い眼差しで、榊は尋ねた。
(この男は、どうなんだ)
ふと、朱瑛はそんなことが気になった。今にも殺されるかもしれないこの状況で、自分の命よりも、他人の関係が気になるなど、どうかしている。しかし、その時の朱瑛は、それを、もはや「おかしい」とは感じなくなっていた。震えるほど恐怖した、その事実すらも甘く、彼を蝕み始めていることに。
恋敵を前にした間男のような、敵対心が首をもたげた。
どんな顔をするだろうか。見てやりたいと、急に意地の悪い気持ちが湧き上がってきて、
「誘われた。自分の元に来ないかと」
にやりと、ふてぶてしく笑って見せる。その中に、勝ち誇るような嘲いを見え隠れさせて。
榊の細めた眼差しが、険しさを増した。
朱瑛のうなじが総毛立つ。
噴出した殺気の強さに、思わず懐の短刀を引き抜いていた。本能が身の危険を感じた動きだった。
と、ざわりと木々が騒いだ。
いつのまにか、幹の後ろ、梢の間、建物の影から、無数の目が伺っていた。自然の一部と化していた彼らが、一斉に牙を剥いた。
朱瑛は、今度こそ駄目だと覚悟した。一度、見逃された。二度はあるまいと。
が……。
ふっと、唐突に、目前の榊から殺気が失せた。感情を消し去った黒瞳が、朱瑛をじっと見つめて、
「桜さまが決められたことなら、否やはない」
好きにするがいいと静かだが、きっぱりと呟いた。
その一言で、朱瑛を取り巻いていた、刺すような視線が霧散した。四方に散った気配だけが感じ取れたきり、最後まで姿は見えなかった。
榊も刀を鞘に収めると、踵を返した。背中を向けたまま、
「理由をお聞きしたか」
と、一言だけ問いただした。
人形のように見えた榊が、人間らしさを垣間見せた一瞬だった。そこにあったのは、主の心を読めない戸惑いだ。
こいつにもそんな感情があったのかと、何故か朱瑛は安堵した。主従共に人間離れしているのでは、救いようがないではないか。
漆黒の壁のような背中を、朱瑛は見つめた。
(こいつに、似ている?)
どこが、と己を振り返るよりも先に、違う思いが湧き出した。
何故、自分じゃない?
どろりと、腹の奥で凝っているような暗い思考が、瞬間、彼の頭を染め替える。
似ているなら、自分でもいいんじゃないか。
あんな風に、名を呼んでもらえるのなら、憎まれることさえも厭わないというのに!
知覚できないほどの一瞬の内に、己の中を駆け抜けた狂気に、朱瑛は気づくことはなかった。ただ、ひどく悔しいような、苦しいような感情が胸を締め付けたのを感じただけだ。
「お前に似ていると言われた……」
ぽつりと答えると、榊は顔だけを彼に向けた。じっと、注がれる視線は、彼を居たたまれない気にさせた。ただでさえ常に暗い色を湛えているというのに、その時の、榊の瞳は、まるで、地の底に続く穴がぽっかり口をあけているかのようだった。
視線を合わせるのが苦痛だった。朱瑛が見つめ返すことができたのは、ひとえに彼の負けん気が、保ったからだった。
「ならば、来ぬことだ。もっとも……もう遅いやもしれんがな、お前も」
哀れみにも似た台詞を、淡々と吐いて、榊は朱瑛から顔を背けた。
そのまま歩み去る。
風に流されそうになった最後の言葉は、
「楽には死ねんぞ」
そう聞こえた。
* *
さわさわ、さわさわと、野を渡る風のように、気配がざわめいている。
葉ずれのようなその音は、かすかに紡がれる、囁き声だ。幾人ものそれが、重なり合って、風の音のように聞こえている。
誰もいなくなった庭で、気配を殺す必要もなくなった彼らは、姿だけは隠したまま、彼らの主人を取り巻いていた。
桜の間には、当主の許しなく入れるものはいない。庭に面した部屋は全てが、当主の私室。それでも、侍女の一人でもいれば、館の窓から見られてしまう。それを用心してのことであった。
さざめきに身体を包まれて、心地よさそうに桜は微笑を浮かべている。
小鳥のさえずりを聞いているような、この感覚が、桜は嫌いではない。彼女に惹かれて擦り寄ってくる、多くの手の者たちを体で感じる時、桜は僅かだが一人であることを忘れられた。本当に心を開くことの出来る人間が、もはや一人しかいないことも分かっていたが、錯覚だとしても、仲間がいると思えるのは悪くなかった。
『お気に召したようですね』
『欲しいとお思いなら、お命じ下さればよいものを』
『ハッ!お前に任せたら、死体で連れてくるのが関の山だな』
『あら、それは無理よ。可愛そうだけど、あっちの方が強いわねえ』
『そう、なかなかの手練。面白い』
「駄目よ、皆。勝手に手出ししては」
好き勝手に言葉を交わす彼らを、桜はやんわりと遮る。
「あれは、私が見つけたんですもの」
