桜闇姫~闇鵺小話~
ニ、
―――――金のかかった屋敷だ。
その屋敷に入り込んで一番に覚えたのは、そんな感想だった。
金はかかっている。だが、それだけだ。
建物自体も調度品も、一貫性がなく、ただ高級とされるものを寄せ集めてきたようだ。しかも、異様に金が多く用いられている。
元々、この国の文化は質実剛健。簡素なることを「美」としている。無駄を省き、万物のありのままの姿を愛でる。
建国の祖王が、数十もの小国を統一した歴史上でも稀に見る程の「武」の王であった為、自然とその家臣団―――今現在の貴族階級にあたるのだが―――も殆どが武家であった。武家文化は、華美を廃し、質素にして清廉なることを良しとする。
だが、それももう昔の話。
長い平安に腐敗した上流階級の欲望はとどまることを知らず、富を求め、絢爛と己を飾ることに暇がない。特に後から台頭してきた権力者にその傾向は顕著だ。今や武家の伝統と格式は、王家と古きゆかしき血筋に伝わるのみである。
この屋敷も昨今の例に漏れず、柱の細工はもとより、天上にまで金箔入りの絵が描かれている。庭の中を走っている雨風に晒される廊下ですら、この有様なのだ。室内は推して知るべしだろう。派手な赤い絨毯に、天から落ちる清楚な月光が、まったく似合っていない。
(実に、俺好みだねえ)
朱瑛は、歯を見せてにやりとした。野性の獣が舌なめずりする様を彷彿とさせる。
目に映るのは、夜の闇の中ですら毒々しい輝きを放つ黄金色だ。いかにも最近成り上がってきたらしい金持ちの屋敷だ。先代までは貴族の中でも中流の家柄だったと聞く。それが、十数年でここまでとは……。
現当主は、余程悪どい所業をしているらしい。政敵を叩き落す為なら、賄賂でも謀殺でも何でもござれ。そして金を得るためなら、ヤクザとでも手を組むという。この黄金だって、最近秘密裏に手に入れた金山から運ばせているらしい。もちろん、鉱脈の発見者から近隣の住民まで、きれいに口を封じてあるのだろう。恨みだけで人が殺せるのなら、ここの当主はきっと数十回は殺されている。
噂は本当だったようだと、朱瑛は楽しげに喉を震わせた。
ここのところ、小物の仕事が続いて、腐っていたのだ。ここまできっちりとした悪党は久しぶり、それも大物だ。
本当に、こういう輩は大好きだ。ぞくぞくする。
悪党なら悪党であるだけ。したたかで、ずるくて、それなのに表面を飾りたて、偉そうな面をしているヤツほど、その息の根を止めるのは楽しい。人を馬鹿にしきった尊大な眼が恐怖の色を浮かべ、威けだかな命令を発していた口から泡を吹きちらし、涙と鼻水で汚れた顔を地に擦り付けて命乞いをする。その様が醜ければ醜いほど、みっともなければみっともない程、殺すのは快感になる。
もう、どうしようもなく性になってしまった、この高揚感。女を抱くよりもずっと血が滾る。眩暈がするほど、心地よい。
きっと自分はどこかおかしいのだ。
だが、殺し屋など、所詮畜生。多かれ少なかれ、誰もが一度覚えた血の匂いを忘れられずに堕ちた、そのなれの果て。
ならば今、彼の背後に集まっている連中も皆、同じ穴の狢だ――。
外壁を越えたばかりの茂みの中に、彼らは潜んでいた。朱瑛を入れて、丁度十人。決してしくじってくれるなという、依頼人からの強い希望と、私兵を大量に雇っているとの情報から、人数を集めての仕事になった。
殺しの依頼は、大抵が顔役と呼ばれる斡旋人から回ってくる。個人で引き受ける者もいるにはいるが、裏世界の実力者たる顔役たちが吟味して受けた依頼は、仕事の質がいい。裏があるような危ない話は入ってこないし、何より金銭の授受が確かだ。支払を踏み倒される心配がない。そんな訳で、殺し屋たちは大概どこかの顔役の組織に所属していた。
