消えない轍を刻む道【その2】 ~ 二つの名前の物語
彼ら“独立勢力”が、当面の“最前線”と位置づけたラフエスク城塞は、元は《盟約》以前の砦跡であった。土台となる城壁は残されていた為、急ごしらえとはいえ城塞は堅固であり、城壁には複数の小塔も作られている。スーリザスが居場所に望んだのは、幕壁沿いの張り出し櫓の一つだった。居住には向かない殺風景な石造りのそこに、ラエトとの会合を終えたスーリザスは戻った。
ここには誰も近づくことを許していない。そもそも、過去を知る者は彼への隔意ある畏れから、今のみを知る者は彼への純粋な恐怖から、好んで近づこうとはしない。
身を暖める火もなく、目を休ませる彩りもなく。彼の心中にも似たその空間には、誰もいない……はずだった。
「――相変わらず辛そうだな、其方は」
冷たい石の壁に包まれた、スーリザスの他には誰もいないはずの空間に、同じく冷淡な声が響く。淡々とした重い口調。その中に、わずかに面白がる色が滲む。
その声に構うこと無く、スーリザスは纏っていた軍用合羽を無造作に脱ぎ、床に落とす。そして無言のまま、代わりの荒い毛織りの外套でその身を包み、壁際に身を横たえた。寝藁に麻布をかけただけの、寝台とも呼べぬようなその一隅が、この場所での彼の定位置だ。他には椅子すらない。
「何も語らず、何も触れず。耳を塞ぎ、目を閉じるとも、連環の巡りは変わらず。其方が望み、其方が選び、其方が捕らえ繰る、その手が怖ろしいか?」
嘲弄の色を隠すこと無く、闇の奥から声は続く。身を起こしたスーリザスは、蒼穹の青を氷河の冷厳に変えた厳しい瞳で、声の主を睨み付けた。
「――黙りなさい。御方の戯れ言に、今は付き合う気はありません」
「真、人は面白い。何よりも強くありながら、その力を信じようとはせぬ」
乳白色の蛋白石の輝きが、闇に煌めく。
長い、地を掃く虹色の髪を纏い、確かに形を持ちながらも確たる印象を持てない朧気な長身が、闇に浮かび上がる。嘲弄の色と、何かを愛おしむ色を併せ持った白い顔には、闇色の瞳が昏い揶揄を映し出す。
「御方が何を言われようと、私は成すべきことを成す為ならば、惑わされません。怒りも、悲しみも、怖れも、憎しみも、もはや無い。今の私にあるのは、ただ望みだけ……御方であっても、邪魔はさせません」
「吾は何もせぬ、何も出来ぬ。全ては吾が覡たる其方の意志。全てはその手が成し遂げるもの。吾はそれを見届けるだけのこと」
蛋白石の化身を思わせる姿をした者は、ただ静かに言葉を続ける。嘲弄の色はやや影を潜め、わずかに案じるような気配と寂寥が代わりに混ざる。
「それが辛いか、吾が覡よ? それは、誰の罪でも、誰の罰でもない。その手が成し遂げるものを、振り返ること無く見ることが怖ろしいか?」
「――黙れっ、《茨の怪物》!」
今度こそスーリザスは立ち上がり、憎しみも露わに目の前の者に詰め寄り、正面から向き直る。常に丁寧で改まった口調は乱れ、素のままの感情が表れる。その声と視線を受けて、虹色の気配が満足げな表情を浮かべた。
「真、美しき輝き。それでこそ、其方らしい。
――ながら、面白きことなき呼び声よの……。吾に姿を与え、吾の力を奪い得て……しかして何故、其方は吾に【名】を与えようとせぬ?」
《茨の怪物》と呼ばれた彼は、愛でる仕草でスーリザスの髪に触れようとする。だが、その手は邪険に払われ空を漂う。その手を面白くもなさそうに追い、瞳の奥底に沈む虹色が楽しげに揺らめいた。
そんな彼の態度に、スーリザスは更に憎々しげに睨み付けた。平素の冷厳かつ冷然とした態度はどこにも見られない、その人間味を帯びた表情に、《茨の怪物》はくつくつと嗤う。
「――御方は、《茨の怪物》――それで十分だ。元より【名】の無きモノであったならば、今更【名】を求める必要などないだろう」
「確かに。なれど、吾らにとっても【名】はその標。それは望み、それは燈、それは消えぬ轍。吾らの“幸魂”――」
「――煩い、黙れ。御方は、私が望み捕らえた獲物だ。それ以上でも以下でもない。惑わせるなっ」
荒々しい声で、スーリザスは彼の言葉を遮った。そして再び外套から合羽へと纏うものを替える。ゆったりとした動作の後に真っ暗な闇を見上げ、気を落ち着けるように一つ大きく息をつく。
「…………御方が居ると落ち着きません。戻ります」
「吾は邪魔をしたつもりはないがな。其方は鎖に繋がれぬ魂。人らしく、自由にするがよい」
深い慈しみと仄かな羨望すら感じさせる柔らかな声が、部屋を後にしようとするスーリザスの背にかかる。
「其方を心から笑わせてみたいものだな。さぞかし見物だろう」
