桜闇姫~闇鵺小話~
九、
蝋燭の燃える音しか聞こえない静かな宵。かすかな音が、由宇の集中を破った。
帳簿をつけていた筆を置いて身を乗り出してみると、明かりを落として久しい店内を動く影がある。
「旦那様?」
顔が見えなくとも、気配だけで由宇には分かる。案の定すぐにおどけた声が返ってきた。
「おや、由宇。まだ休んでいなかったのかい?もう遅いよ」
「ここの帳づけが終わったら休みます。さっき、朱瑛さんが出て行かれましたよ」
「あ…そうだね。もうよくなったみたいだから…」
「旦那様はどちらへ?」
こんな時間に、と首をかしげる由宇に、
「…ああ、ちょっと野暮用。お子様のお前にはまだ早いところさっ」
おっと口が滑ったと、わざとらしく慌てふためく様が伝わってくる。
(嘘、下手だな…)
内心で小さく微笑みながら、ちょっと意地悪をしてみる。
「朱瑛さんとは、ご一緒じゃないんですね?」
「や、やだなー。つるんで行くとこじゃないよ、花街はっ」
ハハハハハと笑って、そそくさと出て行こうとする後姿に、由宇の胸はきゅっと痛んだ。
(知らないとでも、思ってるのかな)
柳のふざけた態度の裏には、いつも由宇を心配させまいとする気遣いがある。特に内緒事をする時や揉め事がある時には、わざと明るく振舞うのだ、彼は。その裏側で彼がどんな顔をしているのか、由宇は知らない。一度も見たことはない。でも、分かるのだ。そんな時、彼が本当は苦しんでいることを。
歳若い主人が何か自分には言えないことをしているのは、薄々感づいている。そして、その部分からなるべく自分を遠ざけようとしていることも。
本当は、言って欲しい。彼が影で心を痛めているのなら、その苦しみを分かち合いたいと、由宇は思う。
でも、柳が知られたくないと願っているから。由宇がその隠された暗がりに足を踏み入れないことを、何よりも強く望んでいるのが分かるから。
だから由宇は知らない振りをする。
それが、大切な主人の「気持ち」なら、全部受け取ろうと決めているのだから。
だから今夜も、由宇は気づかない振りをする。
「お気をつけて」
暖かな日溜りのような極上の笑顔で、主人を送り出した。この笑顔で、少しでも胸のつかえが取れるようにと祈りながら。
* *
恐ろしくも美しい光景、というのが本当にあることを、安土は身を持って体験していた。
恐怖のあまり目を離すこともできない。刻一刻と己に死が歩み寄ってきているのを知りながら、心に落ちる溜息は絶望でも諦めでもなく、美しいものに対する感嘆のそれだ。手にした短刀が汗で滑る。気をしっかり持っていなければ、足が萎えて跪きそうだ。そして、跪いた後には。彼女を賛美し、その手による慈悲を乞いたくなる。
(なんて……ことだ)
少女は返り血ひとつ浴びずに立っていた。まるで、絵画から抜け出たように美しく微笑んで、月の光を一身に浴びている。彼女の漆黒の着物に華を添えているのは真紅の帯。彼女の簡素な出で立ちを補う装飾品は、手にした白銀の刃とその半ばまでこびりついた、これもまた真紅の液体。少女の周囲を守り固める4人の鵺たちもまた、たっぷりと血を吸った得物を携て、息一つ乱さず静かにたたずんでいる。 ちろりと小さな舌を覗かせて笑みを刷いた唇を湿すと、少女はその刃を胸の前まで上げた。そうすると鮮血が白い頬に映えて、十代の少女と思えぬほどに艶かしい。その仕草に誘われるように、最後の一人がふらふらと彼女に切りかかった。
そう、最後の一人。
