誰も傷つけぬ者たちへ【その5】
「やっと会えましたね、魔の者。神の理を外れた、哀れな者。わたしはあなたに神の慈愛を届けたいのですよ」
神々しさとも言える人間味に欠ける美貌で、優越感すら感じさせる気位の高さを振りまきながら、彼――【神力者】はようやく出会えた【異能者】フェフをその瞳に捉えた。同じ色彩を持つ相貌が、アラグレンの町中で相対した――。
* * *
その日、フェフは交替する第二班の皆と共に町の詰め所に来ていた。例年の人事に関する書類対応をまだ“所長”として詰め所にいるストライフ兵営長とケーン事務官と詰めるため、ソーン補佐官さんも一緒だ。今日はそのまま町の詰め所に泊まり、翌日兵営に戻る予定だった。
一通りの検討が終わり、細かな書類作成に入るケーン事務官と補佐官さんをおいて、フェフはラーグ班長と共に、久しぶりのアラグレンの町を散策する。『黒の神官』の一件以来、フェフはアラグレンの町を出歩くことを避けていたので、本当に久しぶりだった。
町の皆は一見今までと変わらずフェフたちに声をかけ、たわいもないやり取りを二言、三言と交わしてくれるが、心の機微に敏いフェフはその態度の所々に散見する“畏れ”を感じ取ってしまう。ラーグ班長が隣りにいてくれなければ、詰め所に逃げ帰っていたかも知れない。
仕方のないことだと分かっている。でも頭で理解していることと、感じることとは別ものだ。切ない寂しさが胸を突く。
「ん~、予想より多いけど……でも、こんなもんだ」
不意にラーグ班長がフェフの頭をぽんぽんと叩く。常より強めのその“攻撃”に苦情を言おうと見上げた先で、ラーグの青緑に光る瞳が慈愛の温もりを届けてくれた。
「なあ、フェフ副長。どんな人間だって、全員に好かれるなんてことは無理だよ。俺等だって、軍団の中でも憎まれていた相手だっていたさ。面と向かって『人殺し』って言われて、泣き詰られたことだってある。だって俺は前線の軍団兵だ。この手で命を奪った人の数なんて、もう数えられやしない。でも笑っていられる。泣きながら、笑いながら、それでも人を傷付けることが出来るんだ。……“普通”の人からすりゃ、十二分に“得体の知れない、怖いイキモノ”だよ、俺等も?」
「…………どうして兵営の皆さんは、こんな僕を大切にしてくれるんでしょうか……」
軽快さを失わないまま、瞳だけに真摯な色をのせて紡がれるラーグの心遣いくらい、フェフにも分かる。分かるからこそ、その気負うことのない親身な態度が悲しくて嬉しい。思わず視界が潤む。
「ちょっとは自惚れていいなら、俺は普通の兵よりは強い。イースにはちょっと負けてる気がするけど。でも、その力は人を傷付けるための力なんだよ。大切なものを守るために、誰かを傷付ける力。それは俺だけじゃない、軍団兵は皆自覚している。
だから、フェフ副長。俺はあなた達ドルヴィに申し訳ないんだ」
ラーグが紡ぐ言葉は、午後の大気に静かにしみ込んでゆく。
「フェフ副長が来る前、隊長は前の神官さんをやり込めた。その時に言ったんだ。
『神の力は、本来誰も傷付けない力だ。身体も、心も、何一つ。
だがお前等フサルクの神官どもがやってることは、軍団兵のものと変わらない。
誰かを傷付けながら、何かを踏みにじりながら、自分たちの周りだけを守る。
だから俺はお前等を認めない。何の覚悟もなく、神の力を振りかざすお前等を。
軍団兵達が歯を食いしばりながら振るう力の方が、よほど美しく尊い』 ってね。
――俺、隊長に心酔してここまで付いてきたけど、あの時ほど嬉しかったことはない。
そして同時に思ったんだ。戦場のドルヴィ達がどれほど美しく尊い者なのかって。
誰も傷付けることのない力を、大切なものを守るための力として行使させていることが、本当に申し訳ないって」
