消えない轍を刻む道【その5】 ~ 二つの名前の物語
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今話は少し長め(5,800字)です。
どれほどの間、ただそうしていただろう。日が蒼穹を渡り、影が長く伸び始める。後の世において“惨劇”の代名詞ともなったエリガルの野に、二つの影がさす。
虹色の影もまた、ただ側に立っていた。声をかけることも、身に触れることもなく、ただ自らの覡を興味深そうに、嘲弄と憐憫が入り交じった気配で見守っていた。
「――――ここに。その手をここに! 《茨の怪物》!」
突然、スーリザスが声を荒げた。
強い、尋常では無い強い意志を載せたその声に、さすがの虹色の影も怪訝な気配を発する。だが同じほどに強い関心を込めて、影はその腕を伸ばした。その手を、スーリザスがグッと掴み引き寄せる。
「……御方の“力”は、私に与えられた。そうですね?」
「否、奪い得たというべき」
「それはどちらでもいい。ならば、今の“私”は、かつての“御方”と同じ――」
スーリザスは強い決意を込めて、その蒼穹の瞳で目の前の“神”の姿を捉えた。強く掴んだその手のひらから意志が湧き出て、虹色の影に明確な“姿”を与え出す。
それまでは“形”はあれども朧気であった姿が、確たる形を成してゆく。
乳白色の蛋白石色の髪と、闇色に虹の遊色が浮かぶ瞳。その色は別として、形作られた容姿には、スーリザスが敬し、ささやかながらも望み接してきた人々の面影が混ざる。
ラエトやロブル、その他の“仲間”たち。彼自身は決して手を取ろうとしなかったのに、手を差し伸べようとしてくれていた人たち。
ようやく明確な“姿”を与えられた彼の神は、その姿を面白そうに睨め回した。口元に、愉悦の笑みが浮かぶ。
「これで御方は、真に“姿”を得た……気に入らなければ、好きに変えると良い。
【アンスーズ】
これより、それが御方の【名】だ。
御方は姿と名を持ち、この大地を歩む――この先、永久に、私と共に」
重く強い、意志ある言葉。
スーリザスの秀麗な容貌が、輝くような強い意志と決意を込めた真摯な色を浮かべる。
「……【アンスーズ】とな……《我が神》と、吾を呼ぶか」
ようやく【名】を与えられた彼は、大切なものを愛おしみ慈しむ色を纏って、その【名】を口にする。
《盟約》以前、フサルクによる“人の世の集約”が行われる以前には、数多くの民がそれぞれの言葉で意志を繋いでいた。そうした“古語”の一つ。このルーンの大地で用いられていた言葉で、《自らの神》を現すその名。
「そうだ……今、この時より、御方は私の《我が神》――我が君。
御方は私のもの――手放すことなどあり得ない、連環に戻ることなど許さない」
生気に満ちたスーリザスの決意が、虹色の輝きを纏って響き渡る。
「もう誰にも、神の力を行使させない。人は“人の手”だけで生きていかなければならない。
私は、神から人を解き放つ。
誰も、神の手をとってはならない。神の手にすがってはならない。
人がとる“手”は、人だけでなければ……。
御方は、永久に、私が捉え縛る――誰にも、もう捉えさせない」
誓いにも似た、独白だった。《アンスーズ》と名付けられた神は、そんなスーリザスを興味深く見守り、その言葉を受け取っていた。
「そして、我が君。御方もだ。
名を……私に新たな名と姿を!