『まあ、お人が悪い。遊んでおいでですね』
くすくす、くくくく、と笑いが風の間を渡る。
『でも、桜様』
一人が、ふと真面目な声をかけた。主の機嫌を損ねぬかと、暫く躊躇った後、そっと続ける。
『榊殿に、何処が似ていると?』
容姿も、性格も、まるで違って見えまする、と首を傾げる気配だ。他の者たちも同様らしく、頷きかわす。
桜は、両手で自分の肩を抱いて、思い出すように、目を閉じる。口元にほんのりと浮かぶ、甘い笑み。
半眼開いて、一言。
「私を見る、眼差しが」
その応えに、ああ、と周囲から溜息のようなものが上がった。そこに含まれるのは、純粋な憐憫の情だ。あの朱瑛という、彼らにはなんの情けも介さない男に、全員が等しく同情を寄せたのだ。
『桜さまに捕らわれておりますのね、あの者』
『そういう意味では、我らも皆、同じ穴の狢。皆等しく、貴女に惹きつけられている。だが、それも榊殿とは次元が違うというのに』
『その榊殿に少しでも似ているというのなら……』
『確かに、楽には死ねないね。楽には死なせてもらえない…』
やめておけと、遮る気配に、桜はくすくす笑う。
気を取り直したように、他の誰かが続ける。
『ですが、似てはいても、榊殿とは別物です』
「ええ、もちろん分かっていてよ。ただ……試したいことがあるの」
『まあ、やはりお人が悪い。遊びで、一人の人生を狂わせるおつもりですのね』
『惑わせるおつもりがないのが、また、罪作り。それが、我らが主様の魅力ではありましょうが』
内容は責めるものでありながら、口調は、完全に面白がっている様子。男を、哀れだとは思いながらも、主人の決めたことは絶対。ならば、それも男のさだめだと、瞬時の内に、割り切っている。彼らは、そういう人間の集まりだ。自分達のも覚えのある感情故に、必要以上の同情はしないのだ。
『噂をすれば』
彼らの中に、さらに数人が加わった。榊に従っていた連中が戻ってきたのだ。
それより、わずかに遅れて、庭園に黒衣の人影が現れた。緑萌える美しい風景が、そこだけくっきりと切り取られて見える。姿を隠さない分、彼は正規の道筋を辿らねばならない。よって、他の者よりも遅くなるのは仕方のないこと。
桜は、ゆったりと首をめぐらせて、足早に近づいてくる榊を見つめた。
「急に静かになりましたね。どうせ、私の悪口でも言っていたのだろう、葵?……海藤?」
皮肉っぽく名指しされて、ぺろりと舌を出す気配。格上でありながらも、同じ、桜に仕える身である榊には、皆、あまり遠慮がないのだ。
「いい加減、お戻りください」
まだ肌寒い空気に包まれて立ち尽くしている桜に、榊は眉を寄せながら近づいた。
桜がその両手を差し伸べると、榊は無言で膝をついた。細い両腕が、榊の首に回されたと思った次の瞬間には、彼女の身体は軽々と抱き上げられていた。
榊の広い胸に顔を埋めながら、
「お前に代わる者など、いないわ」
そう囁く桜である。
「桜さま?」
訝しげに呼びかける榊に、桜は応えようとしない。さらり、と癖のない黒髪が頬にかかって、その表情を隠してしまう。
榊が戸惑いながらも、母屋の方へ歩き始めた、その時である。
り……ん
り…りん
遠くで風鈴を揺らしたような音色が聞こえた。
母屋から桜の間に続く渡り廊下に、取りつけられた鈴の音だ。
桜の間でくつろぐ当主を邪魔しないように、庭を囲む離れの建物群には、基本的に人はいない。使用人は、主人に急ぎの用事がある時にはこの鈴を鳴らし、入室許可を乞うのである。
「榊」
桜が頷くと、榊は手近な木に近づいて、片手を伸ばした。よく見ると、日の光にきらきらと輝く、蜘蛛の巣のような細い糸がぶら下がっていた。それを片手で引くと、鈴の音に応える様に、桜の間出入り口付近で、少し音程の違う鈴の音が起こった。
これが、入室を許すという、意志表示になる。
この庭には、こうした仕掛けがいくつかあって、その全てを把握しているのは、榊のみであった。
すぐさま、若い侍女に連れられて、見知った顔が現れた。奥津樹家御用達の香屋の一人、〈南香堂〉である。
侍女は、抱き上げられたままの桜に驚くこともなく、丁寧に会釈し、
「お休みのところ、申し訳ございません。こちらの南香堂どのが、姫さまから至急にとご所望された品を持ってこられたと、申されております」
「私が頼んだ品?……ああ、そうだったわね。ご苦労様」
桜がにっこり微笑むと、南香堂は、恭しく頭を垂れ、草の上に膝をつくと、濃紺の風呂敷包みを解き始めた。
榊に無言で促された侍女が、建物内に下がるのを待って、南香堂は顔を上げた。
