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花闇  作者: かざま
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桜闇姫~闇鵺小話~


   四、






 奥津樹家は、王家所有の広大な庭園の近くに位置する。

王宮の敷地は、南北に細長く都を縦断しているが、その中でも本殿を始めとする建物群は比較的北に位置し、南側にはお狩り場を含む広大な庭園が広がっていた。当然のことながら、城下町も城に近い北地区に広がって発展している。主用な重臣たちも殆どがこの北地区に屋敷を設けていた。これに対して、庭園の伸びている南地区は同じ都でもまだ自然の残されたのどかな土地柄である。近くに山野を臨むこともできる。

生粋の文人である代々の奥津樹当主は、都の中でも比較的都市の喧騒を感じさせないこの地を愛した。権力闘争から外れていた彼らには、北地区に住むことはなんの意味もなかったのだ。

一年中、花を絶やすことがないようにと、あらゆる花木を集めた庭園は、歴史に名を刻む先達たちが残した国の宝ともいうべき名園だ。人ひとりが通れる細い小道も、格子窓から垣間見えるいくつもの中庭も、すべて簡素にして計算し尽くされた芸術美の極みである。茶人たちのこだわりによって生み出されたそんな箱庭たちとは対照的に、空間を贅沢に使った自然のままの中庭がひとつ、この館にはある。

中庭と呼ぶにはいささか広すぎるその庭は建物の丁度真中に位置し、その庭に面した部屋は、全てが当主一家の私的な空間とされている。よって、その庭を臨むことは一般の訪問客には不可能なのだ。

中央に一本だけ巨大な桜の老木が植えられているその庭。

通称、〈桜の間〉。

部屋でもないのにそう呼ばれている。古くから、晴れた日には一族の団欒に最もよく使われた場所だからかもしれない。





 今は、春。

 半分は蕾にも関わらず既に庭を優しい色調に染め替えている桜の木を、少女は眺めていた。

 若々しい新芽を吹いたばかりの下草はしっとりと柔らかく蒼く。その上に降り注ぐ陽光は、無信心の人間にも天の恵みを信じさせてくれそうな程輝かしい。時折、そよりと吹き抜ける風は、心浮き立たせるような春の息吹を運んでくる。絵の具をそのまま搾り出したような真っ青な空を背景に、淡く色づいた蕾がふっくらと膨らんでいる。今日、明日にでも、一斉に開くだろう。

 彼女と同じ名をもつ木。この屋敷の象徴のようなこの木と同じ名をつけたのは……いったい誰なのだろう。




――――幸せを絵に描いたような、穏やかな光景。


 この庭に毛氈を敷き、茶器と菓子を持ち出す。まるで、ままごとでもするようにお茶を入れる。この時ばかりは下女の手を煩わせることなく、彼らだけでお茶の支度を整えるのだ。その作業すらも、「彼ら」と一緒なら楽しかった………。



 桜は目を閉じる。



 瞼の裏に、幸せそうに笑い合う、子供たちの姿が蘇った。

赤い毛氈の上で、茶器を揃える彼ら。一人は、幼い彼女自身。そして、それより年上の少年が二人―――――。



『お兄様』

 幼い桜があどけない笑顔を浮かべてそう呼ぶと、これ以上ない優しい笑顔を返してくれた兄。

『桜、桜。私の大切なお姫さま』

兄は、彼女を抱きしめて、いとおしそうに髪に触れた。

『私、ずうーっとお兄様のお側にいたいわ』

『可愛いことを言ってくれるね、桜。本気にしてしまいそうだよ』

 いつも大人たちに囲まれて仮面を被っているかのような兄が、彼女の前では子供のようにくしゃくしゃの笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて、さらに言い募る。

『あら、本気なんだから』

『そんなことを言われると手放せなくなりそうだね』

 ぎゅっと両腕の中に閉じこめられて、桜は弾けるように笑う。

 ふざけあう二人を、温かな声が諌める。

『そんなに力を込めたら、桜さまが壊れてしまいますよ』

 振り返ると、彼ら二人を見守る穏やかな眼差しに出会った。いつも兄の一歩後ろに静かに従っていた、兄よりも少し年上の少年。

 桜は、ぱっと顔を輝かせて彼の名を呼んだ。


『はい、桜さま』

 年上の余裕を感じさせる穏やかな物腰で、彼は腕にしがみついてきた桜を受け止める。

 桜は彼も大好きだった。兄に負けないほど………。

 いや、と慌てて思い直す。

(一番は、お兄様。これは譲れないもの。でも……)

