桜闇姫~闇鵺小話~
一、
(胸糞悪ィたらねえや)
胸の奥で吐き捨てながら、彼はそれでも営業用スマイルを浮かべて給仕役を勤めていた。
たとえ、意に添わぬ女であっても、仕事のためなら寝る事だってある。そのことを思えば、気色悪い位に飾り立てられ、顔の原型が分からないほど白粉を塗りたくったオバさん達にお酒を注いでまわることくらい……。
「…いいわけねえじゃんか」
今度は口に出してしまった。
「え?何がいいの?」
馴れ馴れしく、彼の腕に宝石だらけの指を絡ませていた女が聞きとがめて首をかしげる。
彼は自分の容姿が人の目を引くことは十分心得ていた。背が高くがっしりとした肢体は、むさくるしくない程度に男らしく、顔貌は美形と呼ばれる範疇には余裕で入る程度に整っている。軟弱な夫に飽き飽きしている貴族の奥様方には最も受けのいいタイプといえる。
自分でそこのところを分かった上で、それを利用しようと目論んでこの宴に潜入しているわけだから、文句を言う筋合いではないのだが……。
(でも、こいつは一種のゴウモンだぜ)
げんなりしながら、傍に張り付いている女達を盗み見た。
複雑な形に結い上げた髪に、金銀の簪を挿し、極上の絹衣に身を包んだ女達は、美しいとはお世辞にもいえない。着物の重みでろくに動けない彼女達の姿は、むしろ醜悪だ。鏡を見て出直して来いと言いたくなる。
自らを競うように飾り立てた女たちは、窓際に据えられた椅子に重い体をやっと乗せているが、それでも口だけは軽いと見える。知り合い同士で固まって、お喋りに余念がない。
昨今では、海を隔てた異国との貿易も少しずつ盛んになり、様々な文物が流れ込んできている。その為、上流階級の間では、異国文化が大流行。畳に膳を据えての宴が主流を占めていたこの国でも、この度のような、背の高い卓に飲食物を置いた立食形式の宴も頻繁に開かれるようになっていた。
だが、一方でどんどん華美に豪奢になっていく姫君方の衣装では、形式だけ異国に倣った立食式の宴では、動きづらいだけだ。結局、こうして休憩用に置かれた椅子に腰を下ろすことになる。
なにが立食だと笑いそうになるが、彼女達が存在するおかげで自分のような給仕役が必要されるのだから、まあいいかと皮肉げに思い直したところへ、
「ねえ、どうかして?さっきから随分おとなしいこと」
女の一人が、絡み始めた。
それを皮切りに、次々と別の女たちも側に近寄ってくる。
「照れているのかしら?ふふふふふ、緊張しなくてもよくてよ」
「そなた、見ない顔だけど最近雇われたのかしら。ねえ、こんな格式だけ高いお屋敷じゃなくて、わたくしのところへいらっしゃいな。お給金、はずんでよ?」
「あら、ずるいですわ。わたくしの方が先に目をつけたんですのに。ねええ、わたくしの下へ来ればたくさん贅沢をさせてあげてよ?ええ、こんなつまらない宴の準備をすることもないわ。ただたまにわたくしの為だけにお茶をいれてくれることと…あと、すこしだけ言うことを聞いていればいいだけ」
甘えた声音には、意識してかしないでか、男の気を引こうとする女の媚態が含まれている。
これが上流階級の奥方さま、お嬢様方だというのだから、この国も末だなと思う。しかも、今日のこの場に集っている連中というのはその中でも最上位に位置するお貴族様方の筈だというのに。
貴族のお姫様たちのおしゃべりは実は何処よりも情報が早い。国の上の方の情報を手に入れるには彼女達のお気に入りとなって、そのおしゃべりの輪に「男性の華」として紛れ込むのが上策だ。 だから、これは仕方ないのだ、我慢だ我慢。
そう己に言い聞かせていなければ、笑顔が引きつってしまいそうだ。もうじきすれば、目当ての人物が現れる。それまでの辛抱だ。