私を名で縛れ、私が御方にしたように。
人に非ざる私を捉え縛り、その名と姿を御方に繋ぎ止めるがいい!」
虚を突かれたように、《アンスーズ》はスーリザスを見返す。微塵も変わること無い強い意志をその内に見出し、アンスーズは心からの喜びと感銘でもって声をあげて笑った。
「真、人とは得体の知れぬもの……吾らなど及びもつかぬ、類い希なきこの世の主よ。なればこそ、連環も意味をなそうというもの」
喜色と称賛に満ちた声だった。
彼の神は、ずっと“人”とは無縁だった。人から呼ばれる名も持たず、人に見せるべき姿も必要とせず。
ただ、関心がなかったのだ。彼の神もまた、人を呼ぼうとせず、人を見ようとせず。
だからこそ、フサルクの意図を知りつつも《盟約の履行者》として立ち、“神”と“人”とを切り分けてきた。人を、神々の連環から解き放ってきた。
スーリザスは、初めて彼の神の目に映り込んだ“人”だった。
あらゆるものを乗り越えて、初めて彼の神の心を“人”に向けさせ、その関心を捕らえた、輝かしく自由な者。人の世では何にも縛られず、繋がれなかった、強き魂。
「よかろう、吾が覡たる者よ。其方を捕らえ、囚われようぞ。
今、この時より、其方は吾の《連環》――其方は吾の【茨の鎖】
其方も吾、吾も其方。
今ここに、新たなる連環は生じぬ。
吾と其方を繋ぎ縛る、吾らのみの連環を、今ここに」
その声と共に、《アンスーズ》の身から乳白色の虹色が湧き出て、スーリザスの身を覆った。温かくも冷たくもない、輝く“火”に包まれて、彼は再び自分の何かが作り替えられる感覚を得ていた。この“神”を捕らえ、その覡となった時とは異なる、不思議な感覚。奪うのではなく、分かち混ざり合う“力”……。
自分が「なにか」から、弾き出される徴が感じられた。代わりに別の「なにか」が、環をなし囲い包む。
そして連環は閉じられた。
* * *
「…………これで、私は今度こそ“人”ではなくなったのですね」
二人を取り巻いていた輝きが収まり、再びエリガルの野に静寂が訪れた。長く伸びた二本の影が、ロブルたちの亡骸にかかる。それに目を遣ると、“スーリザス”であった彼は、再びその場に跪きロブルの手を取った。虹色を纏った淡い乳白色の光がそこから広がり、亡骸達を包み込む。そうして、跡形も無く消え失せた。
「いずこに?」
「皆の元へ。彼らを死穢とはしたくない」
立ち上がって、彼は自分とほぼ同じ高さとなった《アンスーズ》の顔を見つめた。似せた訳では無い。それでもその容貌には、敬した彼らの面影が浮かんでいた。
彼の神の瞳に、自分が映る。同じ乳白色の髪色。
視線を大地に落とし、手をかざす。大地の窪みに水が満ち、やがて凪いだ水面が鏡のように空を映し出した。
「…………どうして、変えていないのですか」
自らの姿を水鏡に覗き込んだ彼は、多少の困惑と多くの苛立ちを込めた声で、アンスーズに向き合った。平素の丁寧な口調に戻ってはいるが、その声色には感情が滲む。
映し出された“姿”は「色」以外、何一つ変わっていなかった。
髪色だけが灰金髪から虹色を秘めた乳白色に、蒼穹を映し出していた瞳は太古の闇に遊色を煌めかせる。だが、変化はそれだけ。秀麗、玲瓏、と謳われてきた、そのままの姿がそこにあった。
「私は、“新たな名と姿を”と願ったはずですが?」
「それが其方の“新しき姿”では不服か? 其方が吾に与えた、その色を纏わせたことが不服か?」
面白がる気配はそのままに、しかし相手の感情を何一つ理解していない風情で、アンスーズは問いかける。
「――この“姿”に、永久に囚われよと言うのですか?」
「否、そうではない。吾が覡……《ソーン》よ」
アンスーズは、慈しみに溢れた声で呼びかけ、その髪を撫でた。
与えられた“新たな名”……もう、“スーリザス”は居ない。
「吾を捕らえたのは、其方のみ。輝かしき魂を持ち、その姿でもって吾の前に立った、その時を留めてはならぬか?