 彼に対する気持ちは、兄に対するのとは少し違う。どこが違うのか、幼い桜にはよく分からなかったけれど、違うのだけは分かる。

兄は、一番。これは本当。

一番大切な人、幸せになってほしい人。兄を守る為だったら、桜はなんでもできる。兄の望みを叶える為だったら、どんなことでも。桜の笑顔は、全て兄の為にあるのだ。

でも、彼は違う。彼は「大切な」というよりも――――そう、「必要な」人だ。

 桜にとって、必要な人。なくてはならぬ人。いつも桜の心を分かってくれる。桜が安心して全てをさらけ出せる人。

兄の前では、桜は泣かない。大切すぎるから、心配をかけることすらしたくない。でも彼の前では、桜は心の閂を開け放すことができる。桜が一番安心する場所、くつろげる場所、桜が桜でいられる場所。それが、彼だ。

失うことはできない、人。

(これって……どういう感情なのかしら)

そんなことが頭を掠めなかった訳ではない。でも、桜はすぐに忘れてしまう。少なくとも、幼い桜の世界は幸せで満ちており、どちらか一人を選ばなければならない程、切羽詰った事件はなにも起きなかったから。永遠にこのまま、三人でいられると信じていた穏やかな日々。いつか成長すれば、兄も妻を持ち、桜にも他家に嫁いだりと三人だけの閉じられた世界も終わりを告げる日がくるのだろう。だが、彼らにはそんな選択の日は遠い未来だ。その時が来るまでは大切な人たちに囲まれて楽しく過ごせるのだと、疑いもしなかった、あの頃。


 だが―――…。



(―――そう、選択の日は来なかった)



 暗い呟きが、ぽつりと桜の胸に落ちた。


『誰!?』

 幼い桜は、怯えて叫ぶ。だが、返る答えはない。

(何……?今の―――私、の声……?)

と、ふいに辺りが暗くなった。

 頭上から降り注いでいた温かな日差しは消えうせ、墨で塗りつぶされたように、視界が闇に閉ざされた。桜の髪に触れていた兄の指も、握り締めていた彼の腕も、泡沫のように消えうせる。

 代りに、暗闇に一人残された彼女の手が、ずしりと重くなった。何時の間にか、彼女は両手で何かを握らされている。そして、遠くにぼんやりと幾つもの人影が浮かび上がった。そこだけ、日が差し込んでいるかのような光の中で、彼らは楽しそうに笑っている。

(あれは………)

桜は、彼らの名を一つずつあげていく。老若男女様々なその人々は、どれもよく見知った顔ばかりだ。特に好きだと思ったことはないが、嫌いだと思ったこともない――――桜にとっては、そんな間柄の彼らが、何故ここに現れるのだろう。



(だって、もうすぐ、皆死んでしまうんだもの……)



 また、声が聞こえた。

 桜はぴくりと震える。

 これは、桜自身の声だ。彼女の内に浮かび上がってくる心の声。なのに、その言葉の意味が分からない。何故そんな言葉が出てくるのか、全く分らない。まるで、彼女の側にもう一人別の「桜」がいて、耳元に囁きかけているかのようだ。




(あの人たち、みんな死んでしまうのよ)

(どうして!?)

怯える桜に、もう一人の「桜」が、覚えてないの?と笑う。

(殺されるからよ)

(どうして…何故……!?)

(どうしてって……いやだわ。何を言ってるの?)



