人の間の、引力の虹【その6】
「……………………」
「ねえ、お願いだからさ、その『結界』解いてくれないかな……何もしないよ」
「……………………」
フェフは途方に暮れていた。
手負いの獣を捕らえようとする時のようだ。目を覚ました彼女は、一瞬だけ小さな悲鳴をあげ、急ぎ周囲を見渡した後は即座に『結界』を張った。異能の力であることは確かだった。おかげで近づくこともできない。隊長は部屋の片隅に退き、にやにやとした笑みを浮かべて傍観している。
「ここはルーニック国にあるアラグレンって所なんだけど……分かるかな? そして僕はルーニックの【能力者】……って聞いたことある? 君と同じ西の出身、ヨーラ人なんだけど、今はルーニックの民だよ。ともかく、害意はないから。その『結界』、君の能力だよね? ルーニックのドルヴィにも同じような力を持っている人がいるよ。だから安心して――」
怯えと警戒も露わに寝台で身を強張らせたままの彼女に、ともかくもフェフは一方的に話しかける。まずは害意がないことを分かって貰わないと、何も先に進まない。だが目の前の見えない壁は堅固なままで、空間に手をついたように見えるフェフの掌には不思議な振動が微かに波打つ。
「えっと……どうすれば安心して貰えるかな。何が知りたい? ――何があったか、どうしてここに居るのか、君は分かる? 覚えている?」
「……………………」
沈黙は相変わらずだったが、彼女の表情が一瞬歪んだ。同時にフェフの掌に伝わる振動が大きく揺らぐ。どうやらこの『結界』は彼女の心情も反映するようだ。彼女は覚えている。あの殺戮を、そして幻の中でフェフと出会ったことを。
「――僕の力の所為なのか、君の力の所為なのか、それとも与り知らぬ未知の奇跡の所為なのか……それは分からない。ごめん、君しか助けられなかった。ごめん、助けてしまって、ごめん」
それはフェフの素直な感情だった。彼女だけを、あの幻の中から引き上げることができた。だからきっと――これで彼女は本当に独りになったはずだった。
わずかな間の幻であったとは言え、あの場で感じた雰囲気は戦場と同じ。何もかもを踏みにじり全てを無に還そうとする、残酷な意志の発露。あの殺戮から逃れ得た者がいるとは思えなかった。
思わずうつむいたフェフが、しばらく後に顔を上げると――そこにはじっと自分を見つめる金茶の瞳があった。不安そうに、そして怪訝そうに、ただ自分を見つめる澄んだ瞳。その視線が、助けたことを詫びるフェフに、その理由を問うているようだった。
フェフは口を開こうとして――少し躊躇った。あの幻の中での彼女の瞳は――恐怖と哀哭に彩られ、そして絶望と死による開放を望んでいる者の眼だった。
「でも死んじゃ駄目だ。少なくとも、君は今まで生かされてきたんだから。それまでの愛を疑っちゃ駄目だ。誰が何と言おうと。君は生きてきた。僕と同じように、周りの人々の愛によって生かされてきた。お願いだから、それだけは疑わないで」
彼女は実際にその声を聞いていたはずだ。彼女の周囲にいたはずの、同じ血脈を繋ぐ一族達の怨嗟を。あの怨嗟は――彼女に向いていた。フェフには聞こえないままに、その唇の動きが伝えていた。
『――お前の所為で!』という、血を吐く怨嗟の声を。
何があって、どうしてああなったのか。彼女と他の人々との関係がどうであったのかなど、フェフには分からないことだ。だから安易な慰めはしない。自分と同じ、確実な愛だけを彼女に知って貰いたかった。
「――ごめん、そういえば名乗ってもなかったね。僕はフェフ。君の名前は? 教えてくれると嬉しいな。あっちの人はここの隊長さん。でも、怖くないから。ちょっと変な人だけど、怖くないから」
「誰が変な人だぁ? 勝手なこと言いやがる。まったく、可愛げ無くなりやがって。
……お嬢ちゃんよ、とりあえず好きにするがいい。後で食事と着替えを持ってこさせる。それまでフェフを置いていくから、沈黙するなり、喋るなり、泣くなり、詰るなり、好きにしな。
おいフェフ、俺は腹が減ったから食ってくる。後からお前とお嬢ちゃんの分を持ってこさせるから、それまでお前は我慢しろ? な?」
「って、隊長! 僕一人置いていくんですかっ?!」
「だから言っただろう? しばらくお前が面倒見ろって。さっさと覚悟を決めろ」
「隊長――っ!」
思わず涙目になって声を上げたが、隊長は背を向けて部屋を出て行く。態とらしく、振り返りもせずに手をひらひらと振って、どこまでもいい加減な風情で。
追いかけることも叶わず、フェフは隊長が姿を消した扉をただ見つめるだけだった。その背を、寝台に身を起こした少女が信じられないものを見る様な表情で見つめていた。