吾は“人”など知らぬ。其方以外の姿など、分かりはせぬ。
ソーン、吾の幸魂たる者よ。吾は、その姿がよい」
――ずっと、疎んできた。
どれほど褒めそやされてこようとも、どれほど憧憬されてこようとも。この姿があったからこそ、自分は人として生きてこられなかった。
皮肉なことだ。
人で無くなって初めて、この姿に意味を感じようとは。
「……私がこの姿を嫌っていることを知っていて、その仕打ち。
《アンスーズ》……我が君。御方には『人の心の機微』とやらを教える必要がありそうですね?」
《ソーン》となった彼は、今までとは違う温かみさえ感じる冷眼で、《アンスーズ》を睨め付けた。その態度に、アンスーズも笑みをこぼす。
「其方に『人の機微』などと言われようとは思わなんだの」
「御方よりましでしょう、我が君。私は“人の間”に居たのです。私に捕らわれて初めて“人を見た”御方とは、比べものになりません。その言葉遣いも止めなさい。誰もそのようには話しません」
無知な若者を諭すかのような口調で、ソーンはアンスーズに向き合う。冷然とした表情と丁寧な口調は、彼にとって馴染みのある態度。だが、その奥にある感情は全く異なる。
生きるのだ。それが《異人》――人に非ざる者としての生であったとしても。初めて“自分が”望んで、生きることを願った。
これと共に。自分の“唯一の神”と共に。
「ふむ……なれど、人のことなどよく知らぬ。其方を模倣ればよいのか?」
「それも止めなさい、おぞましい。
……幸い、私達には有り余る年月があります。終わることのない時間があります。急ぐ必要はありません。少しずつ教えて差しあげましょう」
ソーンは微笑んだ。柔らかい、だが冷厳極まる笑み。そこには、もう何かを拒絶する“壁”はない。
「真、心を映し出さぬものであれ、美しき笑みよの。終わることなき時と申すか。吾を手放す時、心から笑ってみせるのではなかったのか?」
アンスーズも、愉悦と揶揄に満ちた笑みを返す。
彼は巫覡を望んだわけではない。ただ、その魂の輝きから目が離せなかっただけだ。
今は“望んだ”覡だ。
互いに望んだ『宿命の魂』
人の世の連環から彼を切り離し、自らとのみ繋がる新たな連環を成した。彼を自ら手放すつもりはないが、この者ならば作られた連環を解き放つこともあろう。その時までは。
愉悦の中に僅かな寂寥を含ませるアンスーズを、ソーンは見惚れるばかりの微笑みで再び睨め付ける。
「……何を馬鹿なことを。我が君、御方は人を甘く見過ぎです。
『蒼穹くずれ落ち、我が身に降りかからぬ限り。
緑成す大地裂け、我が身を飲み込まぬ限り。
この誓い、破らるることなし。
――手放さない。 “始めの連環”にも戻さない。
私は永久に、御方の“茨の鎖”――』
……我が君。笑いませんよ、私は。悔しければ、御方が私を笑わせてみせなさい」
古い言葉で紡がれた誓約が、蒼穹と大地の狭間に吸い込まれてゆく。強く希う、果て無き執着の誓い。類いまれなき、人の力。
耐えきれず笑い声をあげたのは、アンスーズの方だった。肩をふるわせる程に、歓喜に満ちた哄笑が響き渡る。
「何が可笑しいのですか」
「何とも困難なことと思うての。面白い、飽くる事なき楽しみを得た。いつか其方を心から笑わせてみせようぞ」
朗らかな笑い声が、エリガルの野に打ち続く。
この先、ずっと続くことになる“あたり前の光景”は、この時から始まった。
――新しい、人に非ざるとも変わらない、その日常が始まった。
* * *
「なんで、その色に成っていやがる」
水鏡を眺めながら、在りし日に思いを馳せていたソーンの背に、釈然としない声がかかる。背の高い影が、水鏡のソーンに被さるように伸びた。乳白色に虹色が輝く髪と、闇色に潜む遊色の瞳が、水面で揺らめく。
「私がどの色を纏おうが勝手です。そもそも、これを“私の色”としたのは御方でしょう、我が君。褒められこそすれ、咎められる由縁はありません。第一にですね、遅すぎます。私をどれだけ待たせれば、気が済むのですか」
「んなこと言ったって、あいつ等がしつこいのが悪い。ティールに頼んで、やっと撒いてきたんだぞ」
「当たり前でしょう。だから『人の執着心を甘く見るな』と言ったのです」