『そうですよ、何を今更おっしゃるのです』



 もう一人の「桜」の声に、静かな男の声が被さった。と、同時に、背後から彼女を包むように回された腕が、両手に添えられる。



(よく御覧なさいな。だって……)



『だって、貴女が……』



 男の手に支えられて、闇に隠れていた桜の手が持ち上げられる。土に埋まっている棒を引き抜こうとするような動き。自分の両手が握り締めているその重みに、桜は震えた。

 ズブ、ズズズズ…

 何かが絡み付いているぞろりとした感触が、手にした物体から直接伝わってきて気持ちが悪い。滑らかに持ち上げることができない。何か、弾力のあるものに引っかかって、それから無理やり力任せに引き抜こうとしているようだ。

柔らかくて、弾力のあるモノ。

『やめて、やめ…て…!』

 知らない筈なのに、その感触を自分は知っている。見たくない。それ、を。


『―――さあ、桜さま』


促される。

 桜は、いやいやと首を振る。

 見たくない。



 それを、私に見せないで―――!




 ずぷり

 ふいに、手にかかる抵抗がなくなった。

 抜けた―――……。

ぴたん、ぽたん、と不吉な音が聞こえる。桜の足元、桜が握り締めた何かから滴り落ちる、あの液体の音だ。

(駄目………)

拒否したいのに、声が出なかった。背後の男は、桜の気持ちを知っている筈なのに決して止めてはくれない。薄く笑う気配すらさせて、息がかかるほど近くで囁く。


『今更、何を躊躇われます。これは、貴女が』

 その次に続く言葉を、桜は知っていた。


(これは……私が……)


 桜は、のろのろと操り人形のように、両手を胸の前まで上げた。粘り気のある気色悪い液体が、どろりと彼女の手を伝い、肘の辺りまで流れ落ちて行く。


『あ……あ、あああああああ………!!』

 喉がからからに乾いて、悲鳴が音にならない。

 馴染み深いあの赤い液体が、彼女が手にした黒鉄色の刀身を、ぬらぬらと濡らしていた。鍔から溢れ出したその赤は、あっという間に、彼女の身体をも真紅に染めた。




 そうだ、これは彼女が。




(これは、私が、私が……!)





『これは、貴女が』





 桜は、ついに足元を見下ろした。見ないわけにはいかなかった。

 弾力のあるあの感触の元が、そこにはあった。小さな肌色の、柔らかな脆い、生き物。

 彼女がよく知っている、彼女と同じ血を持つ子供。その口からごぽりと血を吐いて。剥いた眼は、彼女を恨めしげに見上げ。その胸は破れ、真っ赤に染まっている。

 彼女が、たった今、刺し貫いた、その場所!





 ―――――私が、殺したのだ!!





『貴女が、殺したのでしょう』





『い、やあああぁぁーー!』

 魂切る悲鳴を上げながら、桜は助けを求めた。






 誰か、助けて!!心が、壊れてしまう!!

 誰か!!




(お兄様……!)




 最愛の名を胸で唱えながら、だが、桜の口から出たのは別の名だった。どんなときでも、必ず彼女を守ってくれる名。こんなことになった今でさえも、それだけは疑いようもない真実として彼女の中に存在していた。なにがあっても必ず守ってくれる、彼女の助け手。たった一人の特別な名を。





『榊、榊!』

 背後で彼女を支えつづける男に叫ぶ。





『もう止めて!榊!!』

 助けて、と縋りついた血塗れの両手を取って、榊は優しく彼女を抱きとめた。

 引き千切らんばかりの力で榊の服地を握り締める桜を、夜の穏やかな闇が包み込んだ。漆黒の着物に包まれた榊の両腕だと気づく前に、深い安堵が胸を浸していた。

 男にしがみついて声の限りに叫びながら、頭の何処かに恐慌とは離れた静かな部分があって、夢から覚めたように過去をなぞっている。




 何故、何故、忘れていたのだろう。



(そう、選択の日は来なかった)




 その日よりも前に、失ったのだ。兄はもういない。そして、彼女自身も、昔のままではない。

 懐かしい―――もう二度とは起こり得ない幸せな時代。取り戻せない、愛しい時間。

 それに―――…。

 切ない涙と、灼熱の炎が、同時に彼女の胸に爪を立てる。

 たとえ、兄が彼女の元へ戻ったとしても、あの時代は戻らない。取り戻せたらとは思うけれど、今となっては戻るつもりはない。

 何故なら。

 彼女は、「彼」を、許すことはないだろうから。

 心の底で、こんなにも焦がれるように過去を想っているのに。「彼」を失ったら生きてはいけない程、彼女にとって彼は必要なのに。

 それでも、「彼」を許すことは、彼女にはできない。

 三人が揃ったとしても、あの頃と同じ時間を過ごすことは、もう二度と……。




『榊……榊……』

 桜は、何度もその名を呼ぶ。


(私は、お前が………)