「…………買い被りすぎです。僕達は、そんな尊い者じゃない」
「俺が勝手にそう思ってるだけだよ。でもその心をゆがめることは誰にもできないよ。
フェフ副長。多分、俺とイースはもうすぐ前線に戻ることになると思う。後悔なんてものはしないよ? 大切な国を守れることが誇らしい。このアラグレンにあるような、平穏で当たり前の生活を守れることが嬉しい。それを改めて確認できただけでも、この第25隊に来た甲斐があったと思う。
フェフに会えて良かった。ドルヴィ達の苦しみの一端を知ることができて良かった。――いつか、きっといつか、あなた達の力を本来のものに戻してやる」
「ラーグさん……」
生来の楽天的な気質はそのままに、それでもラーグの意気込みは夢を語るというには真摯に過ぎた。補佐官さんのように曖昧に考えさせるのでもなく、ティールさんやハーガルさんのようにどこかはぐらかすのでもなく。あまりに直接的に真正直に告げられる心。
「少なくとも俺は、フェフがここにいることを嬉しいと思う。他にもそう思う人はたくさんいる。コールみたいに、何も考えることなく受け入れてくれる奴だっている。どんなドルヴィ達にも、同じように思ってくれる人がたくさんいる。それを俺は軍団で伝えたいと思う。そうすれば、きっといつか【軍の能力者】はいなくなると思う。残るのは只の『軍団兵』だけだ。持ってる力がちょっとだけ違う、同じ軍団兵。
フェフ、一緒に戦っていこうな。俺はこんなんだから、軍以外では役立たずだからさ。多分イースと一緒にしぶとく軍に居座ると思う。だから待ってるよ、フェフが自分自身を『俺等と同じ』と思えるようになるまで、待っててやるからさ」
涙は出なかった。潤む瞳からその滴は落ちなかった。ここは泣くところじゃない、笑うべき所だと、もう一人のフェフが叱咤する。だからフェフは笑った。笑って『はい』と言った。その笑顔を受けて、ラーグも笑った。どこまでも気負うことのない、心を分け合う者同士が交わす笑顔のままで。
* * *
何となく気恥ずかしい空気になってしまい、フェフはラーグと別れて一人町を歩む。もう町衆が仄かに漂わせる畏れなんて怖くない。単純と言われようが、もう十分すぎる力を貰った。だから怖くない。
『愛されている』という実感が欲しかった。箱庭の愛ではなく、普遍的な愛が欲しかった。
アラグレンの町は、第25隊の皆は、それをフェフに与えてくれた。それで十分だった。彼に対し本能的な畏れを持つ人々を、今度は自分が愛してあげたいと思った。異能者としてではなく、ただの人として。
――そんな彼の前に、突然もう一つの『畏れ』が人の姿をとって姿を現したのだった。
「魔の者。神の理を外れた、哀れな者」
何の先触れも知らせもなかったが、『黒の神官』はその日アラグレンにいた。いや、その日だけではなく、密やかに2日前から滞在していた。この時期、守備隊の兵達が町に出ることが多いことを知って。
護衛騎士である神殿兵は難色を示していたが、そこは神官が押し切った。どうしても、目にしたかったのだ。自分とは異なる『神の力』を振りかざす【ドルヴィ】という存在を。そしてその願いは叶えられた。やはり自分にはフサルク神の恩寵があるのだと、自信と誇りを新たにする。
「お前が【ドルヴィ】……魔の者だね? 始めまして、わたしの名はウィアド。我が神、フサルク神の恩寵と導きの元に、数多の人々に恵みをもたらす者。民はわたし達を【神力者】――『神の意志を刻む者』と呼ぶよ」
突然のことに固まるフェフを余所に、ウィアドと名乗った『黒の神官』は柔やかに微笑んだ。その顔は神の慈愛に満ち、誰もが心を奪われそうなほどに美しく感じられた。
フェフと同じ色の髪と瞳。フェフと同じほどに小柄な肢体。容貌や雰囲気は大きく異なるが、どこからみても彼らは祖を同じくする者同士であった。
