桜闇姫~闇鵺小話~
終、
割れ鐘を叩くような軽い音が、小さな寺院の堂内から聞こえてきた。あれは人の頭程の大きさしかない安物の銅鐘だ。音だけで分かる。
「無縁仏ですね……」
傍らで、大人しく茶を飲んでいた由宇が、ふと寺門へと顔を向けた。
身元不明の行き倒れや天蓋孤独の独り者を葬る場合、参列する者もなく寺院としても形だけの供養しかしないから、鐘楼をわざわざ開けたりはしない。共同の無縁墓地に埋葬した後、その前で小さな鐘を手で鳴らしながら、短い読経をあげるだけなのだ。打ち鳴らす鐘の音と読経の長さによって、死んだ人間の生前の地位が分かると言われている。
「そうだろうね」
柳は何気なく同意すると、中身の少ない湯のみに口をつけて啜り上げた。
二人は、久々に連れ立って出かけていた。近くの寺院に門前市が立つから覗きに行こうと柳が言い出したのだ。珍しいこともあるものですねと言いながらも、特に不信に思った様子もなく、由宇は楽しそうに後を付いて来たのだ。ふらふらと二人で市を渡り歩いて、寺門に一番近い茶店で一服となった。風が気持ちいいからと、柳は店前に出された縁台を選んでいた。そのお陰で、門内の葬式の様子がよく見える。
「ここからは、門前の花がよく見えるから……と思ったんだけど。良くなかったかな、忌み事に合ってしまったねえ」
「そんなことはいいです。気にしませんから」
そう言って笑う、春の日向のような笑顔の前を、ふわりと花びらが行き過ぎた。
(この子は、どう思うだろうか)
柳は、その笑顔をまっすぐに見ることもできないまま、三日前の夜を思い出す。
どう、思うだろう。今、葬られた二人の男を殺したのが、隣に座る自分の雇い主だと知ったら……。
「勝手なことをしたわねえ、柳殿」
「誰が、殺してもいいと言った?」
命令違反だと、居合わせた鵺たちが口々に非難の言葉を発した。
「うるさいよ。俺を処分できるのは主さまだけだ」
冷ややかに一言だけ返すと、柳は自分の責任を果たす為に踵を返した。本当は朱瑛がやるはずだった相手――少し離れた草の上に座り込んでいる男を、鮮やかな一刀の元に斬り伏せる。
声一つあげず、安土は地に沈んだ。
普段は情報収集専門で刀を手にすることのない柳の意外な腕前に、仲間たちはぴたりと口を閉ざした。
「さすがだわ、柳。榊と同期というのは、伊達じゃないわね」
「桜姫…」
それまで動かなかった桜が、柳の前に立った。
彼ら二人を隔てる川のように、足元にはまだ暖かな男の死体。それにちらりと視線を落として、桜は柳に向き直る。静かな面には、手に入れそこなった男に対する感慨も、そう仕向けた身勝手な配下に対する怒りも、なにも窺えない。
どんな裁きでも受けようと覚悟していた柳に対して、投げ掛けられたのは意外な問いだった。
「柳は、朱瑛のこと……気に入っていたのね?だから、殺したの?」
柳は何も言わずに膝をついて頭をたれる。
「そう……。なら、私はお前に謝るべき……なのかしら」
まるで、まだ人間の感情を理解し始めたばかりの無垢な人外の者であるかのように、桜は尋ねる。それに、柳はきっぱりと首を横に振った。
「いいえ。貴女が謝るべきことなど、何もありませんよ。私もまた、貴女に焦がれる、貴女の忠実なる僕に過ぎないのですから」
「では、何故?」
さあ、と柳は薄く、自嘲めいた笑みを口元に刷いた。
「分かりませんね。人の心というものは……矛盾だらけですから」
この世に深く執着を残したまま、自らの死を選んだ朱瑛。何十年も昔の、もう愛してもいない筈の女を失っただけで、生きて行けなくなった安土。それに、自分の手で朱瑛を堕としておきながら、死による救いを与えた柳。そして、最も大きな矛盾を胸に抱えた榊と、桜自身―――。
柳の、声にしなかった言葉を理解したのか、どうか。
桜は、鵺たちには滅多に見せることのない、透き通るような表情を柳に向けると、踵を返した。
ざああああ
強くなった風に、何処からか薄紅の花びらが運ばれてきて宙を舞う。
木々の重なり合う陰に隠れて、目に止まらなかったのだろう、少し離れたところに小さな桜の木が植わっていた。それが、一斉に花を散らしている。まだ若い苗木にも関わらず、これが最期の時であるかのように。暗闇では青白く見える筈のその花弁が、何故か今宵は淡く色づいて死者たちの上に降り積もった――。
「ご主人様?」
由宇の気遣わしげな呼びかけに、柳ははたと我に返った。いつのまにか読経も止み、手の中の湯のみもすっかり冷めていた。
「……あ、ああ。そろそろ行こうか、由宇」
柳は湯呑を置いて立ちあがった。
最上の身内は、一晩の内に小者に至るまで全員が消された。葵と海道に率いられた鵺たちの仕事だろう。あの二つの墓に参るような人間はもう誰も残っていない。闇の世界の最上階に名を連ねていた二人だというのに……。
感傷的な気分を、溜息一つで切り捨てる。
勘定を済ませて店から出ると、門前にある満開の桜から飛んできた花びらが、頬に触れた。
(桜の下で眠れりゃ、本望か?)