戦いは、既に終わっていた。草露が数十ほど宙に飛び散り、木に止まっていた梟が驚いて飛び去った……その変化を庭にもたらしただけで。元締め配下の精鋭たちは、あっけなく地に沈んだ。特に、戦いが始まってから一歩も動いていない桜の足元には、累々と死体が折り重なっている。
そして今、最後の一人がその上に加わった。まるで自ら死にに行くかのように、少女の刀の切っ先へと身を躍らせた部下を、安土は呆然と見送った。
魅入られて、いるのだ。戦う前から気を呑まれている。安土と同じように。
(これが……闇鵺当主の力量か…)
技術よりも、格の違いが勝敗を分けているのだ。
もはや抗う気力も失せて座り込んだ。後ろへ転がされ二人の鵺の間で取り押さえられても尚、彼は自失していた。
「さあ、おばさま。おばさまの番よ」
いっそ優しいと思える幼い声に、靖子の金切り声が重なった。その声に、ようやくはっと正気づいた安土だったが、両脇を固められ身動きひとつとれない。彼と同じく庭に引き出され地面に這いつくばっている靖子に、桜が近づいていく。傍らに、いつもの長身の影を従えて。その様子を、安土はただ見ているしかできない。
「わ、わらわを殺すのか!?わらわは、身内ぞ……?奥津樹一門でも屈指の名家。わらわの亡き夫は、先代当主の弟なのじゃぞ!その、その家を、守るわらわを……!!」
「でも、仕掛けたのはそちらでしょう?ふふふふ、それに、身内云々を言うのは、無意味だわ」
どうして分からないのかしらと、桜は靖子の側に屈みこむと、悪戯を思いついた子供のような顔をして囁いた。
「だって、おばさまだけ見逃したら……三年前に私が殺した、他の親類の方々に申し訳ないでしょう?」
「………!!」
「あの中には……私と半分血のつながった幼い兄弟も、いたのに」
靖子は、声にならない悲鳴を、あげた。
その様子を、桜の一歩後ろから眺めながらも、榊の目は靖子を捉えていなかった。
漆黒の眼に映るのは、あの時の情景。
まだ幼い彼女の、当主就任を良しとしなかった親類縁者を静粛した、三年前のあの日。
満開の花の下、今日と同じように……いや、もっと美しく咲き誇っていた、魔性の少女。
花の香気と血の匂いとが混ざり合い、甘く闇に溶けたあの夜。
今でも、思い出すだけで体中が溶けてしまいそうな感覚に襲われる。
目眩む。
運命の、春。
「大人しくしていれば、見逃してあげたのに。どうして、今ごろになってこんなことするの?」
どこか困ったように、桜は囁きつづける。
「そんなに…欲しいの?この地位が?……今更…」
さらり、と一つに束ねた黒髪が、斜めに屈みこんだ桜の肩から滑り落ちた。
「それなら何故、あの時に……」
くん、と靖子の髪を掴み締め、まっすぐに目を合わせる。怯える瞳が逸らされようとするのを許さずに、桜は覗き込む。全てを見通そうとするような月光色の瞳の奥に、深い絶望がよぎった。その瞳は、靖子ではない遠い何処かを見ていた。
何故、と震える声が繰り返され、そして……。
息がかかるほどの距離で、低く、囁いた。
「何故、三年前のあの時に、榊を殺してくれなかったの」
それは、聞く者全てを恐怖させる声だった。
そこにあるのは、暗く燃え盛る炎。未来永劫消えることのなく、罪人たちを責め苦しめ続けると言われる冥府の炎のように、ふつふつとたぎる、その感情の名は。
憎悪。
八つ裂きにしてもまだ足りぬというような、その憎しみの感情が、どろどろと凝って、無限地獄のような深い闇の奥で渦巻いている。
靖子は意味がわからず、目を見開いて、ただ桜を見返した。
安土も呆然と、少女とその守護者を交互に見つめた。
自らを支える最も近しい存在である男に、少女は何を言っている……!?