ただ稀に、どこにも所属せずに、幾人もの顔役とその都度自由に契約する殺し屋がいる。〈流し〉と呼ばれる彼らには、命令する者がいない為、自由に仕事を選ぶことが出来る。その代りに相当の実力が必要だ。組織に所属していれば、それなりに仕事は回してもらえるから、食いっぱぐれはない。だが、〈流し〉となると、どうか手を貸してくれと、顔役から頼まれるだけの実力がなくてはやっていけない。
朱瑛もその口―――しかも、結構ひっぱりだこの〈流し〉だった。彼は、基本的に群れるのが嫌いだったので、今回のような仕事は本来なら断っている。それなのに不承不承でも受けたのは、〈最上の顔役〉とは長い付き合いで、彼がまだ駆け出しだった頃よく世話してもらった恩があったからだ。
まあ、雑魚を他のヤツらに片付けてもらって、自分はさっさとアタマを狙うつもりでいるのだが。
「ここで、散ろうぜ」
声を潜めて提案すると、他の連中もすぐに乗ってきた。
どうも皆、考えることは同じらしい。同業者たちを出し抜きたくてたまらないのだ。当主を殺った者には特別の賞金が出ることになっている。これでは人数を集めても意味がない。連携など期待する方が可笑しいのだと依頼人を嘲って、朱瑛はその茂みから抜け出した。他の連中も、三々五々、闇に紛れたようだ。
異変に気づいたのは、主の寝室がある奥棟に近づいた頃だった。
奥棟と母屋をつなぐ回廊まで、庭の木立を突っ切ってきた。屋敷自体に近づいたのは、これが最初。だから気づくのが遅れたのだ。
(なんだ……?)
庭の植え込みから飛び出し、回廊に敷き詰められた絨毯に足を乗せる手前で、何かが彼の足を止めさせた。ちりちりと、と首の後ろの毛が逆立つような違和感。一見、無意味に思えるこうした勘働きが、実は一番あてになることを、朱瑛は知っていた。
―――――静か過ぎる。
それが、引っかかりの理由。
真夜中を過ぎた、最も眠りの深い時間帯。静かなのは当然だが、この静けさは異常だ。
ふと気づいてみると、己の息遣いすら煩わしく感じる。さわり、と髪を撫でた風に音があるような錯覚に陥る。まるで、時間を止められた御伽噺のお城に紛れ込んでしまったような気分だ。
何を馬鹿なと自嘲しながらも、月光を含んだ絨毯に足を乗せるのを躊躇ってしまう。高級な絨毯は足音を吸収してしまうというのに、音を立てそうな気がする。
「なんだってんだ」
わざと声に出して吐き捨てて、えいとばかりに一気に絨毯に飛び乗った。
(ほらみろ、何もあるものか)
怖気づいたかと、自分で自分を嘲笑いながら走り出した。
だが、やはり――。何かが……何か見落としていないか。
足りないものがある。彼の頭に叩き込まれた情報と、合わないもの……。この静けさを変だと感じさせるもの……。
―――――私兵だ。
思い至ったその瞬間、ぎくりと足が止まった。
前方に黒々と横たわる影。折り重なるように倒れている―――四つの人影。
赤い絨毯が塗れたときのように黒く色を変えている。
―――――死んでるな…。
絨毯がどっぷり吸い込んでいるのは四人分の血液だ。すでに表面が乾き始めているのを見ると、つい今しがた殺されたわけではなさそうである。
朱瑛は周囲に目を配りながらすばやく近寄り、彼らを観察した。
全て一刀の元、鮮やかな切り口で殺られている。見事な腕前だ。どの顔にも覚えはない。ということは、共に忍び込んだ仲間とは別口。
(こいつらが、例の私兵か!)
朱瑛の背に戦慄が走った。
(誰が、やった!?)
仲間の誰かではありえない。この腕は、朱瑛と張るほどのものだ。そんな奴が仲間内にいたとは思えない。それに、朱瑛は誰より早くこの母屋に辿り着いたと自負している。〈猫目の柳〉の情報は一級品だ。最短の進入路を教わってきている。他の誰かに先を越されるなどありえない。それも、血が乾く程前だなんて……!
