壱・ピアノフォルテ〜叙情詩(アリア)・5
聡子と彼女はどんどん仲良くなった。ピアノが大好きな同士で話があったのだ。腕の差はあれど、ピアノを弾くことや、その音を聞くことが大好きなことに変わりない。
聡子は彼女の家に遊びに行くようになった。彼女の家には立派なグランドピアノがあった。
何度も有名なコンクールに優勝している彼女にふさわしい楽器。
「弾いてみる?」
「いいの!?」
「いいよー、当たり前でしょー」
彼女の勧めのままに聡子は大きなピアノに触れてみた。かき鳴らしてみる。
音楽室のピアノとは違う、綺麗な音がした。プロが調律するからなのか、楽器そのものがとても良いからなのか。
おそらくその両方だろう。うっとりするような音色を奏でるピアノ。
ひきつけられるように自分の好きな曲を弾いてみた。信じられないくらいい音が出た。
「うわ、すごいねぇ、このピアノ! いい音ー! 嬉しい」
目を輝かせる聡子に、彼女はブンブンと首を振った。嬉しそうに目を丸くしているのはどうしてなのか。
「違うよ、聡子が上手なんだよー、びっくりした、上手いじゃない! 初めて二年経ってないんでしょ!? すごいよ!!」
「まーたまたー、喜んじゃうよ、そんなお世辞言われたら」
「ほんとだってば!! 本当!! ちょっと待ってて!!」
彼女はなんだか嬉しそうに部屋を出て行った。聡子は少しだけ首をかしげる。彼女が戻ってくるまでピアノに触っていいのかなと思いながら、誘惑には勝てずに曲を奏でた。
音楽室にもしばらく行けなかったから、本物のピアノに触るのは久しぶりだ。家のエレクトーンはまだ捨てられていないが、両親がいないときでないと弾けない。塾が終わる頃には両親は帰ってきているし、休日には父親が寝転んでいる。音楽を奏でるチャンスはほとんどなかった。
嬉しいと思った。弾けることが嬉しい。指が忘れないうちに何度でも弾きたいと思った。
彼女が留学する前に、また来てもいいだろうか。彼女が留学から戻ってきても、またこのピアノを触らせてくれるだろうか。
でも、三ヶ月もしたら指が忘れちゃうかなとも思う。
楽器には触らないと忘れてしまう。演奏は身体が覚えてくれるものだ。
ピアノならば指先。頭で覚えるよりも先に、指が覚えてくれるもの。
もっと触っていたいと思った。でもいつまでもこうしてはいられない。
それはとても悲しい。
あきらめなければいけない夢は悲しいだけだ。
続けたいのに。
続けてはいけない。
弾き終わるころに彼女が戻ってきた。
「ねぇねぇ、あのね聡子、わたしちょっと考えたんだけど」
「なにを?」
ピアノの前の椅子に座ったまま、彼女を見上げると、彼女は嬉しそうにピアノの鍵盤にふれた。
「わたしが向こうに行っている間、このピアノ弾きに来てくれない? できたら二、三日にいっぺんくらいの割合で」
「え」
「三ヶ月も誰も触らないの可哀想じゃん。聡子なら丁寧に扱ってくれるだろうし……あとは、うちの両親もピアノの音がすれば、わたしがいない寂しさもまぎれるかなーっと思って。あ、でも忙しいなら無理だけど……今凄く楽しそうに弾いてくれてたし、聡子がピアノ辞めるのって勿体ないなぁって思っちゃったの」
彼女は聡子がピアノを辞めさせられたことを知っている。今は通いたくもない塾に行かされていることも彼女に話したからだ。
「い、いいの? 触りに来て」
「いいよ。っていうか、ぜひ来て欲しいんだけど。お願い」
両手を拝むように合わせて彼女は聡子に懇願する。願ったりかなったりだった。彼女からの頼みといえば聡子の両親もうるさくは言わないだろう。
「うん! 来る! 絶対来るよ!」