この宴は、王族から家臣へと降嫁した元王女の主催する特別なものだ。だから、普段はあまり社交場にも顔を出さない「彼女」も訪れる筈だ。この情報を手に入れる為にかかった金と、この屋敷に雇い入れられる為に使った数々の手管と手間を考えると、一時の短気は馬鹿をみるだけ。
そう言い聞かせながら、飲み物の用意をする振りをして、姫君たちを引き剥がす。
館の主の趣味で、徹底した異国趣味に飾られた広間は、床は絨毯敷き、窓は障子ではなく、硝子が嵌め込まれている。柱と梁だけは、昔ながらの簡素な木造りだが、寺院の本堂並みに天井が高い。わざわざ宴会用にと、この一棟だけ改築させたというのだから、恐れ入る。卓には、豊富な料理が賑わい、梁から吊られた籠からは、色とりどりの花が零れ落ちている。客達が手にしている杯が、午後の日差しを七色に反射して、眩しい程に輝いている。
その美しく豪勢な光景に目もくれず、彼は足早に歩き出した。
「やってられるかっつーの」
ぼそりと口をついてでるのは柄の悪い下町言葉だ。
目当てがなければ、こんなところに紛れ込むのはまっぴらだ。気まぐれな一匹狼と名高い、〈綱斬りの朱瑛〉ともあろうものが、たとえ仕事とは言え、こんな苦行を我慢するには訳がある。
そう、今回の「獲物」に対する自分でも気味が悪いほどの深い興味が、そうさせるのだ。
どうしても確かめたい。あれが本当に「彼女」だったのか。別人だと言われたほうが、まだ納得がいく。だが、別人たとすれば……。
(あれはいったい誰なんだ……)
くすくすと鈴の音のような笑い声が脳裏に反響した。
(うるさい、黙りやがれ……!)
今まで経験したことのない奇妙な苛立ちを振り払うように、朱瑛は、そこここに集っている客達の間をすり抜けた。
「…ほら、また殺されたんですってよ。奥方が目を離したほんの一瞬の隙に、心臓をひと突きですって」
「まあ…怖い…。いったい何者でしょうね。同じ手口でもう…何人目かしら」
「あまりに鮮やかな手口ですもの、玄人の仕事じゃないかって、衛士は考えているようですわ」
「まあ、殺しを生業とする者なんて、本当にいるんですのね…!怖いわ、気をつけなくては」
沢山のさざめきの中からそんな会話を拾って、朱瑛は小さく嘲った。女達を相手にしていた時とは違う精悍な笑い方だ。ちらりと彼の本性が覗く。
(心配しなくても、てめえらはやらねえよ。くだらねえ依頼は受けねえ主義だ)
てめえらが殺される程価値があるものか、と小声で皮肉る。
そう、それは彼の「仕事」だ。こんな上流の社交場で噂になっているとは…光栄というべきだろうか。
朱瑛は気に入らない仕事は受けない。
特に、私利私欲の為に邪魔な相手を抹殺するような仕事は大嫌いだ。といってもそれは正義感からきているわけではない。殺しに正義も糞もあるか、というのが彼の持論だ。彼はただ、「手前の欲で肥え太った豚野郎がさらにシアワセになるのを見るとムカツク」と、それこそ手前勝手に思っているだけなのだ。だから、死んで当然の奴やら、復讐の為の依頼なら受ける。そのほうが気分がいいからだ。
当然、同業者の評判はよろしくない。きれい事を並べているように見えるからだ。それでも弾き出されることなくやっていけるのは、それだけの実力があるからだ。まだ若いにもかかわらず、既に彼の名声は「その世界」では不動のものとなりつつあった。
依頼を果たせなかったことは一度としてない。それが彼の誇りだった。そう、数日前までは――。
「……そういえば、里見の御当主がお亡くなりになったでしょう。表向き病死となっているけれど、実は殺されたのですって」
「もしかして、同じ殺し屋だったりするのかしらねえ」
(そいつは違うぜ…!)
