消えない轍を刻む道【その4】 ~ 二つの名前の物語
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直接の描写はありませんが、多数の死者が出た虐殺光景があります。ただし暴力・流血描写はありません。
わずかな生き残りの小集団が、全く統制がとれないまま動揺も露わに立ち去る気配が遠のいた。エリガルの野には、ただ静寂だけが残る。
傷つく者の唸り声はおろか、断末魔の悲鳴すら聞こえない。遙か彼方から届く、逃げ去った馬たちの嘶きと、地に倒れた旗指物が風にはためく音だけが、わずかにスーリザスの行く手を遮った。
そこには《死》だけがあった。
エリガルの大地に累々と続く、死者達の群れ。
血の一滴も流さぬままに、その生命だけが奪われた使国の兵達。
多くの者達は、何が自らの身に起きたのかさえ分からぬままであっただろう。それでも、もはや何も映し出さない彼らの瞳には、疑念と恐怖と狼狽がまざまざと浮かんでいた。表情は例えようのない畏怖に凍り付いたまま、もはや動かない――。
その惨劇の結果を、スーリザスは無感動に見つめていた。
自らが引き起こした《虐殺》とも呼ぶべき結末。これが最初とは言わないが、ここまで大規模に実行したのは初めてのことだ。この惨劇が『唯一』になるのか、『初めて』になるのか。それは今後のウェネティ使国およびファリスク使国の動静次第だろう。
彼はわざと二つの隊を見逃した。敢えてこの惨劇の目の前で、その隊だけを無傷で残した。彼らの目の前で起きた、あり得ない事態――《茨の怪物》によって引き起こされた“人に非ざる力による虐殺”の結末を、国に持ち帰って貰わねばならない。
二つの内、一つの隊はウェネティ軍でも中枢に近い人物が率いていた小隊だった。ラエト将軍の子飼いでもあったその指揮官を、スーリザスは知っていた。経験も豊かで才能ある彼が「小隊」しか任されていないところに、現在のウェネティ軍の実態が透けてみえる。
良識と実力を兼ね備えた彼が、圧倒的な力による虐殺を経験したのならば。今の軍令部では、この無益な戦いを止められないことを知っている彼が、生き残り戻ったならば。軍のみならず、王宮の良識派とも繋がりのある彼が、残されたわずかな軍の実力者として戻ったのならば。
何かしら、動くはずだ。
彼は、彼なりに祖国を守る気概を有している。ラエトのように、まだ祖国に愛想を尽かしていない彼ならば。
そしてもう一つの隊は、王に近い宮廷の実力者の子息が率いていた隊だった。現王の取り巻きの一人。王お気に入りの“生き人形”の奪還を命じられてきたのであろう。敢えて彼を残したのは、まだ諦めてもらっては困るからだ。まだ妄執に囚われていて貰った方が都合が良い。良識をなくし、真っ当な進言に耳を塞いでいてもらわねば困る。まだ“人形”はこの地にあるのだと、伝えて貰わねば困る。
さらに言うならば、その者の父は宮廷の実力者であると同時に、ファリスク使国に近い立場にもあった。尻尾を掴まれるような行動こそとってはいないが、スーリザスは知っている。ファリスクの“枝”として、彼らの一族が長くウェネティ使国に根を張り続けてきたことを。
称賛する気はさらさらないが、現当主は時勢を読むことに長けている。見逃さないだろう、この好機を。ファリスク使国を“動かす”ためにも、彼らには王宮でうごめいて貰わねばならない。
スーリザスは、死屍累々たる野を静かに歩む。何かを確認するように、心に刻みつけるように。
何一つ『後悔しない』と決めた。『振り返らない』と決めた。
だが、『忘れない』とも決めたのだ。
あの日々の中で、自分は“静かに壊れた”のだと思う。
壊れたものは、どれほど表面を取り繕おうと、壊れたままなのだ。変容も還元もしない。元に戻ることも、新しいものに変わることもない。そのままであり続けるしかない。
それでも。だからこそ。
「――忘れはしない。この手が成し遂げることは、全て私の罪と罰」
死の静寂に満ちた野で、彼の独白が蒼穹の空へと捧げられる。感情の無い表情と声色は、それでも慟哭に満ちていた。
つと、スーリザスは足を止めた。派手派手しくきらびやかな軍装の一団が終わり、場違いなほどに普通の軍装の死者達が折り重なっている。彼らの革の簡素な兜が転がり落ち、この場に見合わない、だがここに来て見慣れた髪色が零れだしていた。
柔らかな明るい茶色の髪。背の高いその身体の特徴は、ウェネティ人のものではない。明るい髪色は、ウェネティ東北部から北方蛮地にかけての住民の特性だ。
ウェネティ使国は《フサルク神の選民》意識が非常に高く、それは容姿にも及んでいた。フサルク神の象徴色である黒を尊び、髪色は濃いほど貴ばれる。逆に、薄い髪色を持つ者は『神に愛されぬ者』として辺境に追いやられてきた。かつて覇権を競ったファリスク使国やコノルド使国の民が、黒髪を有することに対抗する意識もあったのだろう。
その結果、ウェネティ辺境部のここグレンヴェー地方や、その先の蛮地ルーンやオガムには金や薄茶の髪色の民が多く住むこととなり、血によって受け継がれる身体的特性として確立している。スーリザスの美しく輝く灰金髪など、その最たるものだ。
目の前で物言わぬ骸と成り果てている彼らは、明らかに“ウェネティ人”ではなかった。その軍装の粗末さと合わせて考えると、無理矢理に徴集されたグレンヴェーの辺境民か蛮地の虜囚たちだったのだろう。驚愕や怖れよりも、諦めや観念、絶望感を感じさせる表情を浮かべ、彼らは大地に横たわり虚空を見上げていた。
スーリザスは、ただ立ち尽くしていた。
編成としては、最前の配置。そこに、槍すら持たせてもらえぬ軽装の歩兵。何を意図したものであるのかは瞭然だった。
――後悔はしない。それがどれほどまでに残酷で、心ないことであったとしても。
必要ならば、どんなことでも成し遂げると、そう誓ったのだ。
* * *
「――然らば何故、其方はそうも怖れる?