―――――いる。誰か、別の、未知の誰かが、いる。
血がたぎるような愉悦の興奮は、余韻もなく一瞬で冷めた。
背筋にいやな悪寒が走り抜ける。
―――――見られて、いる。
朱瑛はぴたりと動きを止めた。
「お先に!」
得意げな囁きを残して、後から追いついてきた仲間の一人が彼を追い越した。待てとも言わずに、朱瑛は見送る。
死体の傍を走り抜け、母屋の入り口まで後一歩という所まで来た時である。
突然、そいつは前のめりに倒れ伏した。
予備動作はもちろん、声一つあげることなく。本人は自分が死んだことにも気づかなかったかもしれない。首筋に、なんの変哲もない小柄が生えている。
とさり、と絨毯の毛を震わせた微かな音の後は、再び静寂がその場を支配した。息を殺して気配を伺う朱瑛を嘲笑うように、静寂は続く。動くことすら確実に死に繋がると物語る沈黙だ。だが、このままじっとしていてもやられない保証はない。
相手の場所が分からない朱瑛の方が圧倒的に不利だ。しかも、この場所では丸見えだ。
相手が何者かという詮索は後回しにして、朱瑛は自分の身を守ることを最優先にした。猛スピードで策をめぐらせる。ずいぶんと長く感じられたが、その時間は一瞬にも満たなかっただろう。
(どこかに、生贄がいねえか……)
そう、思った時である。
計ったように、背後から騒がしい気配が近づいてきた。複数だ。下草を踏みつける音に混ざって、話し声も聞こえる。聞いた覚えのある声だから、仲間の誰かだろう。
しかしいくら三流とはいえ、深夜に忍び込んで、気配どころか音も消さないというのはおかしくはないか。いくらなんでも、誰か家人が出てこないか。
嫌な予感がした。
そして、その予感は当たった。
やってきたのは三人。その三人の様子がおかしい。朱瑛を見つけるなり、恐怖と怒りがない混ぜになった形相で走りこんできたのである。
「貴様の仕業か!?」
胸倉を掴み揚げて怒鳴りあげているというのに、その声に含まれているのは縋るような響き。パニック寸前で、なんとか踏みとどまっているような。
「皆殺しか?」
朱瑛の静かな問いかけに、男は目を見開いた。
「期待に添えなくて悪ぃが、俺じゃねえぜ。―――どうなってた」
男は手を離して、へなへなとその場に座り込んだ。もう一人が同様にへたり込みながら答えた。
「一人、また一人、って、気づいたら殺されてるんだ。物音一つしなかったのに、ふと振り返ると、そこにいた筈のヤツが死んで倒れていやがる。屋敷の番兵どもは一人も生きちゃあいねえ。しかも、この屋敷の部屋という部屋、下働きの連中まで全員、クスリで眠らされてる。どうなってやがんだよ!」
「別口がいるってことか」
そこで声を潜めて、囁く。
「ここにもいるぞ。さっきから見られている」
ぎょっと、三人は立ち上がって辺りを見回した。だが、気配一つしない。それがさらに彼らの恐怖を煽った。
「死んで……たまるか……っ!」
奥歯をぎりぎりと噛み締めて、彼らは弾かれたように駆け出した。目的もない、ただ恐怖から逃れる為に本能が命じた動き。
その瞬間を、朱瑛は冷静に待っていた。
彼らより半瞬遅く地を蹴る。
「ひ……ぃ……」
喉に絡まったような悲鳴を間近で聞きながら、その横を駆け抜ける。血飛沫を避け、断末魔の悲鳴を黙殺し、彼は走った。
かつて仲間だったモノが全て地に這いつくばった時には、母屋の入口に辿りついていた。扉を閉める瞬間に、ちらりと目の端に、茂みから踊り出た黒々とした人影が映った。
追って来ない……?