さらに耳に届いた女達の噂話に、朱瑛は不機嫌を通り越して明らかな怒りを覗かせた。
里見をやったのは彼ではない。
だが、本来彼がやるべき相手だったのだ。
彼が受けた依頼。彼がやったと思われている仕事。
だが、実際にやったのは………。
あの夜から、彼の自尊心は粉々だった。そして、今も感じているこの苛立ちと期待の交じり合った不思議な感覚、こいつがやってきたのも、あの晩だった。
この、自分でも理解しがたい奇妙な心の動きが何なのかを知る為、そしてあの夜の恥辱を濯ぐ為、彼はここに来たのだ。
頭を下げるのが大嫌いな彼が、顔役に無理を頼んでまで……。
「ご面相が凶悪になってますぜ」
ぼそり、と近寄ってきた別の給仕が囁いた。朱瑛と目が合うと、にやりと笑う。
「てめえこそ化けの皮がはがれないようにきをつけな」
と、乱暴な言葉で応酬する相手は、朱瑛と同じく暗黒街から紛れ込んだ口だ。殺しの仕事を斡旋している〈最上の顔役〉の手下。名は確か、唐とかいった。
唐は朱瑛の横へ並ぶと、
「しかし珍しいね。女子供が嫌いなあんたが、この仕事を引きうけ…いや、横槍入れてまで譲ってくれと頼むなんざ。あっしゃ、驚いたね。どういう風の吹きまわしだい。しかも、受けるかどうかは、獲物本人を確認してからだ、なんぞと抜かしやがる」
「顔役には悪かったと思ってるさ」
「その辺は、まあいいんだけどねえ。……なあなあ、あんた、あのお姫さまとなんかあったのかい?」
「けっ、それこそ下司のかんぐりって奴さ。うるせえんだよ!ちったあ黙っとけ!この三下がよ」
凄んでみせても、唐は何処吹く風だ。
目立たないように笑顔を造って、聞こえるか聞こえないかの小声でのやりあいだ。迫力がある筈がない。しつこく問詰める唐に、朱瑛の方が根負けした。
「この前出合った女がよ、あの姫と同じ名を名乗ったんだよ」
「はあぁ?なんです、そりゃあ。確かにこの国では、祖王の血を引くお方々と同じ名前を庶民が付けるのは禁止されてますがね。それは真名であって、てめえで名乗ってる通り名まで取り締まっちゃあいませんでしょう。あっしは、先代の王妃様とおんなじ名前の女郎を買ったことだってありやすぜ」
本人の筈がねえや、と呆れた調子で続けられて朱瑛の苛立ちは更に募る。
「んなこたあ、分かってるよ!!でも……」
きっと説明しても唐にはわかるまい。
あの夜を共に経験しなければ。そう、彼女を前にした者にしか分からないだろう。
常識的に考えて、身分の高い姫君があんな所にいる筈がない。それでも、僅かな手がかりを求めてしまう、この気持ちを。同一人物であることを望みながらも、あり得ないと否定しつづけるこの気持ちを……。
くすくすくす
『私の名は……。春風の館の中央に位置するあの花と同じ名』
ふふふふ
くすくす、くすくすくす
目が、回る―――。
黙った朱瑛に対して、唐は勝手に喋りつづける。
「まあ、なんでもいいけどさあ。今回の依頼人は気短って話ですぜ。殺る相手も、稀に見るような大物。金はたんまり動いてんだ、しくじりは困るよお。朱瑛さんの腕なら心配ないだろうけどさ」
「……まだ受けるとは言ってねえよ」
「分かったって。本人の顔を見てから、でしょ。……なんだかイカれてねえかい、いつものあんたらしくないことばかりだ。……と、来ましたぜ、桜の姫君」
台詞の最後に対して、おうと小さく応えると、朱瑛はぴたりと口を閉ざした。唐も今までのふざけ面はどこへやら、無表情な給仕の顔を作り上げている。
入口付近の空気がざわめいた。重い樫の木造りの扉が、二人の給仕によって恭しく開かれる。この館の女主人に次いで、最も注目される出席者が現れたのだ。
室内にいた人間全員が見守る中、その少女は視線など感じていないように、自然に入ってきた。
全員の口から、ため息が漏れた。
艶やかな髪には李の花を挿しただけ、身につけている着物も飾り気のない白絹。淡い桃色の帯だけが、色を添えている。他の姫君たちと比べると、同じ貴族とは思えない装い。だが、それがとても良く似合う、少女だった。
柔らかな桃のような頬、けぶるような白金の瞳は、くっきりと大きな二重。はにかんだ微笑みの似合う、珊瑚色の唇。楚々とした可愛らしさが、新鮮な印象を与える少女。まだ汚れを知らぬ巫女童のようにあどけなく、だが今にも咲こうとする蕾花のように可憐だ。
控えめな微笑を浮かべ、他の招待客と挨拶を交しながら、粛々と歩みを進めている。
春風の宮家、一の姫、緋櫻。通称「桜姫」。