当の榊は無表情のまま。
ただ、深く、深く……。三年前から、絶えたことのない、悔恨の吐息をついた。
(ああ……)
瞬間、暖かな日差しをいっぱいに受けた、幸せな三人の情景が閃いて消えた。
仕方ないことだと分かっていても、息が止まりそうな程の胸の痛みが榊を襲う。
ここまで、憎まれている。
かつて、無邪気に慕ってくれた少女はもういない。そうしたのは、他ならぬ自分だ。
彼女が苦しむのを分かっていて、自分は彼女をこの地獄に叩き落した。鵺の頭という、地獄に。人を欺きつづけ、殺めつづる、その位置に。それだけなら、まだ良かった…のかもしれない。むしろ、彼女が許せないのは……。
榊の、裏切り。
ただ一つの、裏切り。
梧桐に対する、裏切り。
「あの時、榊を殺してくれたら良かったのに」
桜が続ける。しん、と風さえも静まり返った世界で、彼女だけが音を紡ぐ。
「あの時。榊が…可能性を、言わなければ……私は、鵺など投げ打って、ただの姫として、生涯を終えたのに」
靖子を見て話しているのに、その言葉は、背後にいる榊に刺さる。
あの、夜。
運命の春。
『桜さま、当主をお継ぎ下さい』
桜は、信じられない言葉を聞いたというように、涙に濡れた枕から顔を上げた。のろのろと、寝台の傍らに立つ彼を、見上げる。
泣きはらした真っ赤な瞳を呆然と見開いていたであろう、あの幼い顔を、榊はよく覚えていない。直視、できなかった。
『何を、言っているの……』
視線を逸らしたまま、榊は続ける。最愛の兄を亡くし、毎日泣き暮らしている可哀想な少女に。
『貴女が当主をお継ぎ下さいと申しております』
―――止めろ、言うな。
もう一人の自分の叫びが聞こえる。
『この家は今、荒れています。このままだと直系の貴女を差し置いて、他の人間が当主となるでしょう』
『……そん、なの……当たり前よ。私には無理だもの…。おじ様でも、おば様でも、誰だっていいじゃない……。お妾さんの子供だって……私よりもずっと年上の、相応しい人が……いるでしょう!』
信じられないと言っている眼差しが、痛い。
―――これ以上、続ければ……。
止めなければ、と思う心とは裏腹に、口から出たのは冷静な声。
『貴女なら、できます』
『…………!!どうしてっ!』
キッと、桜が月晶のような目を怒らせる。先刻までとは違う涙が、目尻に浮かんだ。
『どうして、お前がそれを言うの……っ!?』
誰よりもよく知っている筈のお前が。
お兄様の望みを誰よりもよく理解している筈のお前が。
お兄様に、誓いをたてた筈のお前が!
桜の無言の叫びが、突き刺さる。
そして、私の望みを誰よりも理解している筈のお前が!?
―――私、知っているの。
淡い微笑み。切ない眼差し。
幸福過ぎてつらいのだというような顔をして、内緒よと囁いた少女。
―――私、知っているの。お兄様の望み。だから、私……ずっとこのままでいようと、誓ったの。この家のことも、お兄様の役目も、私は目を閉じて、知らない振りをするの。それがお兄様の願いなら。だから、お願いね。あの人達を消したことは言わないで。私は、そんなこと……出来ちゃいけないの。
最愛のお互いの為に、それぞれの誓いを胸に抱いて生きようとしていた兄妹。
その彼ら双方に、誓いを立てた、自分。
何があっても、守ると誓ったのに。たとえ、当の本人が死んでも、その遺志を継ぐと。それなのに今、自分はその誓約を破ろうとしている。醜く歪んだ望み故に。
『桜さま』
駄目だ、止めろ!