* * *
「……………………」
「あの、さ……。うーんと。僕、女の子の扱いが分からないんだ。情けないけど。えっと、どうしたら楽にしてもらえるかな? 僕が怖い? 部屋を出た方がいい? でも、ちょっとは話をしてくれると嬉しいんだけど……君をなんて呼べばいいのかな。せめてそれだけでも……」
ティールさんやイース班長達が聞いていたら爆笑されそうなしどろもどろの対応に、我ながら苦笑するフェフだった。いかんせん、こんな年頃の少女と積極的に対峙するのは初めての経験だ。ストライフの娘ティンネ達を始めとして、町の少女達と全く交流を持ったことがないとは言わないが、どちらかというと彼女たちから積極的にフェフに接してくれていたので、彼から何か能動的な行動にでる必要性がなかったのだ。
「……………………ナウディーザ」
「え?」
か細く、強ばった声だった。驚きも露わに彼女を見つめかえすと、再び同じ音が彼女の口から発せられる。
「君の名前、でいいのかな。ナウディーザ? こんな出会いだけど、よろしく。ありがとう、教えてくれて。ナウディーザ、いい名前だね。音の響きが素敵だよ。でもちょっと長いかな……愛称は? ナディとか?」
野生の獣が一歩近づいてきたかのような喜びに、フェフは力の抜けた満面の笑みを見せた。その邪気のない表情に、ナウディーザと名乗った少女は呆気にとられた表情を浮かべる。
傍から見れば不思議な対応だ。彼女にしてみれば、自分は明らかに不審な国外からの侵入者で、目の前の彼は意に添わないとはいえ自分を助けてくれた相手だ。その彼がこちらに最大限に気を配り、自分の態度を安堵も露わに喜んでいる。偽りには見えない、その笑顔。そして自分の『結界』を――自分の“異能の力”を、怖れも怯えもせずに受け入れ、彼自身も『異能者』だと名乗る、自分と同じ色をもつ青年。
ナウディーザも、ルーニックの【ドルヴィ】については最低限の知識はある。自分たちと同じ『盟約の神々』による異能の力を有し、だがその存在を許され国のためにその力を行使する、“人の為の異能者”たち。
隊長が推測したとおり、彼女はフリジア使国で隠れ潜んでいた古人の末裔だ。そして、数世代ぶりに現れた『異能者』だった。その力は、何者もの侵入を防ぎ守る『結界』の能力。長ずるにつれその範囲は広げることができる様になり、今では家一軒ほどを覆うこともできる。
一族の中でも伝承のみに息づいていた、神々の恩寵者。その力による恩恵を感じるよりも先に、一族の者達は畏れ困惑した。密やかに盟約の神々を、かつての庇護者の名を伝え受け継いできたとはいえ、その神からは直接の恩恵も影響も何も受けてこなかった隠れ里の歴史。フリジア使国内で少しずつ周囲と同化しつつあった中、突然に現れた『異能者』の彼女を、一族は持て余した。
敬して遠ざける、とでも言おうか。彼らの伝承の証として敬するが、誰一人として彼女を同じ一族の者としては扱わなかった。実の親兄弟であってさえ。
物心ついた時から、彼女は独りだった。皆が皆、自分を壊れ物のように扱い、接する。丁重な、確実に一線を引く言葉遣いと態度。目の前の彼のように、丁寧でありながら親しみを感じさせるような言葉をかけられた覚えもない。
その名を、彼のように輝かしいものとして呼んでもらった覚えもない。常に彼らの伝承にある敬称をつけ“異能者・ナウディーザ”、もしくは“ディフソング様”とだけ呼ばれてきた。幼い頃から17になる今現在まで、愛称など聞いたこともない。
――あれが初めてだった。一族の皆から、敬称もなく呼ばれたのは。あの日、あの襲撃の時。
彼女の『結界』は村を守れるほどのものではなかった。しばらくは彼女の『結界』の範囲に守られた人々は居たが、彼女の能力も無限ではない。やがて力尽き、その効果は切れる。守れたとして、どこに逃げ得たというのかは別物として、彼女はその力で誰一人守れなかったのだ。守るどころか――彼女の存在を知り、それを理由に全員が抹殺対象とされた。
フリジア使国としても、3年前の対ルーニック戦役の敗戦を受けて国内の不満分子の押さえ込みなどに苦慮していた最中だった。使国として明確に“討伐”できる、異端の民。その、またとない生け贄を、国は見逃さなかった。
あの日、あの時。彼女は初めて偽らない一族の声を聞いた。
『ナウディーザ、お前の所為で! お前が居た所為で!!』
怨嗟に彩られた、叫び。逃げ惑いながら、圧倒的な殺戮の前に、血を吐き悲鳴を上げ、彼女に投げつけられた最後の言葉達。
初めての生身の感情を、彼女は絶望と、そして得心をもって受け止めた。