嬉しくてたまらなかった。ピアノが弾ける。練習できる。それならどんなことだって我慢できるだろう。つまらない塾通いも、きっと我慢できる。
「本当にいいの? 高価いピアノでしょ、これ」
「いいって言ってるでしょー。むしろこっちからお願いしてるんだもん。大丈夫?」
「大丈夫! っていうか無理してでも来る」
「あはははは、そこまで言ってくれるのなら安心かなー」
彼女は嬉しそうだった。聡子も嬉しかった。
お互いに、できる限りのことをしようと思う相手に巡り会えた喜びを、知った。
二週間後、彼女は異国の地へ旅立った。
手紙を書いてくれると言った。聡子も返事を書くよと答えた。
三ヵ月後に帰ってきたら、お土産を楽しみにしていてねと彼女は笑っていた。
聡子は彼女にお守り代わりに自分の使っていた楽譜を持たせた。それくらいしか思いつかなかったから。
お小遣いだって少ない中学生だ。精一杯の気持ちだった。
彼女の家の前で彼女を見送って、元気で帰ってきてねと手を振った。
その帰り道。
聡子は事故にあった。
居眠り運転の車が歩道を歩いていた聡子に突っ込んできたのだ。
何が起きたのか分からなかった。
気がついたら聡子の身体は車道に打ち付けられていて、あっという間に意識は薄れて消えていく。
あたし、死ぬのかな。
そんな風に思った。
彼女と約束したのに。彼女のピアノを弾きに行くと約束したのに。
死ぬのかな。ピアノ、弾けると思ったのに。
「頂戴ね」
「約束、したものね」
どこかで聞いた声がして、聡子の意識は闇に堕ちた。
気がついたら、病院だった。
ずきずきと全身が痛む。泣き出したくても出来ないくらい痛かった。
何が起きたのか分からなかったけれど、両親は聡子の顔を見て泣き出した。
どうやら頭を強く打っていて、ずっと意識が戻らなかったらしいと後で聞いた。
ずきずき。痛みが取れない。
全身打撲。幸い骨折はしていない。道路にたたきつけられ、頭を打ったわりには脳にも異常はなく、打撲がもう少し良くなったら退院できるだろうといわれた。
ただ。
足が。
ずきずきと痛む。
「爪……」
聡子は自分の足先を見つめてゾッとする。
指先に巻かれた包帯の下に、爪はない。
車がぶつかってきたとき、聡子の足先をタイヤが踏みつけたらしいと医者は言ったがありえない。
車は聡子の身体を撥ね飛ばしたのだ。宙に浮いた身体のつま先を、どうやってタイヤが轢き潰すのか。大体、つま先を轢かれたのなら指も潰れているはずだ。
なのに足の指には潰れるどころか傷がない。綺麗に全部の爪だけがはがれている。それも両足揃って。
爪で済んで良かったよと医者や両親はホッとしていたが、聡子は身震いした。
意識を失う寸前にした、声。
あれは。
偶然とは思えなかった。幻とも思えなかった。
誰にも言えなかった。
痛むつま先を眺めて、聡子はゾッとするだけだ。
退院したその足で聡子は彼女の家に向かった。アチコチ痛むけれど、彼女とした約束を果たしたかったし、何よりピアノに触れたかった。
彼女の母親が迎えてくれた。事故にあったと聞いていたらしい。大丈夫なのと心配してくれたのが嬉しかった。
大丈夫ですと答えて彼女のピアノを弾いた。
身体は痛むけれども、ピアノに触っている間はそれすら忘れられた。
やっぱり楽しい。辞めたくなかった。それだけは思う……。
彼女が強盗事件に巻き込まれたと聞いたのは、その数日後だった。
「どうして」
何で彼女が。どうして彼女が。
だって彼女は何も悪いことなどしていないのに。
ただ夢をかなえるために異国の地まで行って、夢のために頑張っていたのに。
誰よりも誰よりも頑張っていたのに。
あまりにもひどいではないか!