誰のものでも無きその罪と罰に、何故目を閉じ、耳を塞ぐ?」
ただ死の野に立ち尽くすスーリザスに、淡々とした重い声がかかる。いつものように、嘲弄と憐憫が混ざり合った声。
スーリザスは振り返らなかった。確たる形を持ちながら、どこまでも朧気なその姿の持ち主は、虹色の輝きを纏って近づく。
「……なかなかに見事な光景よの……ノルンやクナアンの巫覡でさえ、ここまでは成さなんだが。【名】も無き力とは、とても思えぬ。真、其方は強く、愚かで、面白い」
蛋白石の化身のような彼は、言葉とは裏腹に無常な風情で周囲を見渡す。広がる大地に連なる死屍。“神の力”による虐殺。それを、“何も傷付けぬもの”であるはずの彼は、何を思って見ているのだろう。
スーリザスはそんな彼を見ること無く、唇を噛み締め、拳を握り込んで、ただ立ち続けた。身体を動かし、口を開いてしまえば、何かを見失いそうだった。
「何も語らず、何も触れず。されども、連環は閉じられず。其方は何を望む? 何を成す? その手に、何を得んとせん? 吾は何ぞ? 其方は何ぞ?」
哀憐が滲む言葉が、ただ渡ってゆく。それでもスーリザスは、その場で身動ぎもしないまま、凄惨な光景を目に焼き付けていた。
やがて諦めたかのように、虹色の影が一つ息を漏らす。だが、再びスーリザスに歩み寄りその肩に触れた時には、残酷なまでの揶揄が現れていた。
「触れるなっ!」
「……其方が見るべきものを見せようぞ」
そう一言呟かれた後、二人の姿は別の場所への移動していた。同じく死屍が広がる場所。だが、そこに横たわる者達の姿は、ウェネティ兵のものではなかった。
「――――どう、して……」
二十人にも満たない小集団。皆、簡素な外套と革鎧を纏ってはいるが、武器を持たない者達の死屍。先に目に焼き付けた哀れな兵達とは違い、戦う為では無くここに居た者達だった。その中に一つ、場違いなまでに鮮やかで典雅な色が混ざっている。
見慣れた色、見慣れた形。長くスーリザスの身を覆ってきた、あの合羽。
弱くは無い、しかし覚束ない足取りで、彼はその合羽の持ち主に近づく。うつぶせに斃れたその身を抱き起こす。
そこにあったのは、驚愕でも怖れでもなく、また諦めでも絶望でもない表情だった。目は開かれたまま、絶命するその瞬間まで抱いていたであろう気持ちを鮮やかに残す顔。
「其方を信じ、其方と共にあらんと成し。なればこそ、共に戦おうと成す。真、人の力は得体が知れぬ。類い希なき、輝かしき強さよ。その手を伸ばし、足りぬを助け合おうとする。それこそが、人の子の真の力。
其方が目を閉じ、耳を塞ぎ、その手を伸ばさぬが故の、これは其方だけの罪と罰。
吾を捉えし覡よ。其方は誰がためにある?」
ロブルの他に、数人の《異能者》たちがいた。そしてラエト隷下の兵もいた。難民としてルーンの地にやってきた者もいた。皆、誰かを案じ、誰かを助けようとする意志をその心に抱いたままの表情で、絶命していた。死への恐怖も怒りもなく、願いが果たされないことを悔やむ無念さだけが、そこにあった。
涙を見せることも無く、スーリザスはロブルの冷たい骸をただ抱きとめる。
異能の力に翻弄されながら、それでも壊れることなく希望と願いを忘れず生き抜いていた彼を、スーリザスは敬していた。だからこそ、彼らに居場所を与えたかった。人間の国を、誰もが人として生きられる国を作りたかった。その為ならば、自分自身など要らなかったのに。
「……どうして……あれほど関わるなと言ったのに……いや、違う……」
あえて距離をとり、ラエト以外と接してこなかったにも関わらず、なぜ彼らはここに居たのか――スーリザスを補佐しようとしたのか。問いかけようとして、彼はその考えを否定した。
知らずにいたのは、自分だ。
目を閉じ、耳を塞ぎ、差し伸べられた手を振り払ったのは、紛れもない自分。
これは、自分だけの罪と罰――。
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■[本編]未出の地理・国家関係
【ウェネティ使国】…西にフリジア使国、南にファリスク使国と接する使国。本編時には既に滅亡。
【グレンヴェー地方】…ウェネティ東北部の辺境領。ウェネティ使国は国内に複数の内政自治権を有する領邦を抱えており、その一つ。領主は【君候】と呼ばれる。
【ドニゴール地方】…グレンウェー領南部。王家の知行地。
【蛮地ルーン】…いずれの国領でもない土地。フリジアとウェネティに接する。本編ルーニックの中央部。
【蛮地オガム】…ルーンと同じくいずれの国領でもない土地。ルーンの東。
※蛮地には「蛮族」扱いされる《盟約》以前から住まう土着民や、使国からの避難民などがそれぞれ住む。
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前話や今話で、特に説明の無い固有人名(ミッスルトゥなど)も幾つか出てきていますが、今話では直接関係しないので読み流しておいて下さい。ミッスルトゥ、登場させ損ねた……。
「自分が壊れている」ことを自覚して行動する人間は厄介ですね。
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