興国の祖王の血を引く旧家、奥津樹家――別名「春風の宮家」、ただ一人の姫で、まだ少女の身でありながら当主でもある。三年前に先代当主の兄が若くして命を落としたため、跡目を継いだのである。
奥津樹家は代々国主の君に茶道と華道を教えてきた家柄である。政治権力は持たないものの、常に王の最も近くにある為、王家との縁は深い。事実、この桜姫も現王とは従兄妹の関係にある。過去にも何度か王家の血を受け入れて来ながら、この家の当主はみな無欲なのか、一度も大臣どころか官吏一人輩出することなかった。ただ、茶華道の師匠としての繁栄を楽しむのみである。そんな無欲な態度が良かったのか、二心を問われることもなく、王家の次に古い血筋を連綿と受け継いでいる。
桜姫自身も、この歳にして既に、現王に茶道の手ほどきをしている程の腕前だとか。その神童振りに違わぬ上品な物腰に、
「へえ…。花なんか生けてると、自分も花みたいになっちまうものなんですかねえ」
風にも折れそうな風情だと、見惚れていた唐の耳に、ぽつりと返ってきたのは、
「嘘だ……」
声の色すら蒼白に変わったような、朱瑛の呟きだった。
横を仰ぎ見ると、朱瑛は、まるで幽鬼を見たかのような恐ろしげな眼差しで、瞬きもせずに少女を見つめている。
「ど、どうしなすったんで?」
常ならぬ様子に驚いた唐がいくら問いただしても聞いていない。
そんな馬鹿な、と呟きつづけるばかり。
朱瑛の脳裏にはあの夜の光景が再生されていた。
再び、振り払っても振り払っても忘れることのできない、あの笑い声が蘇る。
くすくす
くすくす、くすくす
艶のある女の声が、夜のしじまを破って、不吉に響く。
『ふふふふ。いいのよ、その子は逃がしてあげなさい』
絶対的な優位を確信している尊大な言葉。この朱瑛を子供扱いし、あまつさえ口を封じる必要もないと言った女……いや、やはりあれも少女だったのか。
『私の名は桜』
月光の作り出す陰から、現れた美貌。
甘い琥惑的な微笑を浮かべる、濡れたような唇。底の見えない深い瞳と、そこにちらちらと瞬く激しく冷たい炎。
まるで、別人だ。
今眼前に佇む、幸せになるために生まれてきたような、穢れない少女とは。
血臭の立ちこめる部屋で、面白い玩具を見つけたように彼に微笑んだ、あの人。
それがこの桜姫と同じである筈がない。そんなことは理性で何度も考えたのに。
それなのに、何故。
(何故、同じ顔なんだ……っ!!)
朱瑛は、混乱した。
「……朱瑛、朱瑛さんってば」
唐が必死で呼んでいるのが聞こえた。
朱瑛は、顎から伝い落ちる冷たい汗を拭うこともせず、ゆらり、と一歩踏み出した。
ただならぬ様子に危険を感じた唐は、
「朱瑛さんってば、どうしちまったんです!」
咄嗟に、その腕を掴んで引き止めていた。
「唐、あの依頼は俺が受ける。帰って、顔役にそう伝えてくれ」
「は?」
「早く立ち去れ。すぐに、ここから出られなくなるぞ」
そう言うなり、朱瑛は歩き出した。唐の手を振り解き、一瞥もくれずに、まっすぐ桜の元へと。
慌てたのは唐だ。
「え、あのちょっと……って!……やべえっ!!」
朱瑛が何を考えているのか分からないが、いきなりこんなところで騒ぎを起こされてはたまらない。邸内に厳戒態勢がひかれたら抜け出せなくなる。止められないのなら、自分の身の安全を最優先するべきだと、すぐに頭を切り替えると、
「……ったく、冗談じゃないよ」
ぼやきながら、そそくさと隠れるように部屋から脱出した。
一方、朱瑛は、少し人垣から離れた桜に近づいた。
一通りの挨拶も済み、何か喉を湿すものを探している様子。簡素な衣装のお陰で、身軽に動ける少女は、他の姫達とは違い、自分の足で卓の間を移動している。彼女ほどの姫を、他の客達が長く放っておく筈がない。すぐに囲まれてしまうだろう。しかけるなら、この一瞬だ。
(同じ人間なら、俺の顔を見て反応する筈)
「姫君」
慇懃に給仕の振りをしたまま歩みより、数種類の飲み物を乗せた盆を、目の前に差し出す。
白金の柔らかな眼差しが彼を真っ直ぐ見上げた。
僅かな動揺も見逃すまいと緊張している彼の前で、少女はふわりと花のような笑みを浮かべただけ。
それなら、と朱瑛はもう一つ試す。
桜が指した杯を差し出しながら、その耳元に囁く。
「お命、頂きます」
え、と桜が不思議そうな表情を浮かべたのと同時に、懐から短刀を抜き放つ。
(あの女なら必ず避けられる筈。馬脚を現せ!)