聡子は泣いた。
彼女の演奏がとても好きで、彼女と一緒にピアニストになりたかった。
聡子は泣いた。大好きな彼女に何の言葉もかけてあげることが出来ずに、遠い場所で、泣いた。
***
「約束、したからね」
「頂戴ね」
***
「聡子」
声をかけられ、聡子は振り向いた。
「緊張してる?」
「してるよ。しないわけないでしょ」
初めてのコンサートだ。
ピアニストになりたいと願い続けて、その夢はかなった。
中学生のとき、あの『事件』から聡子はあきらめることを止めたのだ。
まず両親とぶつかった。もっとピアノを続けたいと。やりたいことがあるからさせてくれと。
そのかわり死に物狂いで努力した。勉強して成績を上げ、両親を納得させた。本当に聡子がやりたいことなのだと、両親は納得してくれて応援してくれるようになった。
高校に上がるころには、演奏技術も飛躍的に上達していた。
いい先生がついてくれたからだ。
「夢、かなったね」
「そうだね、かなったよ」
顔を見合わせて笑う。
聡子の笑顔は彼女には見えていないけれど。
それでも彼女は笑っている。今日は彼女のコンサートでもあるのだ。
プロピアニスト同士の、合同コンサート。
聡子と彼女のコンサートだ。
「足、大丈夫?」
「うん、平気。そっちこそ、大丈夫?」
「もう慣れたよ。見えなくなって十年以上経つしね」
彼女は楽しそうに言う。彼女の両目には眼球がない。まぶたは閉じられたまま。
聡子の両足の爪がないように。
「ほんと、無茶」
聡子があきれて言うと、彼女は唇を尖らせた。
「なによぅ。爪あげた人に言われたくないぞー」
「あたしは爪だもん。目は見えるもん。だいたいね、目をあげるなんて言う? ピアニスト目指してる人が」
「思いつかなかったんだよー。言っちゃったもんはしょうがないでしょ」
「あんたそういうところあるよね。昔から」
昔から。その単語に聡子と彼女は吹き出した。
中学生のとき、彼女は強盗事件にあい、割れたガラスで両目に重傷を負った。
中学生のとき、聡子は交通事故にあい、車に轢かれて両足の爪を失った。
彼女の両目は戻らない。
聡子の足の爪が生えてくることもない。
両目は閉じられ、足先はいつも包帯で隠されている。
痛みはもう、どちらにもないのだけれど。
「ほんと、馬鹿だよねー」
「ほんとにね、お互いにねー」
お互いがプロのピアニストになってから、どちらもあの双子に会っていたことを知った。
聡子は足の爪を、彼女は両目を。
双子にあげてしまったのだと、知った。
願いごとは同じ。
『彼女と一緒にピアニストになりたい』
馬鹿みたいな願い事。お互いにお互いを認め合い、だからこそ馬鹿みたいに自分の身体の一部を差し出して。
視力を失った彼女を支えたのは聡子だった。ピアノを辞めさせられた聡子を支えたのは彼女だった。
ここまで二人で歩いてきた。
二人だから、歩いて来れた。
これからも二人で歩いていく。仲睦まじく手を繋いでいた、あの日出会った双子のように。
あの双子は、二人にそれを教えてくれたように思う。
「あのさ、がんばったよね」
「うん、がんばったよ」
「これからも、がんばろうね」
「うん、がんばろうね」
笑いあって、二人は握手した。
絡み合うように演奏が始まる。
二人だけのアリア。
中学生の頃からの親友同士。片方は足が不自由で、片方は目が不自由で、でもお互いに支えあって夢をかなえた二人の女性。
夢をかなえた彼女たちへ拍手が響く。
その友情を、腕前を。
讃える拍手が、鳴り響く――。
第一章が終了しました。聡子が得たもの、失ったもの。幸いなのかもしれない、彼女らでした。