自分が望まれていないことには、薄々と気づいていた。なぜ生きているのか、その力の意味に得心することは出来なった。伝承を学びながら、かつての神の名を口にしながら、それでも彼女は何一つ得るものがないままだった。
初めて得たものは――怨嗟と恨み。そして後悔と絶望。
もっと早くにこの生命が失われていたら、一族は助かったのだろうか。自分が居なければ、彼らは今も隠れ里でその暮らしを紡いでいたのだろうか……。
「えっと……ナウディーザ? ごめん、馴れ馴れしかったかな……気を悪くした? とりあえず飲み物だけでもどう? またすぐに『結界』を張ってくれてもいいから、受け取ってくれる?」
どこか途方に暮れたような青年の声に、ナウディーザは我に返った。まだ『結界』を張ったままだったことに思い当たる。片手を空間についた状態で、その向こうから自分と同じ色彩の穏やかな瞳が柔やかに微笑んでいる。
半ば無意識に、そして慌てて彼女は『結界』を解いた。何の前触れもなく行われたその行為に、フェフは為す術もなく身体の均衡を崩すしかなかった。
急に奪われた手の支点はそのまま空を切り、つられて身体が前に傾く。当然の様に前に出る足が二歩三歩とたたらを踏み、そのまま――寝台の彼女に向かって倒れ込んだ。
「きゃっ」
「わっ! ご、ごめん!!」
真っ赤な顔になったのはフェフの方だ。寝台の彼女を押し倒すかの様に、両手をついてナウディーザを見下ろす体勢。半身を起こしていた彼女の顔のすぐ側に、フェフの顔が迫る。お互いに驚愕に見開いた金茶の瞳。フェフの手に絡む赤茶の長い髪。瞬時にフェフが赤面する。
「――面倒見ろとは言ったが、押し倒せとは言ってねえぞ、フェフ。お前もなかなか手が早いな?」
しばし硬直していた二人を正気に戻したのは、揶揄う意図を隠しもしない隊長の至極愉快そうな声だった。慌ててフェフは体勢を戻し、彼に向き直る。
「誤解です! ちょっとした事故ですっ、事故!」
「情けで、イース達には言わねえでおいてやるよ」
「だから事故ですってば!!」
両手に食事を載せた盆を器用に掲げ、足で部屋の扉を開けた隊長は、そのまま突撃してきそうなフェフを上手くかわして、危なげなく卓に盆を置いた。真っ赤な顔で必死の抗議を続けるフェフをあしらいながら、隊長は笑いの中に鋭さを秘めた視線をナウディーザに向ける。
その瞳の色に、ナウディーザは畏怖を覚えた。思わず身を強張らせる。ルーニック人らしい青の瞳のはずなのに、深く昏い漆黒の闇を感じさせる色。その色がわずかに虹色に光った気がした。
「――なかなかに素質があるみたいだな。やっぱり面倒くせえ。
なあ、お嬢ちゃん。難しいことは言わねえ、聞かねえ。どっちにしろそんなに長い間、ここには居られねえだろうしな。その間に、身の振り方を考えな。
こいつを見て、こいつと接して、お前さんの行く末を決めるがいい。誰のものでもない、自分だけの“人としての運命”ってやつをな」
フェフを指さしながら語る隊長の表情はふてぶてしく、また口調にはいい加減さが滲み出ていたが、その視線から受ける印象は全く異なる。彼女を見極め、その意志と覚悟を測り――まるで断罪されるかの様な、強い畏怖。
ナウディーザは困惑と恐怖のままに隊長を見返した。彼女よりもはるかに背の高いその体躯からは、あらゆるものを無に還すような底知れない波動を感じる。異能の力とはまた異なる、太古の闇。真昏き、漆黒の輝き。
「……あなたは……なに……」
ナウディーザのかすれた声は、絞り出すようなものだった。本当に心を奮い立たせなければ、声すら発することができない得体の知れない圧迫感を持つ畏怖が、ただひたすらに彼女を怯えさえていた。
「――これだから愛し子は手に負えねえ。
お嬢ちゃん、怯えんな。俺はお前さんに何も出来ねえよ。怖いんなら、俺には近づかなくていいさ。フェフなら大丈夫だろう? こいつをしばらくお前さんに付けるから、安心しな。
おい、フェフ。俺はお嬢ちゃんに怯えられるみたいだからな? 後はお前に全部任せたぞ?」
「隊長ーーーーっ!!」
再びに彼らに背を向け部屋を出ようとする隊長の腕に、フェフは思わずしがみつく。だがその必死の懇願を、隊長はこともなげに振り払って彼の頭をぽんぽんと叩く。そして『盆は後から廊下にでも出しておけ、誰かに取りに来させる』と言い置いて、ニヤリとした笑いと共に階下に降りていった。
残されたフェフは呆然と、そしてナウディーザは困惑のままに、その背を見送った。
宵闇が迫り来ていた。還元の火祭りを前にした満ちゆく月が、やがて登り来るであろう静寂の時。
思いもかけず、哀しい謎にひかれるように出会った二人の間に、虹の橋がかかる。想いよりも先に、哀しみと淋しさを解くよりも先に、その運命は動き出した。