誰も傷つけぬ者たちへ【その4】
「治ったって? 本当に??」
「そうらしい。おかげで町は凄い騒ぎになってる。さすがに昨日の今日で、まだ元気いっぱいって訳にはいかないけど、少なくとも寝台からは離れて外出できる程度には快復してるってさ」
「そりゃよかった! これで兵営長も一安心だな!」
「目出度いことだけど……何だか不気味というか、恐いな……」
「喜ばしいのに、素直に喜べないのが、何かヤだねぇ。よりによって『黒の神官さん』の仕業だなんてさぁ……」
「なんていうかねぇ……俺としては、隊長と補佐官さんが“我関せず”って感じで、その一件については無反応なのが、無茶苦茶恐い」
「同感です、ラーグ班長」
秋分を迎える頃、小康状態が続いていたティンネの病状に、劇的な――奇跡といっていい変化が訪れた。
治ったのだ。
彼女を癒やしたのは、新しくディングルに着任したフサルク神官。隊長たちの予測通り、その神官は通称『黒の神官』――【神力者】と呼ばれるフサルク神の奇跡の力を行使する能力者だった。
その神官は、癒やしの力をもっており、着任早々にディングル市の重病人などを治癒して回り話題を振りまいた。その噂に縋り、ティンネの大叔父にあたるアラグレンのファゴス町長が神官の来訪を願い――その願いのままにティンネの病を癒やしたのだという。
噂は届いていたが、ストライフ以外の兵営関係者はその場に立ち合っていない。どのような力が振るわれたのかはコール少年が届けてくれた伝聞が頼りだが、その手をかざし黒い輝きと共にティンネの身体から何かが抜け出して、ティンネは快復したのだという。
「うーん……俺、王都で【神力者】の治癒の力を見たことあるけどさぁ……確かにその通りの現象だったよ。だから多分事実だと思う。姿形も、俺等が護衛した神官と同じだし。間違いないね。
…………ああ、面倒なことに……ハーガル、何とかしろよぉ……」
ティールの最後のつぶやきは、兵営の皆のざわめきに紛れて立ち消えたが、皆の興奮は収まる様子を見せない。第一班と第二班が在留する兵営の食堂は、いつも以上の喧噪に包まれている。
いつもなら食後の団欒を共に過ごす隊長と補佐官さんがその場にいないことも相まって、色々な思いが交差するざわめきには収拾が付かない。
大勢を占めるのは、ストライフの愛娘ティンネの快復を祝い喜ぶものではあるが、その一方で誰もが不可思議な【神の力】による治癒に対して本能的な畏怖の念も示している。また、伝統的にフサルク神への信仰心の弱いオガム地方出身の地方兵の間では、初めて知らしめられた奇跡の力に困惑が広がっていた。またフサルク神の選民国家である使国らと自らの力だけを頼み戦ってきた軍団兵の間でも、潜在的な「敵」であるフサルク神関係者がもたらした奇跡に戸惑いが生まれていた。
隊長は憚ることなく公然と、補佐官さんは暗黙の内に、フサルク神への嫌悪を示しているので、彼らが今回の件について複雑な思いを抱いていることは疑いない。だからこの場に彼らがいないことは、兵営の皆にとっては有難いことでもあった。隊長たちも、そんな皆の心境に配慮して姿を見せていないのだ。
だが何よりも【能力者】であるフェフ副長に対する、何とも微妙な気遣いが苦々しくも痛々しい。誰もが気にしたくは無いのにどうしてもフェフを気にしてしまう。同じ「異能の力」でありながら、全く異なる神の力。それをまざまざと見せつけることになった、今回の件。それに対してどのように彼に接すればよいのか、さすがにイースやラーグですら苦慮していた。
当の本人は隊長たちのように態とらしく姿を消すことなく、ただ静かな顔付きで皆の会話に耳を傾けている。フェフが逃げることの無い心の強さを持てていることは喜ぶべきことではあるが、そのぶん皆の困惑は広がるばかりだ。