「本当に西方の民なんだね、お前も。わたしは西方ヨーラの出だよ。……ああ、そんなに強張らなくても。わたしは他の者のように、魔の者だからといって差別したりはしないよ。だって、お前も我が神が庇護すべき人間じゃないか。気まぐれで残酷な盟約の神々によって、本来得るべき神の愛と人の愛を奪われた者。わたしはそんなお前達を哀れに思うよ。助けてやりたいとも思う。だからわたしはこのルーニックに来たかったんだ。多くの哀れな者達を、我が神の御力をもって人の理の内に戻してあげたいんだ」
どこか無邪気に、それでいて尊大に。ウィアドが発する玲瓏な声は、自身に陶酔するかのような表情の元で繋がれる。自らに与えられた神の恩寵を疑うこともなく、ただひたすらに神を崇敬しその願いを自らのものとして叶えようとする、どこか歪んだ子どものような心。
実際、彼は若かった。ある意味、幼かった。年齢は20歳を迎えたばかりだが、10歳の頃から神国に渡り、フサルク大神殿で研鑽を積み、わずか15歳で【神力者】となった神の寵愛深き者。神殿以外の生活をほぼ知らず、純粋なまでの信仰心と恩寵者としての矜持に溢れる若者。美貌にも恵まれ、誰からも敬われることしか知らない、愛されし者。それがウィアドだった。
無言で立ち尽くすフェフに、小首をかしげて微笑みを与える。それが、当然の恩寵であるかのように。周囲には遠巻きで町衆が集まりはじめ、この思わぬ邂逅を固唾を呑んで見守っている。既に示されている、彼の神官の奇跡の力。それを凌駕するほどの、彼自身の人間味を感じさせない優美な姿。その場には揺蕩うような穏やかで神々しい空気が溢れ、フェフを含む人々を魅了してゆく。
「ねえ、魔の者、能力者のお前。名前は何というの? 辛いだろう、異能の力は。我が神の愛を受け取れない定めは。でもわたしなら、お前を解き放ってあげられるかも知れない。家族の愛すら知らないお前に、わたしは神の愛を与えてあげられるよ……」
――その言葉に、フェフは我に返った。目の前の彼は、今何と言った? フェフにとってのある意味「禁句」を耳にした途端、胸の奥に熱が生じる。フェフはぎゅっと胸元を握りしめた。そこには【ドルヴィの首輪】と同じように、常に身につけている「お守り」がある。育ての親でもあるヤーラ師が渡してくれた、彼に与えられた愛の証。
フェフは心を落ち着かせるために、長い息をついた。大丈夫、自分は冷静だ。こんな言葉に惑わされたりはしない。
「――神官殿、初めてお目にかかります。僕との会合を願って下さっていたようで、恐縮です。――ですが申し訳ありませんが、僕自身は貴男と話すことはありません。失礼いたします」
態度を確たるものとするために、フェフはソーン補佐官さんを思い描きながら、彼がとるであろう態度を真似る。そう、相手にする必要はない。彼らとフェフは異なる軸をもつ心の大地に立つ者だ。わかり合えるはずがない。
踵を返して詰め所に戻ろうとするフェフの行く手を、いつの間にか回り込んでいた護衛の神殿兵が遮る。隊長たちほどではないが、フェフよりもはるかに背の高い強靱な身体が、無言で行く手を阻む。
「……どいていただけませんか?」
「――我が主が、お前と話すことを望んでいる。散々礼を尽くしたにも関わらず、一顧だにしなかったのはそちらだろう? わざわざ赴いたにも関わらず。それがルーニックの礼儀か?」
神殿兵の男が厳しい表情でフェフを睨め付ける。フェフも職業軍人としての技能は人並み以上に有しているが、だが目の前の彼を振り切ってこの場を逃れられるようには思えなかった。また、あくまで丁寧な態度と口調のままの彼らを力技で無下にして逃げることは、衆目のあるこの場では悪手だと思い直し、フェフは再び黒の神官に向き直った。それを見て、ウィアドは勝ち誇ったような笑みを交えさせる。