大商人らしく、髪をきっちりと撫でつけ、身に付けている紺の羽織も皺一つ無い。常に絶やさない穏やかな笑顔は、感情を包み隠す為に身に付けた、御用聞きの武器の一つだ。
だが、桜を見上げた瞬間に、その柔和そうに見える糸のような目の中に、鋼の芯のような強い光と、憧憬にも似た甘い色が浮かんだ。
「姫さま……」
改めて、違う意味での拝礼をした彼の名を、桜は労いを込めて呼んでやった。
「薫、久しいわね」
「は。仕事が無かったとはいえ、姫さまにはご無沙汰をしております」
「挨拶は不要よ。なにかあって?お前が、表の侍女に取次ぎを願ってまで、ここに来るなど」
「申し訳ございません。皆のように、姿を隠して忍んで参れば良かったのですが、ちょうど通用口で納品しておりまして、周囲の目もあったものですから……」
「いいのよ。皆、それぞれ別に生業を持っているんですもの。表の顔を保つのは大切なこと。榊くらいね、本業と副業が一緒になっているのは」
笑みを含んだ視線の先で、榊は複雑そうな表情。桜に釣られて、背後の影たちが、忍び笑いを漏らす気配だ。
薫は商人らしく生真面目に恐縮しなから、手を動かしつづける。
彼を通用口まで連れて戻るため、建物内では侍女が控えている筈だ。あくまでここは、急ぎの品を直接納品に来た業者の顔をしていなければならない。
風呂敷の中から、綾織の敷布を取り出し、草の上にさらりと広げる。その上に、漆塗りの筒を並べていく。その一つ一つに、香の名を記した薄青い和紙が巻かれている。
それを興味深そうに眺めている桜に代わって、榊が先を促した。
「それで?なにかあったか」
「通用口に商人らしからぬ顔がふたつ、うろついておりました。ひとりは、先ほどこちらに忍び込んだ朱瑛と申す者について戻っていきましたが、いま一人、残ってこちらを伺う様子にございます。顔に覚えがございます。あれは、最上の子飼いだと思いますが。いかがいたしましょう」
その言葉に、ざわりと背後がざわめいた。穏やかな午後の空気が、ぴんと張り詰める。
自分の身に降りかかる火の粉なら、少々の危険も省みずに楽しんでしまえる連中である。だが、ことが主人の身の安全に関わるとなれば、過剰な反応を示してしまう、彼らであった。
その緊張を解すかのように、桜はのんびりと首を傾げてみせた。そして、玩具をみつけた子供のように嬉し気に両手を合わせ、
「丁度良かったわ。その者に聞きましょう。誰が黒幕なのか。最上の子飼いなら、情報は持っている筈よね」
調べる手間が省けたわね、とにこやかに振られて、榊は一瞬返答に窮した。
「違うの?」
「…………いえ、確かにその通りなのですが……」
「では、そのように。誰か……そうね、さっきから元気が有り余っているように見える葵に海藤、お行きなさいな。それに……葛、手を貸してあげて。あとは結果待ちね」
返事の代りに、ざざっと木の葉を揺らして、三人の気配が消えた。
それ以上の命令はないものと判断した残りの者たちも、頷き交わすと、
『では、姫さま』
『御用の節は、お呼びつけ下さい』
口々に挨拶して、去って行った。
残された薫の前に、榊が身をかがめて片膝をつく。立てた方の膝で、身を乗り出した桜を支えると、桜は手を伸ばして、香の入った筒の一つを取り上げた。
和紙に書かれた文字は〈淡緑〉。
蓋を開けると、気をつけないと分からない程、微かで自然な香がした。甘くない、だが深い涼やかな香り。―――森の水辺で、新緑に抱かれている時のような、穏やかで包み込まれるような安堵感が、ふわりと胸を満たす。
「それは、新作でございます。森の香り――涼やかでありながら、温かみのある香りを目指して作りました」
「ええ……その通りね。試みどおりに素晴らしく上がっていてよ。――ひとつ、頂くわ」
ふと、夢見るような眼差しをして、香筒を胸に抱えた桜に、戸惑ったのは薫の方だ。
「それは……女性用にはどうかと……」
よろしいのですか、と伺う彼に答えず、桜は、自分を抱きかかえている榊の羽織の合わせ目に、それを差し入れ、
「ね、ぴったりでしょう?」
淡く微笑んだ。
薫は、なんとも返答しがたく、ただ黙って、戸惑いの見える榊の顔と、主人の顔とを見つめていた。
「ご苦労様でした」
面会を打ち切る意味の、その言葉を受けて、榊は立ち上がり、幼い主を連れて母屋の方へと去っていった。それを、頭を垂れて見送りながら、薫の胸中は複雑だった。
〈淡緑〉は、森林浴の効果を狙って創り出したもの。疲れた心を、優しく抱いて癒すもの。――それを試みにしたというのに。
「相も変わらず……よく分からぬな、あのお二人の間は」
二人の確執を見知っている者であれば、誰もが一度は抱くその疑問に、薫もまた首を捻るのだった。