そんな中では比較的態度が落ち着いているティールだったが、先の「護衛」の時に受けた印象が決して良いものではなかった相手だけに、黒の神官に対する感情は「忌々しい」の一言に尽きる。
アイリーズ市で第24隊から引き継いだ「護衛対象」は、予想に違わぬ『黒の神官』だった。まだ若い、20歳にも届かぬであろう青年神官は、二人の側仕えの神官と護衛となる神殿兵一人を伴っていた。
長く伸ばされた艶やかな赤茶の髪を持ち、男性らしさをまるで感じさせない中性的な姿。ソーン補佐官とはまた違った方向での美貌を誇り、フェフとさほど変わらないほどに小柄な肢体からは肉体的な強さを感じることはない。だが、その表情は力に裏打ちされた自信に溢れ、フェフと同じ金茶の瞳は尊大なまでの矜持を知らしめていた。
そう、その神官の髪と瞳の色、身体的特徴は西方人特有のもので――フェフと同じだったのだ。
それだけでも「仲間」を重んじるティールにとっては苦々しいものであったのに、彼の神官はフェフとは似ても似つかぬ性格で――ティールが倦厭する傍若無人さに溢れていた。
「神官」らしい慈悲深さや優しさを示してはいるが、ティールはその態度の元となるものが感じられるだけに惑わされない。あの“優しさ”は、上位と信じる者が下位に与える“優しさ”だ。
無償の、同等の愛では無い、上に立つ尊大な愛。
愛玩にも似たその優しさなど、「人々を背負う者」であるティールにとって決して受け入れられるものではなかった。
自分の正しさだけを信じるその残酷で無縫な矜持は、毒だ。この毒をオガムにもたらすことは決して好ましいことでは無い。フサルク神殿がどのような意図を持って彼を派遣したのかは分からないが、ルーニック国に対しての益にならない、とティールは断じた。
同じ印象をハーガルも抱いたのであろう。二人とも表面上は穏やかに、得意とする人当たりの良さを万全に発揮して神官一行から様々な情報を引き出し、その背景を探る。その結果、表向きには若年ながら優秀な「黒の神官」である本人の強い希望で、信仰の薄いルーニック国オガム地方へフサルク神の栄光を知らしめるための派遣着任、ということであったが、同行した側仕え神官の一人は南方コノルド使国の影響下にあることが伺い知れた。
南東に位置するコノルド使国は、フサルク神殿を総括する大神殿が統治する神権国家フサルク神国を保護国として傘下におく強大な国だ。国境の関係からルーニック国と直接戦火を交えたことはないが、友好国でも中立国ですらない、潜在的な敵国だ。またコノルド使国は、オガム地方を挟んで国境を接するルーニックの好意的中立国である東方ヴァンダル王国とは何度も戦火を交えている。さらにルーニックが南で国境を接し現在も一色触発状態の小競り合いが続いている南のファリスク使国とは、同じ選民国家使国間での主導権争いから長年敵対している。
「敵の味方」であり「敵の敵」であるこの国に対し、コノルド使国が何らかの揺さぶりをかける目的が全くないとは言えないはずだ。名目上“不干渉”である神殿勢力を用いての計略の可能性はある。
護衛の神殿兵もイース班長たちに匹敵するほどの戦闘能力を持っているように見えたし、何よりその神殿兵の姿態はオガム人の特徴を持っていた。どのような経緯かは分からないまでも、明らかにこの地に縁のある人物を守護兵として従え、フサルク神の栄光を振りかざす無垢なまでに尊大な若者。その危険性は、ティールやハーガルならずとも危惧すべきものであった。
「護衛」任務を終え、二人それぞれの率直で真剣な印象からなる報告を聞いた隊長は、その時はいつも通りの飄々とした態度だった。だが翌日、ハーガルはソーン補佐官に呼び出され、『特別任務』として還元の火祭りまでの長期間にわたるディングル市駐在を命じられた。