短刀を構えて待っていた朱瑛だったが、外からは何の反応もない。
躊躇いを覚えながらも、先に進むことにする。
(静かだ……。ここも)
屋外の暗闇の中で感じた、あの気味の悪い静寂と同じものが、この建物内にも漂っている。
カツン、と一歩足を出すと、足音が反響する。
あの死んだ馬鹿どもによれば、家人は前もって全員眠らされていたらしい。ならば、こんなささやかな足音一つ、気にすることはない。
だが、朱瑛は舌打ちして履物を脱いだ。
相変わらず馬鹿の一つ覚えのように黄金細工で飾られた廊下は、天井が高い。色硝子を嵌めこんだ天窓から、月光が宝石のように多様な色を纏い直して落ちてきている。その幻想的な光のシャワーから逃れるようにして壁際の闇に溶け込む。
全て、まだ正体も分らない敵に対する用心だ。
自分たちよりも先に忍び込んだ、別口。朱瑛の中では、既にそいつらは「敵」として認識されている。
恨む人間が多ければ多いほど、「仕事」がぶつかる確率も高くなる。殺し屋は彼らだけではない。
だが、仮に同業者だったとしても、自分の仕事を横取りされたり邪魔されたりするのは、朱瑛は大嫌いだった。
(どこのどいつか知らねえが、ただじゃあ、帰さねえ)
ぎたんぎたんに刻んでやると、いつものように不適な笑みを浮かべて、主寝室を目指す。
だが本人は気づいていない。その笑みが、いつもほどの迫力がないことを。
決して自分で認めたりはしないが、かすかな怖れが彼の心に陰影を刻んでいた。
気配を殺して、どこからの攻撃にも耐えられるように細心の注意を払って走っていても、時折かすめるように不安がよぎる。
敵が複数ならば、必ずいる筈なのだ。この建物内に。見張りらしき者が入口にいたことを考えれば、この中に最低でも一人。それなのに、まるで廃屋にたった一人取り残されたようだ。
人気のない、死んだような静けさが、精神にのしかかる。
重い……。
走っても走っても、この廊下には終わりがないような気がする。
時間の感覚が……おかしくなる。
幻の中を走るように、体自体の感覚すら、なくなりそうだ。
誰も、いない。
走っているのは自分なのか。
この足は、きちんと動いているのか。
まるで何かに引かれているように、自分の意志とは無関係に動きつづける足。
誰もいない。呼ばれているように思うのは気のせいだ。
誰にも見られていない、筈なのに。
(知られている、既に)
そう囁く、この声は誰のものだ。
(見逃されている、わざと)
囁いているのは自分、なのか。
―――――ああ、月光に焼かれて、身体が闇に溶ける。
輪郭が、あいまいになる……。
「馬鹿な」
何度も何度も、朱瑛は己を叱咤しながら走った。
(怪談に出てくる魔物の館じゃあるまいし。この俺ともあろうものが…!餓鬼のように怖がりやがって!)
だから、くだらないことを考えるのだ。月の光と、この静寂に惑わされているだけ。今はただ、見えない敵と――そして、獲物を狩ることだけを考えろ!
永遠かと思える時間がすぎて、朱瑛の手はようやく、主寝室の扉に届いた。
息を整えると、壁の陰に身を沈めて、そっと扉を押す。開けた途端に中から繰り出される攻撃を避ける為の用心だ。
だが、内部からは何の反応も返って来ない。廃屋の扉のようにゆらりと半分ほど開いて止まる。風もないのに、そのままゆらゆらと揺れつづける。まるで、彼を招くように。
中からは気配がしない。一番のりだったのだろうか。
この主寝室は分かりづらい。用心の為か、母屋の中でも端の方にこじんまりと作られているからだ。正確な下調べがなければ、ここが主人の寝室だとは誰も思うまい。恨みを買っている自覚だけはあったらしい。
(ええい、ままよ)
元々短気な朱瑛は、腹をくくって中へ飛び込んだ。
そして、見てしまったのだ。
出会ってしまったのだ。彼の運命を狂わすあの女に――――。
一筋の月光だけが差し込む真っ暗な室内に、一歩踏み込んだ瞬間、唸りを上げて長剣が襲い掛かってきた。
用心していたにも関わらず、避けるのが精一杯だった程、その剣圧は凄まじかった。今まで朱瑛が出会ったどんな相手よりも。
髪の一房を持っていかれ、バランスを崩して床に手をつく。そこを見透かされたように、剣が追ってくる。
(強い……!)