 差し延べられるその腕も、しがみつく彼女の手も、なにも昔と変わっていないのに。素直に「大好き」と言えた、あの少女はもういない。夢の中にしか。

桜の指はいつしか榊の腕から肩へと這い登り、首へと辿りついていた。まるで、愛撫するように優しく皮膚をなぞり―――指先に力を込めた。


『さ…かき…』


(私は、お前を……)

 真綿で絞めるように、少しずつ両手に力を込める。当の榊は、苦しい筈なのに慈愛に満ちた眼差しで、彼女を見下ろすばかり。

 堪えきれずに、桜の瞳から一筋、涙が流れた。

 夢でしか、流せない涙が―――。






    *      *







「桜さまはどちらに?」

 通りすがりに尋ねられた侍女は、頬を赤らめた。

 滅多に口をきくことのないこの家の若き家令を、淡い憧れと共に影から見つめている侍女たちは多い。

 常に漆黒の着物で長身を包み、端正な顔をほとんど崩すことなく、言葉少なに主人の側に控えている姿は、美しい影のようだと皆噂している。かといって、決して大人しいわけではない。歳に似合わない存在感を持つ男。彼の一言で、この家の全ては動くのだ。主人を煩わせるうるさい親類たちも、彼のひと睨みで尻尾を巻いて逃げ出したとか。

 この家を実際に切り盛りしている、一番の実力者が彼である。

 先代の当主、梧桐あおぎりの乳兄弟にして、その懐刀でもあった彼は、そのまま新当主の側近となった。梧桐の急な死により、突然訳もわからないまま跡目争いに巻き込まれた未だ少女の身である桜姫を盛り立て、当主の座に押し上げたのは、ひとえに彼の力によるものだと言われている。今や奥津樹家にとってはなくてならない人材だ。

 しかも、独身で顔もいいとなれば、憧れる女が多いのも当然のこと。

 侍女は、あとで同僚達にやっかまれるかしらと思いながら、とびきりの笑顔を作って彼の名を呼んだ。

「はい、榊さま。姫様は桜の間においでですわ」

 だが侍女の精一杯の媚態は、石のように無表情な男の顔にぶち当たって、虚しく崩れ落ちた。

「桜の間?あのような場所に……?」

 険しい呟きに、侍女は一転して泣きそうになりながら言い訳する。

「そ、それが、あの……私どもはお止めしましたのです…。でも、姫様が、あの、その、……どうしてもとおっしゃって……」

 普段は彼女たちには声を荒げることもしない穏やかな榊だったが、こと、桜姫のことになると、とても厳しいことを侍女はよく知っていた。以前にも桜が倒れた折、側近くの侍女と料理人が数人、有無を言わさず首を切られたことがある。お世話する者たちの健康管理に不手際があったとか…。

 まあ、あの桜姫を見ていれば、それも致し方ないことかと侍女は思う。

 屋敷の奥深くで大切に育てられた、愛らしい姫君。いまどき珍しい程なよやかで優しい姫様を見ていると、彼女たちですら守ってあげなくては、という気になるのだから。

 申し訳ございません、と何度も頭を下げると、榊はもういいと首を振って、

「私がお諌めして来よう。ご寝所の方へ、何か暖かいものを用意しておきなさい」

 足早に、奥へと向かった。







「まったく、あの方は……。傷は浅くないというのに」

 医師からは絶対安静を言い渡されている。屈強な青年男子ならともかく、あの細い身体では確実に熱がでることだろう。

 榊は、少々苛立っている自分を自覚していた。

 あの男の刃が振り下ろされたとき。

 何故避けなかったか、などと言っても仕方ない。

 避けられる筈がなかった、あの時の―――桜には。

 避けなくて正解なのだと、分かっている。だが、あの白い腕から鮮血が飛び散ったとき、眩暈がする程の憤りが駆け巡った。本来触れることもできない人間が、あの人を傷つけたという不快感。そして、それを食い止められなかった自分に対する怒り。ああいう時の彼女を守るために、自分は側に控えているというのに。