白金の瞳が見開かれた。
短刀の鈍い輝きが、その眼に映ったと思った瞬間、恐怖が少女の瞳を震わせるのを、朱瑛は見た。
それは紛れもない本物の恐怖だった。
(馬鹿な……っ!!)
繰り出した刃は今更止められず、少女の胸元へと吸い込まれていく。あたることは確実だ。何故避けないと勝手な叫びを胸中で上げながら、狙いを少しでも逸らそうと、急制動をかけた。
裂けた白い絹が、天女のひれのようにふわりと宙を泳ぎ、それに華を添えるかのように真紅が飛び散った。
と、思った次の瞬間、朱瑛は腕に鈍い衝撃を感じた。すぐにそれは痛みに変わる。あ、と思った時には短刀が落ちて床を滑っていた。
反射的にひと飛びして後ろに下がる。案の定、さっきまで彼の心臓があった位置に、料理用ナイフが繰り出されていた。卓上にあった、料理の皿に添えられていたものだ。武器もなく、咄嗟に手に取ったものだろう。
せいぜい、固焼き菓子を切り分けることくらいしか出来ない筈のそのナイフは、朱瑛の袖口をきれいに切り裂いていた。右腕に、朱線が走った。
飛び退った朱瑛をそれ以上追うでもなく、相手は片腕で崩折れる桜の身体を抱きとめた。
執事がよく着る黒の押し着せに身を包んだ、長身の男だ。漆黒の髪に包まれた無表情な顔は、朱瑛同様女受けしそうな造りだ。だが、その中で暗く光る闇色の瞳を見れば、それが誤りであることに気づくだろう。これはその辺の女が手におえる男ではない、と。
細心の注意を払ったのか、少女の身体は羽のようにふわりと音もなく男の腕に収まった。男は、命よりも大切な宝物を守るかのように、少女を抱きかかえたまま、朱瑛を睨みつけている。少女を見つめるときに一瞬だけ和らいだ眼差しが、再び上げられた時には、氷のように冷たく研ぎ澄まされていた。
(こいつ…………榊……っ!?)
たしかそう呼ばれていた男だ。
こいつがいるなら拙いと、朱瑛は素早く身を翻した。簡単に勝てる相手ではない。やりあっている内に、衛士に囲まれてしまうのがおちだ。
その頃になってようやく、事態に気づいた周囲の姫君から甲高い悲鳴が上がった。
だが、その時には既に、朱瑛の身体は窓を破って飛び出している。盛大な音をたてて、硝子が砕け散った。
欠片が虹を宿しながら、きらきらと降り注ぐ。怪我をしない程度に気をつけて、それを払いのけると、すぐさま飛ぶように駆け出す。遠くから、邸内警備たちの怒鳴り声が聞こえたが、朱瑛の意識は、違うことに向けられていた。
(何故だ、何故あの男が側にいる!?)
あの夜と同じ。彼女の背後の影となっていたあの男が。
別人なのか、そうでないのか―――。
嵐のような胸の混乱を抱えたまま、朱瑛は警備兵を撒いて逃げ去った。