身体を捻って二撃目をなんとかかわしたものの、こっちの得物を抜く暇すら与えられずに追い詰められる。相手の姿を確認することもできない。朱瑛に見えていたのは、ただひたすら、月光を弾く切っ先だけだ。それをただ避けるだけ。
ぞっと、戦慄が全身を駆け抜けた。生まれて初めて、敵わないかもしれないと思った。
その時。
「おやめ、榊」
この場にはそぐわない、やわらかな女性の声がした。
ぴたり、と榊と呼ばれた相手は機械のように攻撃を止め、声のしたほうへと音もなく移動した。
(誰だ)
この時になってようやく、朱瑛は室内の様子を見ることが出来たのである。
闇に沈み込んだ壁際に、微動だにしない人影が数人。あまりに気配の殺し方が見事なので、果たして何人いるのか正確には分からない。
そして、窓辺に月を背にした小さな人影がひとつ。
朧な白い光に浮かび上がるその姿は、華奢な女性のものだ。逆光で顔は見えないが、ほっそりとした姿が銀色に縁取られて幻想的な光景を作り出している。
その斜め後ろに控えるように、長身の大きな影がぴたりと収まった。朱瑛を襲った、榊という男だ。女の守護者然と、彼女の背後の空間を当たり前のように占めている。
「探しているのは、里見の当主かしら?」
高すぎず低すぎもしない声が、歌を詠むように尋ねた。先刻と同じ声。窓辺の女が発したようだった。
黙っている朱瑛の上に、鈴を振るような軽やかな笑い声を降り注ぎながら、
「それなら、ほら、そこに」
そう、指差して見せた先には……。
光源が月明かりのみである為、ほとんどは暗闇に沈んでよく分からない室内。ただ、中央に置かれた異国風の天蓋が、月光の真下にあたるせいでくっきりと浮かび上がっている。
何故、指摘されるまで気づかなかったのか。
何よりも一番に目に付くはずの、大きな調度品。それよりも、この小柄な女に目が行ってしまったのだ。それほどに、彼女の存在感は大きかった。王のように、その場を支配する…。指されるまで、まったくそれが見えてもいなかった程……。
青白い紗幕が割れて、金糸入りの布団の端が見えている。そこからはみ出しているのは、老いた男の足だ。だらんと力なく、夜目にも明らかな、もう生きていない足……。
頭の芯が冷たくなった。
初白星だ、獲物を殺りそこなうなど……!
殴られたような衝撃が来て、ようやく朱瑛は本来の彼に戻った。
「てめえらがやったのか!?」
俺の獲物を。
(許せねえ)
「てめえら、なにもんだ!」
屈辱が、剣の柄へと手を伸ばさせた。
ざわり、といきなり壁際の彫像たちが、一斉に動いた。全員が何らかの得物を構えた気配がする。
いくら朱瑛でも、この人数、この手練を相手に勝算はない。それでも、持って生まれた性分だ。おめおめと尻尾を巻く気にはなれない。
室内に殺気が渦を巻いた。
と―――。
ふふふふ、ふふ、ふふふふふ
最初は密やかな。
くすくす、くすくすくす
やがて、喉の奥で転がすような。
(なんだ、これは……)
何なんだ、この声は。この笑い声は。
まるで、幻術のように、頭の中で反響する。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
こびりついて離れない。幾重にも響き渡る。
くすくす、くすくすくす
無邪気に、あどけなく。
うふふふふふ、ふふふふ
甘く、つややかに。
脳髄まで溶ろかすように妖しく、彼女は笑っていた。
笑いながら、もっと窓の近くへと歩いていく。月光によって造られた闇の中から、その光の只中へと。
「なりません!」
その意図に気づいて、そば近くにいた男が止めたが、彼女は振り向いた。
月に照らされて、顔が露になる。
闇の中にあって、それよりもさらに漆黒に見える髪が、さらりと絹衣のように肩先を彩っていた。黒という色が華やかなことを、この時朱瑛は初めて知った。
柔らかそうな頬の線と鼻梁は、名画から抜け出してきた作り物のよう。桃色というよりも、白磁に薄紅を引いたような唇が、僅かに開いて笑み崩れている。
漆黒の闇を彩る、唯一の色。
鮮血と同じ、その色――――。
「あ……」
からん、と朱瑛の手から刃が落ちた。
月の光をそのまま閉じ込めたような二粒の白金の宝石に見つめられた瞬間、彼の中から力という力が抜けた。身体だけでなく、精神の力までも。
まるで、蜘蛛の巣に絡め取られた哀れな獲物のように。彼はただ、呆けたようにその女に見入った。
(いけない……)
どこかで理性の声がする。
くすくす笑う声が麻薬のように彼の精神に浸透し、絡め取っていく。
(見るな……)
そう思いながらも、目が離せない。
纏う赤を、全て血の色に見せてしまうものなど、人である筈がない。しかもそれを美しいと感じるなど!
