四・バースディ〜聖譚曲(オラトリオ)・4
「痛い」
目を開けた瞬間の彼女の第一声がそれだった。
泣き出しそうな家族の顔がある。一人暮らしをはじめてから、実家にはなかなか帰れなくてしばらく会っていなかった家族。
聞くとけっこう彼女は危険な状態だったらしい。意識不明が二日間続いて、死者がもう一人増えるかどうかの瀬戸際だったようだ。
犯人は事件の直後に取り押さえられた。死者は三人。重傷者は彼女を入れて二人。
もう一人の怪我人は彼女ほど重い怪我ではなかったようだが、軽い怪我でもない。
助かって良かったという家族に、生きてて良かったと笑いかけ、それから彼女ははたと思い出した。
「あ、大丈夫かな、生ゴミ」
同時に思い出したのは彼のこと。鍵を持っているから大丈夫だろう。帰ってきて家の中を見て、多分彼がまず真っ先にやるのは洗濯。ついでにゴミ出ししてくれないかなぁと思う。
ついていてくれた母親が、お母さんがやっとくからと言ってくれたが、彼女は笑った。
「いいよ、やってくれる人いるから」
母親は目を丸くした。恋人でもできたのかと思ったらしい。
そんなイイ人ができたのなら紹介しなさいと目の色を変えた。
「いや、そんなんじゃないよ? えーっと、拾ったの。命名・バイオレンストロピカーナエクセレントボンバーマン……だったっけなぁ」
なによそれ。恋人をそんな風に呼んでいるのかと母親はあきれている。
「いや、家出少年をね、拾ったのよ。で、同居してるんだけど、恋人とかソウイウコトは全くなくて、同居。同棲じゃなくて、同居」
母親は無言になった。不可解なものを見るような目で彼女を見、それから彼女の額をぺちんと叩いた。
犬猫じゃないのよ、何でもかんでも拾わないのっ! と、怒られた。さすが彼女の母親だけあって、怒る視点が少し違うような気がする。
「あっはっはっは、いたたた、うー、傷痛い。そういうわけで、うちの中に変な少年がいても通報しないでねー、バイオレンストロピカーナエクセレントボンバーマンって言えばおとなしくなるから」
娘の奇行に慣れている母親は、律儀に名前をメモし、覚えるように呟いていた。
「追い出したりしないでねー? 彼、行くとこなくなっちゃうからさぁ」
ケラケラ笑って、彼女は言う。
「それから、見舞いに来ないと暴れるぞって言ってやって。おねえさんはいつものケーキが食べたいなぁって」
家で待つ彼が、孤独な思いをしないように。
「ビールはきらしたらいかんと、心から思った」
しかめっ面で、彼は言う。
「うん、それはあたしも思った。次からはちゃんと買っておいてねー」
「おれがかっ! 自分で買えよ社会人!!」
ちっこい花束を持って彼が訪れたのは彼女が病院に運ばれてから四日目。
彼が戻ってきて二日目のことだった。
「つか、あんたの母さんも変だ。会うなり娘をよろしくとか頭下げてこられたぞ」
部屋に戻ってそこにいた母親に、真っ先に、あなたがバイオレンストロピカーナエクセレントボンバーマンさんね? とか言われて目を丸くしたのは本当の話だ。それで彼女の母親だとすぐに理解できたのだが。
「ははは、アンタあたしの恋人と思われてるからねー」
「うっそ!? 何で否定しないんだよっ!」
「したよ。したとも。ただの同居人と何度言っても信じてくれなかったのさ、ふふふ」
「……親にも信用されてないのかあんたの言動は……つか不名誉だ、なんとしてでもそのイメージを払拭してやる!」
「わはは、がんばれー」
「あんたもやるんだっ!」
彼女は変わらず笑っている。彼は変わらずツッコミを入れてくる。
ひととおり笑ってから、彼女は彼の顔を見た。目の回りにくっきりとアザがある。頬は腫れているようだった。
「男前になったねぇ、派手にやったっぽいけど?」
「んー、まぁね。なかなか家から出してもらえなくなったから、話し合ったんだけど聞いてもらえなくて、殴られた」
もう一度家から出ることを、彼が悪い女性に騙されていると思い込んでいる家族は納得しなかった。最初は話し合った。長い時間話したけれど理解してくれることは無く、そのうち興奮してきた父に殴られた。勘当を言い渡されたのだ。
そんな女にトチ狂った息子などもう知らんと。最初から最後まで彼の話を聞こうとはしない家族だった。
「ま、そのうちなんとかするさ。ちゃんと生きて、いばって帰れるようになってから、親父の頬殴り返しに戻ってやる」
「おお、男らしい。かぁっこいいじゃーん」
茶化すように言うが、彼女は本気で言っている。知っている彼はそっぽを向いた。くすぐったいのだ。
「うっさい。いいからおとなしく寝てろよ。悪化しても知らないぞ」
彼が照れているのを感じ取って、彼女は微笑む。
「あ、そーだ。生ゴミ出してくれた?」