ふっと、皮肉な笑みが浮かぶ。
「あばよ」
柳は、由宇に聞こえないように別れを告げると、もう振りかえることなく歩き出した。
* *
満開を迎えた桜の間で、少女は漆黒の羽織を脱ぎ落とした。
春の風が結い上げた髪に引っかかる気がして珠の飾り櫛も抜き取ると、黒髪が柔らかく風を孕んで広がった。そうやって一つ、また一つと装飾品を外して、草の上に投げ捨てて行く。
榊が見つけたときには、白絹の襦袢姿で木の根元に横たわっていた。
「桜さま……」
慌てふためいて駆け寄ってくる榊の様子が可笑しくて、桜は笑う。頬に若草の感触が心地よい。
抱き起こす余裕もなく、榊は自分の羽織を寝そべる桜に掛けると、脱ぎ捨てられていた着物を拾い上げた。
「いやよ、それ。喪服なんて、重いだけ」
「桜さま…!それでは困ります」
「いいのよ。おばさまの葬儀はもう終わったし。それに、呼ばなければここには誰も来ないもの」
気持ちよさそうに目を閉じて、桜は動こうとしない。仕方なく、榊も側に跪く。
桜の間。
本家当主一家しか入れないこの場所に、桜の許可なく入れる者は誰もいない。
榊、ただ一人を除いて。
何故その特権を、自分が与えられているのか榊は知らない。分かっていないというべきだろうか。
「やっぱり、駄目だったわね。あの子は」
朱瑛のことを言っているのだと、察した榊は顔を曇らせる。
「桜さま……。やはり、あの男がご入用でしたか」
「いいの。あれは実験だから。お陰でよく分かったわ」
何がです、と問う馬鹿な男を、桜はくすくす笑った。
――教えるものかと思う。
お前は特別なのだ、などと。
代わりは誰にもできない。今やこの世でただ一人、桜にとって、なくては生きていけない相手。
今更、どんなに足掻いても、手放してはやらない。そう仕向けてのは、他ならぬお前なのだから。「憎悪」という名の糸で、自分をこの世に繋ぎ止めるお前を、「罪」という糸でがんじがらめに縛ろう。
己の冒した罪業に苛まれて、未来永劫、自分の側にあればいい。
それで、どんなに彼が苦しもうとも、どんなに自分が汚れ堕ちていこうとも、決して……。
(離さない)
桜は、瞳を開いて、榊の眼差しを捕らえる。逃がさないように、渾身の力を込めて、
「お前だけは、許さない。付いてきなさい、榊。地獄の果てまで」
睦言のように囁いた。
榊は、苦しげに顔を歪めた後、見ている方が切なくなるような微笑みを浮かべた。
愛が深いから、憎しみも深い。
境はもう分からない。分からなくてもいい。今、ここに、側に存在するなら……。
(本当に、人は矛盾だらけね、柳……)
この感情をなんと呼ぶのか、桜には分からない。狂気だと言われるなら、それでもいい。
ただ、ひとつだけ、確かなこと。
―――その罪故に、彼は二度と彼女を裏切らない。
それだけが、今の彼女にとって唯一の真。
満開の桜花の下、二人の鬼は、繰り返す。二人だけの誓いを。今度こそ、破られることの無い誓約を。
老木から、零れる花弁が、はらはらと二人の上に降り積もっていく。
いつまでも、いつまでも。
〈了〉