遠くで、まともな自分の声がする。
人と人の関係において、なによりも罪深きことは、信じさせておいて踏みにじること。裏切ること。分かっているのに。
なのに、止まらない。
『梧桐さまは、刺客に襲われ、谷に足を滑らせて、お亡くなりになったのです』
狂っている自分が、勝手に続ける。桜を追い詰める言葉を。
彼ら兄妹と長年その心を共有してきた榊には、どうすれば少女が落ちるか、よく知っている。
確信犯は囁く。少女の耳に、ほんの一滴、毒をたらす。
希望という名の毒。
『深い谷底です。結局、ご遺体を拾いあてることもできなかった』
『……なにを……』
『我らは、あの方の死を、確認していない』
『何を……言っているの……!?』
『あの方は、生きておられるかもしれない。怪我をして帰れないだけかもしれない』
『やめて、榊!……やめ……てっ』
そうだ、やめるんだ。今ならまだ間に合う……!
―――信じている。お前だけは、裏切らないと。
裏切る気なのか、あの方を!
ああ、でも……!
どうしたら、忘れられる!?どうして、忘れられる!?「彼女」を。
艶やかに咲きほこる闇の花。己の魂を一瞬で、丸ごと奪い去った、あの時の微笑みを!
地獄に落ちてもいいと、そうまで想ってしまった、この心を!
『……いつの日かきっと、あの方は戻ってこられる。それなのに、その時に分家の者の誰かが我が物顔にこの家に君臨していたら、戻ることができないでしょう。それに、状況からみて梧桐さまを襲った刺客は、身内の中にいる。その裏切り者がそ知らぬ顔で、当主の座につくかも、しれないんですよ?』
桜が目を見開いた。
そこへ打ち込む、最後の楔―――。
『あの方の帰る場所は、誰が守るのです?』
貴女以外の、誰が。
少女は俯いて、震える指で、布団を掴みしめた。
―――落ちた。
これでもう、戻れない……。
高揚感の去った後の虚しさと、物悲しさとが、ひたひたと寄せてくるのを振り払いながら、榊は待った。
長くはない沈黙の後、桜は、肩を震わせながら顔をあげた。
見たこともない、深い憎悪の眼差しで、彼を睨む。視線だけで人が殺せるなら、榊はその瞬間に、魂までも焼き尽くされていただろう。
その感覚を、榊は恍惚と味わった。
戻れないなら、堕ちるまでだ。彼女とともに。
『……いいわ。望み通りに、なさい』
それは、榊の罪が確定した瞬間。
そして、新たな主が誕生した瞬間でもあった……。
あの時から変わることのない憎しみを抱いたまま、それでも、彼を手放せない桜。鵺の組織を保つため、ひいては梧桐のため、桜には榊が必要なのだ。どんなに憎んでも恨んでも、彼を放逐することのできない桜の胸中を思うと、榊は哀れでならない。
(嘘をつけ。偽善者が……)
もう一人の自分が、冷淡に指摘する。
――それが、喜びでもあるくせに。
愛されることがないなら、いっそ憎まれればいい。愛と同じ位、それよりももっと強く、彼女の心を占められるのなら。少々の胸の痛みなど、快楽に変えてしまえる。
誰よりも強く、かの人の心を占領したい……。
愛では、彼女の「一番」にはなれないと、分っているから。
それなら、いっそ――。
「あの時、榊を殺さなかった貴女に、今更出てきてもらっても、もう遅いのよ」
桜は伯母の喉元に切っ先をそっと当てて、優しく囁いた。
そして榊は、歪んだ安堵の息を漏らす。自分の存在する位置を確認して。
誰にもこの場所は譲らないと、振り向いた先の闇には、彼とよく似ていると評された男が立ちすくんでいた。
細く高い悲鳴が、夜を切り裂いた。
顔を背けたのは安土だけだった。
両手の指で地面を掴みしめて、ぐうぅと呻き声を噛み殺したかと思うと、急に関節という関節が外れでもしたように力を無くし崩れ落ちる。
もしかしたら女の名を呼んだのかもしれないが、それは朱瑛の耳には届かなかった。彼はただ鮮血をまとった刃と、それに飾れらた少女を見つめていた。
「おばさま、この男と一緒になれば良かったわね。初恋の人の方が、血に飢えた奥津樹の男よりもずっと素敵じゃない。おばさまを逃がそうとしてくれたのに、彼。気づかなかったのね。馬鹿なおばさま」
答える声は、もうない。
桜はそれきり興味を失ったように、地面に転がったかつては身内だったモノから視線を逸らすと、
「いらっしゃい、朱瑛」