「……僕に、何をお尋ねになりたいのですか」
「言ってるじゃないか。わたしはお前を助けてやりたいのだと。だから、その苦しさをわたしに伝えておくれよ。我が神の力が、お前のその傷を癒やしてくれるよ……」
実際の所、ウィアドの【神力】に【ドルヴィ】を解き放つような力は無い。だが、ドルヴィを、異端の神の力を有する者の「心」を捉えることがその目的だ。異能者の力など、フサルク神の力の足元にも及ばぬのだと、その心に刻ませることが狙いなだけの甘言。
ウィアド自身はそれを「甘言」だとは思っていない。彼自身はそれが「救い」だと本当に思っているのだ。異端の神の力から解き放たれることのない哀れな者を、せめてもの神の力で包み込むこと。それが彼の考える「救い」だ。それがどのような葛藤をもたらすかなど、何一つ思い遣ることもなく。
ウィアド自身は心のままに行動しているに過ぎないが、その純粋なまでの思い込みを利用しようとする者はいる。南方ファリスク使国とルーニックが再び本格的な戦闘に入りかねないこの緊迫した時期、コノルド使国は双方への策略を多方面から仕掛け始めていた。
その一つが、ルーニックだけが持つ【軍の能力者】という武器への揺さぶりだ。
「使国」である以上、同じように異能者を行使することなど考えられない。ならば相手からその武器を奪うしかない。直接的に争っているヴァンダル王国が同じ武器を持つことのないよう、そして妥協しようのない主導権争いを続けるファリスク使国に対し“貸し”を与え優位に立つために。大神殿を掲げるフサルク神国の庇護国として、コノルド使国は神殿勢力を行使することを躊躇わなかった。
近年、ルーニック国に派遣される『黒の神官』の数は増している。ほんの僅かの力しか持たない者を含めてでさえ数十人でしかない彼ら【神力者】を、集中的にルーニックやヴァンダルの神殿に送り込んでいる。人々に【神力者】が振るう“益のある”力を見せつけ、そして【ドルヴィ】達自身からその気概を奪う。ドルヴィ達の力の根源が「意思の力」であることは知られていた。だからこそ、自らの力を信じることが出来ない異能者は十分な力を行使できない。その剣を錆びつかせればよいのだ。それに必要なものは、心を惑わす甘言一つでいい――。
「――神官殿が思い描くような苦しみは、僕にはありません。僕はすでに愛されています。愛を知っています。だからこれ以上の愛は――フサルク神の恩寵は要らないのです」
そんなウィアドの一方的な慈愛に惑わされることなく、フェフは毅然とした表情と口調で黒の神官に向き合った。手の中にその証しを握りしめて。
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<ルーニック起点でみた国家関係>
[西方諸国]
フリジア使国 :西で直接国境を接する敵対国。
ヨーラ王国 :フリジア使国よりさらに西の小国。フェフの生国。
[南方諸国]
ファリスク使国:南で直接国境を接する敵対国。
フサルク神国 :ファリスクの南東にある神権国家。小国でコノルド使国の庇護国扱い。
コノルド使国 :フサルク神国を間に挟む形でファリスク使国と国境を接する国。潜在的敵国。
[東方諸国]
ヴァンダル王国:オガム地方の東で直接国境を接する好意的中立国。さらに東は海。
◎西方フリジア使国・ヨーラ王国と南方ファリスク使国の間には大森林地帯があり、この2国は直接国境を接しない。
◎「使国」は<神の使徒の国>という意味の呼称。フサルク神の選民が建国した国々の末裔。
◎「神国」は<フサルク神の国>という意味。
フサルク神殿を統括する大神殿が直接統治する神権国家。
※とりあえず今章で名前が出てくる国々だけ。