『これは隊長令ではなく軍令です。貴方は、貴方の任務を果たして下さい』
明らかにハーガルの“本来の立場”を理解した命令。一瞬躊躇したハーガルだったが、そこは『猫』としての本質が勝った。ティールには簡単に説明をしたものの、隊の皆への説明もそこそこに再び旅立つハーガル。やがてディングル市に落ち着いた彼を追いかけるように届いた命令書は、国境守備隊総司令からのものではなく、何故か軍令部直々のもの。――要は、調査部本体「猫の王」からの命令書だった。思わぬ本来の業務に気が引き締まると共に、それを当然のように手配する隊長と補佐官さんの“得体の知れなさ”に、改めて好奇心と自制心が葛藤するハーガルだった。
――結局ハーガルは、隊長と補佐官さんと再び過ごす日々を迎えないまま、その冬に第25隊を後にすることとなる。
* * *
「そんなもん、放っておけ」
「ですが隊長……一応、正式な招待です」
「うるせえ、ケーン。お前さんの言いたいことは分かるが、俺は軍人だ。軍令以外に従う義務はねえよ。そして他も同じだ。俺の隷下にある奴ら誰一人だって、動かす気はない。ソーンもフェフも。誰一人、神殿なんかにゃ行かせねえ。自分で行きたい奴だけ行けばいい」
「そんなこと言いましたら、あちらが兵営に来かねませんよ?」
「神殿の奴らが兵営に立ち入る許可なんぞを与える気か、お前さんは?」
「とんでもない、絶対に阻止します」
「だったら問題ねえだろうが。丁重に断っとけ、頼んだぞ。この話はこれでお終いだ。おっと、ストライフの奴の任期延長の書類を持って帰れよ? ま、還元の火祭りも過ぎりゃ、ティンネも町も落ち着くだろう。そこまでだな」
ティンネの劇的な快癒から10日あまり。アラグレンの町もその奇跡がもたらした混乱からやや落ち着きを取り戻し、平穏な日々が再びもたらされるはずだった。
だが、その【神の奇跡】は「劇薬」だった。蜘蛛が巣を張るかのように密やかに。いつの間にかアラグレンの町衆に蔓延った副作用。
『少女の病の元凶は、異端の神がもたらしたもの。その力を媒介する魔の者の所為です』
ティンネを癒やした『黒の神官』は、感謝を口にする町衆に向かいそんな「劇薬」を浴びせたのだ。
神国や使国などにおいて、異能の力を持つ者達は「魔の者」と呼ばれ、殺害の対象にすらなる。ルーニックでは【ドルヴィ】として丁重に扱われていたとしても、異端の力に対する本能的な忌避感までは失われてはいない。「盟約の神々」にすら鷹揚なオガム地方においても、それはある。
目の前で見せつけられた、実体ある【神の奇跡】。
たびたび話題にあがるフェフの【能力者】としての不可思議な力。
コール少年たちを始めとする一部の町衆は、“害のない”フェフの力を目にし、その力に助けられたこともあるが、それは少数に過ぎない。多くの町衆にとってフェフの【ドルヴィ】としての力は“不可思議”なものであり、実体のないものでしかなかった。一方で、アラグレンの全ての人々が直接その経緯を知り実感した“益のある”神官の力は、人々の深層心理に影響を及ぼさざるを得なかった。
コール少年たち、もとより親しかった町衆たちの態度は何一つ変わらない。だが静かに他の町衆に広まったフェフへの忌避感はどこか作為的なものがあったが、止める術を持てなかった。
そんな折り、今度は神殿側から『隊長補佐官同席の元、ドルヴィに面会したい』という打診が兵営に届いたのだ。神殿との応対にたったケーン事務官は、最初は手元で処理して隊長に報告することすらなかったが、それは次第に強さを増す依頼となり、とうとうディングル神殿から第25隊に向けての正式な招待になるに至って、とうとうケーンも隊長への応対を余儀なくされ、兵営までやってきた。