感情を理性で抑る術には長けているつもりだったが、彼女のことになるとたがが外れる。

悪い癖だと思いながら、榊は「桜の間」へ続く扉を開けた。

途端に、ざあぁっと風が吹き込んできて、瞬間、目が眩んだ。淡い薄紅色が、惑わすように目の前に踊りこんでくる。

穏やかな午後の光と芽吹き始めたばかりの緑にそっと抱かれるようにして、小さな姿が座椅子にもたれているのが見えた。その上に、桜の木が巨大な天蓋のように枝を広げている。淡い花弁が時折その柔らかな頬を掠め、微風に伏せた睫が揺れている。

この場所は好きではない。もう戻れない、穏やかな時間を思い出させる―――。


「桜さま…」

眼の奥に蘇りかけた幻を振りきって、榊は桜の元へと歩み寄った。

毛氈の上に座椅子を置いて、それにもたれかかるようにして桜は座っていた。眠っているのか、目を閉じたままぴくりとも動かない。

榊は、自分の羽織っていた黒羽織を脱いで、そっと少女の胸にかけようとした。と、長い睫が震えて白金の瞳がのぞいた。黒髪黒瞳が人口の七割を占めるこの国で、その色は珍しい部類に入る。

そのけぶるような眼差しで榊を見上げ、

「榊……」

 囁くように彼の名を呼び、ふわりと笑った。

 一瞬、どきっとする。まるで、過去の幻が現実化したのかと思った。昔はよく見せてくれた、純粋に彼を慕う笑顔。

(馬鹿な。今更、何を望む)

もう、彼女がそんな顔を自分に向けることはあり得ないというのに。

自分の勘違いを暗い諦めと共に諌めながら、手を引っ込めようとしたが、思いもかけない強い力で引きとめられた。羽織りを持つ彼の手首を、桜の細い指が握り締めていた。

「桜さま?」

「夢を…みたわ」

 外見に違わぬ柔らかな声が、掠れて震えていた。

「……真っ赤な………が……私が、初めて……あの時の……」

 切れ切れな意味不明の言葉も、榊にはすぐに理解できた。落ち着かせるように、大丈夫ですと繰り返す。

 ややあって、血の気の引いていた指から力が抜けた。

深く吐き出した息と共に、言葉をこぼす。

「お兄様にお会いしたわ……」

「……え?」

「夢の中よ」

「桜さま……」

「榊……」

 縋りつくような呼び声に応えて、榊は両手を差し出して、細い肩をふわりと抱く。こういう時の彼女の脆さを、榊はよく知っている。そして、もうこの世には彼以外には、桜が素顔を見せられる相手はどこにもいないということも。たとえ、それが彼女にとって、どれほど不本意であろうとも―――。

桜は目を閉じて、体重を榊の腕に預けた。

榊は指を伸ばすと、桃の実のような頬にそっと触れた。指先に感じた熱さに眉を寄せる。

「熱が、ありますね」

「すぐに下がるわ」

「わざと受けたりなさるから…」

「避けられなかったのよ、『桜姫』には。そうでしょう?」

「それは分っておりますが……」

 榊は言葉を濁した。

 あそこであの刃をかわすことは、深窓のご令嬢、桜姫にはできない芸当だ。仕方ないのは分かっている。だが、もしあと少しずれていれば、桜の命はなかった。もしも桜が死んだりしたら……。ほんの少し想像するだけで、内臓を掻き回されたような心地を覚えた。

「それよりも、なにかあって?」

 桜は榊の腕から身体を起こすと、目を開けた。そこにはもう、いつもの彼女しかいない。冷静な声音で、まさか諌めに来ただけではないでしょうと問われて、榊は諦めたようにため息をついた。起きあがった彼女の背の側へ羽織りをまわし掛けて、

「―――桜さまを襲った男のことが分かりました。名は朱瑛。裏では〈綱斬りの朱瑛〉などと呼ばれている、一匹狼の殺し屋です。親兄弟はなし。住まいは不定。特にどこの組織にも所属しておりませんが、〈最上〉とは懇意にしている様子です。今回の殺しもそこからの依頼のようですね。腕はかなりのものですが、仕事をえり好みする悪癖があるとか」