態とらしい労苦を表明するアンスーズを、ソーンはつれなくやり過ごす。スッと腰掛けていた岩から立ち上がり、軽く身を払う。既に髪と瞳は、いつもの――彼にとっては“仮初めの色”である、陽に輝く灰金と蒼穹の青に戻っていた。
懲りない表情をしたアンスーズは、ニヤリとした笑みを浮かべてその髪を撫でた。途端、ビシッという見事な音を立ててアンスーズの手が払いのけられ、続いてそのまま腕を取られて投げられる。受け身こそとれ、軽やかな水音を立ててアンスーズは泉に腰を浸すことになった。
「おい、なんてことしやがる!」
「正当防衛です。苦情は聞きません」
「ったく、『補佐官』だったお前はいつも勝手に俺の髪を触ってただろうが!」
「あれは嫌がらせです。……よりにもよって“その姿”になったこの十年の恨み、忘れていませんよ?」
泉も凍りそうな冷眼で、ソーンは腰を浸したままのアンスーズを睨め付ける。その言葉に、アンスーズは悪ふざけを楽しむ子どもの表情を見せて、カラカラと哄笑した。
今回のアンスーズの姿は、強靱長躯な軍人そのもの。遠き日、共にこの国を築きあげた功労者の姿。
「だから、色はお前に揃えてやっただろうが」
「そんなこと、配慮でも何でもありません。御方は私に、どれだけ嫌がらせすれば気が済むのですか。そんな所ばかり“人間らしく”なり過ぎです」
「目の前の教師が良かったからなぁ? イヤな性格には自信があるぞ?」
「黙りなさい! 誰もそんなことまで教えていません!」
笑いながら泉から這い上がり、アンスーズは身を震わせる。一瞬で濡れた衣服は元通りに乾いたが、何かを企む瞳はそのままだ。
何も変容することのない、日常。
それでも、始めと終わりが繋がったままの連環に、彼らは消えない轍を刻みつけてゆく。
「では行きますよ、我が君――《アンスーズ》」
「今度はどこに行くつもりだ? 吾の鎖――《ソーン》」
轍の上には種が蒔かれる。やがて花開くであろう、それを見守るために、彼らは歩み続ける。
変わらないようでいて、世界は何一つ同じではいられない。
二つの名が刻みつけるその道を、彼らは再び歩き出した。
一つの日常を終え、新しい日常を始めるために。
――おわり。
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これにて【消えない轍を刻む道】全五話、終了です。極寒シリアスの作品で申し訳ございませんでしたっ
[外伝]と名乗るのが申し訳ないほどに[本編]と趣きの異なる作品でした。[本編]の読後感が阻害されたと感じられるようでしたら、お詫びのしようもございません……。
言い訳するならば、本来この外伝【二つの名前の物語】は、独立した編成作品です。
しかし、今回でお分かりのように、救いの無い鬱々展開ばかりの内容で……。今回書きました最後のちょっとした光にたどり着くまでに(作者と読者の)心が折れそうだったので、本編『隊長さん』を含む【異人の書】の各編成作品の中にエピソードを埋め込んでいこうと決めました。今回はその第一弾です。一番マシ(?)なエピソードで構成したのですが、この有様です。
『二つの名前の物語』としては、他に重要なエピソードがあと二つありますが、書けるのか?という感じですね。(ラエトが絡む話は書いておきたいのですが……ウェネティ時代のスーリザスとか、誰得状態です……それとなく匂わせておきましたが、少なくともR15+残酷描写タグ付き、下手すりゃお月様行き)
“登場人物の心を折る(壊す)”話を書くには、作者側の気力が必要です……。
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世界設定やシリーズ構成作品群としては、作者自身が気に入っているものの一つなので、おいおい少しずつ書いてゆければいいなと思います。
この拙い作品をお読み下さり、また楽しんでいただいて、本当にありがとうございます。
また、近いうちに、今度こそ【本編の外伝(余話)】と胸を張れる作品をお目にかけられるよう、頑張ります。
今回もお読みいただき、本当にありがとうございました。また、この二人を始めとする彼らの日常をお伝えできることを、作者としても願っています。
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