その声に、扉に手をかけていたスーリザスは振り返り、平静の慣れた笑みを浮かべた。美貌をもって知られた、極上の笑み。偽りの仮面。
「…………全てが終わり、私が御方を手放す時。その時には、心から笑ってみせましょう」
扉が閉まる重い音。はるか上方の明かり取りの窓からは、弱い星の光だけが瞬く。
「真、人は面白いもの――
フサルクよ、今ならば其が全てを捨ててまで、《人》に拘り囚われた意味が分かろうというもの。ウンブリア、オガム、フルリ、オスク……其らが、吾に反してまで抗う意味が分かろうというもの。
《人》の心を得たいとせん、その意味が、の……」
誰もいない空間で、彼は独り言つ。乳白色の虹の輝きが仄かに瞬き、やがて消えていった。そして今度こそ、誰もいない空間に星の光だけが瞬いた。
* * *
エリガルの野に、軍旗が広がる。
五軍団からなる軍勢は陣形を整え、その一団分にも満たぬ敵兵を恫喝するように、きらびやかな軍装を見せつけていた。
「……相変わらず、見た目には固執されるお方だ。その分を兵站や武具に回して欲しいと、かつては何度も進言したものだがな……今となっては、それが正されなかったことがありがたい」
斥候部隊と共に出ていたラエトは、大軍勢でありながら無駄に派手できらきらしい軍装を、苦笑交じりに見据えた。ウェネティ使国の先の王も、今の女王も、よく言えば美を愛する者であり、悪く言えば奢侈を好んだ。それは軍にも及び、装飾過多なウェネティ軍は他国からも呆れ半分で見られていたものだ。
かつて、その軍を率いフリジア使国やファリスク使国との戦いに赴いてきたラエトにしてみれば、袂を分かってもなお変わらない祖国の状況が歯痒くもある。
現在の彼ら、未だ国とも呼べぬ“独立勢力”の大半は、ウェネティを始めとする使国出身者であり、軍を構築する者たちも殆どが元は使国の兵。指揮官に至っては、全員がそれぞれの国でそれなりに名を挙げてきたものばかりだ。
使国たちは、自らの国を思い、国の為に戦ってきた彼らを、もはや繋ぎ止めることが出来なくなっている。南東のコノルド使国はまだ現実的な考えを持つと聞くが、ウェネティやファリスクは未だ《フサルク神の選民》としての妄執に縛られている。
「ロブル殿。《茨》に状況の通知を。我らは予定通り、少し戦って退きます。後はお任せする……と伝えて下さい」
共に斥候部隊に同行していた軽装の男に、ラエトは苦渋を滲ませた令を出す。ロブルと呼ばれた男は、同じ表情で一つ頷くと身を翻し、自らの腕で自分を抱き込んだ。一瞬の煌めきの後に、その姿は消失する。――【転移】の異能。
彼ら“独立勢力”が、使国を相手に互角以上に戦えている理由の一つが、彼ら《異能者》の存在だ。
“人の守護者”である正統な至高神フサルク神に反する、異端の神――「盟約の神々」によって異能の力を与えられた者達。異質な者に対する本能的な忌避もさることながら、神殿勢力からは“魔の者”として迫害され駆除されてきた彼ら。
隠れ住み息づいてきた彼らは今、迎え入れてくれる“独立勢力”に助力し「自分たちが、人として生きられる場所」を勝ち取ろうとしている。ドルヴィード・ロブルはその中心人物の一人だ。
総指揮官であるラエトの指示をうけ、ロブルと共に同行していた他の能力者たちも、次々に役目に赴いてゆく。ある者は大地の姿を変え、ある者は無い物を呼び寄せ、ある者は味方を守護する見えざる壁を築いてゆく。彼らの顔には初めての“誇り”があった。
やがてラエトは斥候部隊と共に本陣に戻り、偽装進軍の支度にかかる。無傷とはいかぬまでも、可能な限り死者を出さず、敵を一カ所に集めて退却しなければならない。ラエトの指揮能力を持ってしても決して容易ではないその準備に、彼は何かを忘れるように没頭していった。
今作の登場人物は姓名ありですが、スーリザスとクマエを除き、基本的に「姓」呼びです。
西洋式に[名(・氏族名)・姓]の順で綴ります。
【レト・クレス・ラエト】…ウェネティ使国の元将軍。
【ドルヴィード・ロブル】…ウェネティ出身の異能者。
【クマエ・エウボイア・グラエキス・グレンヴェー】…ウェネティ使国東北部グレンヴェー地方の君侯(フュルスト:独立自治権を持つ領主)※名前のみ登場
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地名は実在するアイルランドの地名由来です。設定当時はゲール語辞書が入手できず、基本英語読みのまま。
地理関係には一定の関係性を持たせていますが、物語そのものには何の影響も意味づけもありません。聞き慣れない「音」でしょうが、ご容赦下さい。
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