「世間の噂は分からないわ。実際手合わせしてみてどう思った?」

「うちに来ても上位十本には入るでしょう」

「そう……」

 桜はそれきり黙って、そのまま風に吹かれている。

花びらが、なびく髪に絡まるようにして流れていく。風が吹くたびに、濃厚な緑の香が彼らを包み込んだ。

二人して、どのくらいそうしていただろう。先に口を開いたのは桜だった。

「何か、言いたいことがあるんでしょう?この前からずっと、そんな怖い目で睨みつけて。生きた心地もしなくてよ」

 と、くすくす笑う。

 首を曲げて、榊の憮然とした表情を目にすると、さらにその笑みは深くなった。

 からかわれているのだ。

「ご冗談を。私ごときを貴女が怖がる筈がないでしょう」

「何が気に入らないの?」

 重ねて問われて、榊はようやく重い口を開いた。

「どうしてあの時、姿を見せたりされたのです」

「あの時?」

 桜は、頬に指をあてて、あどけなく首を傾げて見せる。

「里見の屋敷で」

 ああ、と桜は唇の端を引き上げた。


 榊は息を呑んだ。

 見なれた筈なのに、いつまでも慣れることがない。湧き上がってくる戦きに、身体の奥が熱くなる。



 一瞬で、唇は桃色から薄紅色へと艶を増した。

 細めた瞳に宿るのは、年齢不祥の暗く謎めいた光だ。

 桜は艶やかに微笑んでいた。

 そこにはもう、愛らしい姫君はいない。

 同じ顔、同じ声にも関わらず、受ける印象がまるで違うほどの変貌。たとえるなら、野に咲く雛菊が闇に咲く深紅の薔薇へとすりかえられたように。もしここに、朱瑛がいたなら、叫んだことだろう。「彼女こそ、あの夜の女だ」と。

 逃れることを許さないような強い眼差しが、榊を取りこむ。

(ああ………)

我知らず、榊は吐息を漏らしていた。

「気に入ったからよ」

 桜は、魅惑的な笑みを浮かべたまま、そう告げた。

「……では、引きこみますか?」

「それは、今後の動き次第ね。―――黒幕は割れていて?」

「それが……申し訳ございません」

 目を伏せて言葉を濁した榊の上に、軽やかな笑い声を降り注いで、

「いいわ、別に」

 心当たりがありすぎるのも困りものね、と桜は可笑しそうに言う。

「顔役まで辿れているなら、時間の問題でしょう。いざとなれば、<最上>本人に手を出してもいいわ」

「は……」

 いつもは霞がかったように淡い白金の瞳が、生気に満ちて鋭く輝いている。本人は意識していないのかもしれないが、敵を陥れる為に策を練る時、彼女は一番生き生きして見える。彼女が最も厭っているその瞬間にこそ―――。

(やはり、血は争えぬということか……)

 引きこまれるように見つめていた榊は、

「榊。お前、少しお下がりなさい」

 ふと、表情を消し去った桜によって正気に戻された。

 人の気配が近づいている。

 いつも、桜の方が一瞬早く察知する。それは、奥津樹一の手練と言われる彼を凌ぐ、桜の天性の才能だ。

「嫌です」

 きっぱりと言いきった榊を、桜はいつもの幼げな少女の顔で見上げて、

「大丈夫。今度は避けるから。私が信用できない?」

「貴女の腕を疑ってはいませんが……でも!」

「話がしたいだけ。済んだら、後はお前に任せるから」

 重ねて強く要求されて、榊はしぶしぶ邸内に戻った。近くに潜んで様子を窺うなどという小細工は、彼女には通用しないのだ。


 一人残された桜は、目を閉じて―――呼んだ。


「出ていらっしゃい。聞こえないの?綱斬りの朱瑛」

暫くの沈黙の後。

木立の間から、ゆっくりと長身の影が滑り出した。桜は、満足そうに、

「会うのは三度目ね。ようこそ、殺し屋さん」

 と、あどけない微笑みを向けた。







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