「奴らの魂胆なんぞ、見え透いてる。【力】の差を見せつけて、フェフを貶めて自分たちを誇示したいだけだ。そんなバカバカしい企みに、俺等が付き合う筋合いはねえ」
「では、せめて隊長と補佐官さんだけでも……」
「ああ? もっとバカバカしい。奴らにわざわざ説教してやる気なんぞねえよ! 第一、前の神官みたいな奴はともかく、フサルクにがっちがっちに捉えられている奴らに、俺の言葉なんぞ届かん。届ける気もねえ。それはソーンだって同じだ。俺以上に、奴が【神力者】なんぞと語り合う気はねえだろうよ!」
「――勝手に決めつけないで下さい。必要性がないから、赴かないだけです」
なげやりにケーン事務官との不毛なやり取りを続けていた隊長に、例によって神出鬼没で突然姿を見せたソーン補佐官は、どこまでも平坦な口調で言葉を返した。
「お前なあ……だから、突然現れんなって」
「ケーン事務官。神殿側がフェフ副長だけではなく、私をも指名してきたことには何か理由があるのですか?」
「いえ……特には示されておりません。ただ、どうも補佐官さんはこの隊における重要人物と見なされているようで、隊長はともかくあなたにはどうしてもお目にかかりたいとのことでした」
「――本当に愚かな。力で人の心を縛れるはずがないものを。
ケーン事務官。私もフェフ副長もディングル市には行きません。アラグレンでお膳立てされた会合を持つことも御免被ります。どうしても私に会いたいのならば、自分の手でこの私を捉えなさい、と伝えて下さい」
「…………それ、そのままあちらに告げていいのですか?」
「構いません。礼を尽くす必要もない、我が儘な子どもには十分すぎます」
「おいおい、ソーン。お前、昔に戻ってるぞ?
ケーンよぉ。だから此奴は性格悪いといつも言ってるだろうが。今更驚くなって」
ソーン補佐官の冷厳さは、もっぱら第25隊の皆にだけ向けられていて、多くの町衆や外部に向けては穏やかと言っていい硬質な対応が基本だった。少なくとも前の神官に対してさえ、ここまで横柄な物言いをしたことはない。無関心さながらの表情で淡々と切って捨てる補佐官さんの態度は、温かみの上にある冷厳さに慣れたケーンにとっては物慣れない。年長者が諭し導くような、自分たちに向ける説教めいた態度とは全く異なる、最初から明らかすぎる拒絶の態度。
彼と補佐官さんは、書類上の年齢は同じ。だが、ケーンはそれをそのままには受け取っていない。事務官としては捨て置けない気持ちはあるが、彼の本当の年齢は自分よりも上であることは疑いないと思っている。書類を相手に過ごしてきたケーンだからこそ、書類だけを信じたりはしない。容貌や書類なんかでは誤魔化せない、歴然たる『経験の差』。それは時として隊長よりも強く感じさせられるものだった。
隊長の軽口に、ソーン補佐官は一瞬その蒼穹の瞳を眇めて憎々しげに隊長を見遣ったが、すぐさまいつもの怜悧な無表情に戻った。
「神殿が何を企てようが、私には関係ありません。私は成すべきことを成す。そのための力の行使は厭わない。その覚悟もない愚かさに付き合う必要はない。
ケーン事務官、何も取り繕う必要はありません。そのまま告げてもらって結構です。私からは何もしません」
「――ソーン、お前がどうしようと勝手だがな? 第25隊隊長である俺は、今回何もしない。フェフにも何もさせたくねえ。それは忘れるなよ? ……お前はいつも人に対し、過保護に過ぎる」
「――あなたには言われたくない」
どこかいつもとは異なるソーン補佐官の態度と、力関係の見えない隊長とのやり取り。その危ういまでの緊張感が、ケーン事務官にはやがて来たる変容と還元の季節の前兆に感じられた。
元からその設定だったとはいえ、ティールが使い勝手の良すぎるキャラクターで、ちょっと困る。