よく来たわねと、彼に微笑みかけた。
彼を捕らえて離さない、その甘い笑みはしかし、以前のように無条件には彼を酔わせてはくれなかった。今にもうっとりと身を委ねそうになるというのに、それを阻む小さな楔が、彼の中に打ち込まれていた。
畏れ――。
だが、それは桜が人を殺めるのを見たからではない。その光景はむしろ朱瑛の精神を、さらに甘い血の夢に引きずり込んだだけだ。
彼を恐怖させているもの、それは……。
「心は決まって?さあ、選びなさい」
遊戯でも楽しむような顔で、桜が最後の課題を与えた。
「恩ある最上の顔役を殺しなさい。お前の手で」
朱瑛は息をのんで安土に目をやった。
大地にへたり込んでいるその男は、もはや別人だった。一度に百も歳をとったように、生きる気力も手放して、うつろな目を朱瑛に向けている。
「お前に免じて見逃してあげようかとも思ったんだけど……。分るでしょう?この男はもう駄目。ここで死んだほうが、本人の為よ」
朱瑛も、そう思う。
一度、牙を抜かれた獣は、群を束ねることはもうできない。老いたただの男が生きていくことが出来るほど、この世界は甘くない。それに何よりも、朱瑛を見上げるその目が静かに訴えていた。
もう生きる意欲はない、と。
どんなに辛くても生きろとか、そんなのは綺麗ごとだ。塵溜めで這いずって生きてきた人間には、死が限りなく甘美な救いになる時が確かにあると、朱瑛も分かっている。なら、選択肢は一つだけだ。
だが、これが最後の選択だと言われて、躊躇いが掠めた。
―――恐ろしい。
そう思ったのは、何に対してだ?
何かが、朱瑛を手を鈍らせている。
自分はいったい「何の」選択を躊躇っている?
「榊」
その呼びかけに、ぴくんと反応してしまうのは朱瑛の方。呼ばれた本人は無言のまま、相変わらずの隙のない動作で朱瑛に近づき、自分の短刀を差し出した。
闇色の瞳と、目が合った。以前には無表情に見えたその瞳の奥に、どろりと熱く、底知れず渦巻いているものを見出して、朱瑛の肌は粟立つ。
(これだ……)
ようやく理解した。
奥津樹の庭で、桜との別れ際に、彼を初めて襲った恐怖。 そして今。榊への怨嗟を囁いた先刻の桜を見たとき、その恐怖は明確に形になった。
榊の胸の奥にあるもの。
そして、同時に、桜の胸の奥にあるもの。
愛憎が溶け合い、もはやその境すら分からなくなった―――深い狂気の闇。
愛されることも、憎まれることも。愛することも、憎むことも。すべてが同義。ただ、互いしか見えない、深いつながり。
これこそが、己を躊躇わせてした理由そのものだ。
(……ああは、なれない……)
背筋を這い登った恐怖とともに、そう悟ったとき、胸を塞いだのは、息が出来ないほどの、絶望だった。
その繋がりに、少しでも畏れを抱いてしまった自分は、あの男――榊のようにはなれない。
似ていると言われた。こんなにも、焦がれている。憎まれても側にいたいと、思ったこともある。
でも、榊には届かない。畏れを感じた時点で、負けているのだ。あの狂気を共有しながら、側で生きつづける程の力は、自分にはない。
それは、彼女の一番を得ることはできない―――そういうこと。
所詮、似てはいても、贋物は本物には勝てないのだと、思い知らされた。
眼の奥が熱い。これが、涙というものだろうか。物心ついてから涙など流したことがないから分からないし、泣き方も知らない。ただ、生まれて初めて、己が哀れだと思った。
知らなければ、前を向いて走り続けられたのに。
知ってしまえばもはや、終わるだけだ。
「俺は……あんたになりたかった」
朱瑛は虚ろに、榊にしか聞こえない声で、ぽつりと呟いた。榊は、不可解な言葉を聞いたように眉を動かし、
「ならば、闇鵺にとって最も役に立つ人間になることだ」
もっとも、この場所を明渡す気などないが、と凄惨な笑みを浮かべた。
朱瑛は気おされて、本能的に数歩下がった。
初めて見た榊の本音の顔は、何故か悲しかった。以前の朱瑛ならただ威圧されただけだったろう、その顔――。だが今の彼にはなんとなく理解できたのだ、その裏に隠された榊の思考が。
(馬鹿……じゃねえの)
本当に、それだけだと思っているか、この男は。自分の価値が、それだけだと。彼女が必要としているのが、それだけだと?