――――これは、魔性のものだ。
心の何処かがそう警告する。
決して、魅了されてはいけない類の存在なのだ。欲して、焦がれて、いつか必ず身を滅ぼす。
(駄目……だ)
女は、愉しそうに床に転がっていたものを取り上げた。金属がこすれる音がする。
「私の名は……」
女の手に収まったのは、鈍い輝きを放つ中剣一振り。月の光で銀色に輝く筈の刀身。その半ば以上が、ぬらぬらと赤く濡れている。
――――びしゃん
足元は絨毯だ。音がする筈がない。
だが、朱瑛の耳には、滴り落ちる音が聞こえていた。
今まさにどっぷりと血を吸った刀。刀身を伝って鍔元から、ぽたりぽたりと赤い滴が零れ落ちていく。
その赤が、女の白磁の肌に恐ろしいほど映えた。
(なんだ、これは……)
漆黒の闇に抱かれ、花を飾る代りに血の色を装飾として纏う、その姿―――。
なんて、美しい―――。
そう思う心を、もはや止められない。
女は、まだ幼さすら残す顔で、最高級の娼婦よりも艶やかに微笑んで告げた。
「私の名は桜。春風の館の中央に位置するあの花と同じ名」
桜……。
はらりはらりと、闇に舞う薄紅の花弁が、一瞬で朱瑛の脳裏を埋め尽くした。
満開の花の下。風に吹かれて一斉に散るその姿に、恐怖したことはなかったか。
昔から語り継がれている逸話。
『花の下には死体が埋まっている』
それを、信じてしまいそうな程、恐ろしくも美しい花……桜。
春風の館の中心に植えられているという、巨大な桜の老木。花の季節には、それは見事な様子だと聞く。見たこともないその様が目に浮かぶようだ。
ぼんやりと、闇に浮かび上がる白い塊。そこから音もなく零れる花弁、花弁、花弁。深遠な暗闇の中ですら、まるで自身で光を持っているかのように目に焼きつく、その不可思議な色。
狂ったように風に浚われる薄紅の花びらに、惑わされて目がくらむ。
自分がどこにいるのか分からなくなる、あの瞬間。
――――桜の木の下には死体が埋まっている。だから、その花びらは、血を吸い上げて薄紅色をしているの。
ならば、その死体は誰が埋めたのか。誰が、殺した?
――――それは、ね。
木の下にいるのは、緋色に彩られた美貌の鬼だと言われる。闇の中でこそ輝くその美しさは、まさに魔性の者。自らが殺した人間たちの躯を侍らせて、嫣然と微笑む、桜の化生―――。
それに、目の前の女が重なった。
目眩む…。
息もできないほど、その光景は美しいに違いない。
闇夜の桜に抱かれた、かの女性。
風になびく漆黒と、血色の花びら。
「あ…あ…」
知らず、吐息が洩れた。
甘い夢に絡めとられて。
朱瑛は、己を手放した。
――――ふふふふ。いいのよ、その子は逃がしてあげなさい。
そんな声だけが、耳の奥に残された。