ふん、と鼻をならして、初めて優位に立つ。
教えてなんかやるものか。
愛と憎は背中合わせの紙一重。愛が深いからこそ、憎しみも深いのだということを。
(愚かだな。そして……哀れだ)
一生、気づかないまま、いればいい。それが、彼女の心を占有した者の報い。
(その位の意趣返しは、いいだろう?)
朱瑛は、差し出された刀を取らずに、そのまま後ろへ下がっていった。
とん、と背中に何かがあたって振り返ると、見慣れた顔がそこにあった。こんなところに何故、という思いが顔に出たのか、相手は淡々と答えた。
「だってさ、あんな細かい情報……いくら俺の腕が良くてもさ、手に入るわけないでしょ?内部の人間でもなきゃあ、さ……」
いつもは、明るい色を湛えている彼の瞳が、今は表情を無くして、暗く沈んでいる。
そういえば、あの時。
『どうせ――世間知らずのオバさんでしょ?』
朱瑛ですら知らなかった依頼人を、オバさんと呼んだ。
(ああ……なんだ、そうか)
知って、いたのか。
「なんて顔、してんだよ、お前」
何故か、騙されたという気はしなかった。頭のどこかでは、分かっていたのかもしれない。
「柳……お前で良かった」
自然と穏やかな笑みが浮かんだ。無表情を保っていた柳の顔に僅かに動揺が走り、
「俺が、せっかく背を押してやったのに……駄目なんだな」
7柳は搾り出すように、そう呟いた。
自分の目に、さっきまでの安土と同じ光が浮かんでいるだろうことを、朱瑛は疑いもしなかった。
このまま彼女の元に下れば、他の者よりも特別に目をかけてもらえるだろう。でも……それだけでは満足できない程、朱瑛は既に彼女に惑わされていた。
柳が、支えるように朱瑛の肩に手をかけた。
「駄目なら駄目で、俺達と同じ高さに留まっていればいいのにね。望みすぎると、不幸になる。榊に似ていたことが、お前さんの不幸さ」
榊に似ていたから目に止められ、榊に似ているからこそ、代わりにしかなれない。そして似たもの同士だからこそ、代わりでは耐えられない。
耐えられないから……生きていけない。
「楽に、死なせてやるよ」
これが、長い付き合いのお前に対する、慈悲だ。
その言葉を最後まで、朱瑛の耳では聞くことはできなかった。だが、きちんと理解して、笑った。
ドスッ、と鈍い音と共に衝撃が身体を貫き通した。
口からごぼりと噴出した液体よりも、胸を貫く塊が生み出す、痛みを超えた灼熱よりも。
一筋、頬を流れた液体の温かさの方が、朱瑛にははっきりと感じ取られた。
(ああ、これが涙か……)
そんな呟きを最後に、彼は静かに眼を閉じた。