「そうだ! あんたなぁ、ゴミはちゃんと忘れず出せって帰る前に言っておいただろっ! なんだあの台所の隅に隠すように置いてあった袋はっ!?」
「生ゴミ」
「開き直るなっ!!」
「生ゴミ」
「可愛らしく言ってもゴミはゴミだっ! むしろあんたがキモいわっ!」
「ひどっ! ケーキ持っても来てくれない薄情男に言われたー」
「まだ禁食だろうがっ! 花束持ってきてやったことに感謝しろっ!」
「えー、小さいじゃん花束」
「……次はケーキにしてやるよ、アホ女」
当たり前のようなやり取りに、どれだけホッとしたか彼は知らない。
当たり前のようなやり取りに、どれだけホッとしたか彼女は知らない。
帰ってきた。
帰ってこれた。
生きている。
生きていてくれた。
また、話せる。
恋人じゃなくても、友人じゃなくても、一緒に住んで、生きていける……。
いつか出て行くかもしれない。出て行かないかもしれない。いつまでもこのままいることはないかもしれないし、いつまでもこのまま一緒にいるかもしれない。
「そのうち結婚でもするかー? 少年よ」
「ごめんこうむるっ! 断固拒否! 絶対イヤだ!」
「冗談ですわよ? 何をそこまで顔真っ赤にして否定するわけー?」
「質の悪い冗談を言うなアホ女っ!」
ゲラゲラ笑う彼女。しかめっ面で、でもどこか楽しそうな彼。
退院の日、彼は彼女の荷物を持って、一緒に歩いている。
二人はぼろっちいアパートの、あの部屋に帰る道を歩いている。
ふと、彼は口を開いた。
「……あのさ」
「なーに?」
「身体の要らないところをあげたら望みがかなうって言われたら、あんたはどうする? やるか?」
「なにそれ?」
「いいから」
彼女は彼に視線を向けたが、彼が真顔で訊いているのを見て取って、真剣に考えた。
「どこでもいいの?」
「いい。とにかく、要らないところくれって言われたら」
「何でもかなうの?」
「……望むカタチとは限らないけど、かなうって言われたら」
それは彼があの双子に言われたことだ。彼女に双子のことは話していない。多分彼女は信じてくれるだろうが、話さなくてもいいと思った。
「うーん、そもそも要らないところがないからなぁ。言われても困るなぁ。望みって言っても 自分の身体差し出してかなう望みなんてタカが知れてそう」
唸りながら彼女は考え、言い切った。
「あげない。頼まない。自分でなんとかする」
にまりと笑い、軽やかに言い切る。
「そっか」
彼も笑った。彼女ならなんとなくそう言うだろうと思った。
だから、あの時。
『どこも必要だから、あげられない。彼女は死なないと信じる。おれはあの部屋に帰る。自分の力で家族を説得して、自分の意思で帰るから』
彼は双子の誘いを断った。自分の身体のどこかと引き換えにして彼女が助かり、あの部屋に戻ることが出来ても、それはきっと何かが違うと感じたから。
自分の力で、自分の意思で、彼女が戻るのをあの部屋で待とうと思った。
どんな結果であろうとも、自分の選んだことだから。
どこか満足そうに頷く彼に、彼女は思う。
ああ、あの子達に会ったんだと。
同じことを言われたことがある。それは彼に出会う直前のことだった。
『要らないところはない?』
手を繋いだ同じ顔の双子。にこやかに、無表情に。
彼女は答えた。
『あたしの身体は全部必要なところなの。要らないところなんてないよ?』
望みはあった。恋人が欲しいとか、結婚したいとか、もっと楽しい仕事がしたいとか。
でも、それは人にかなえてもらうものではないし、自分でなんとかしようと思えばできる類のものだ。だから彼女は胸を張って答えた。
『あたしの身体は必要なものなの』
彼女自身にとって彼女の身体は必要なものだから。
双子は顔を見合わせて、残念そうにそのまま雑踏に消えていった。
ちょっと後悔したときだ。道端にへたり込んでいる少年に気がついたのは。
気力なく道に座り込む彼に、誰も目を向けようとしなかった。
彼女は彼に声をかけた。寂しかったとか悔しかったとか、そんなことも考えてなかった。
理由はない。本当にない。
だから彼をどうして拾ったのかも分からない。
どうして今も一緒にいるのか分からない。
でも、別にいやじゃない。
そんな他人同士。
恋人とも友人とも違うけれど、他人じゃない他人。
そんな関係の、二人。
「ケーキ買ってくれたー?」
「買ったよ。ビールもあるよ」
「肉はー?」
「肉ぅ? 今言うなよ、前の日に言っとけよ」
「カルビー、骨付きソーセージー、牛ー、豚ー、ホルモンー」
「給料日前のバイトに多くを望みすぎだっ!」
社会人なんだから自分で買え。そう叫ぶ彼に彼女は笑う。
「いいじゃん、生還してきたおねえさんの新しい誕生日をお祝いしなさい」
「命令形だよこの女……」
「お誕生日おめでとうあたしー。ついでにアンタ」
「なんでおれもだ」
「ついで」
笑いながら、彼女は思う。
誕生日おめでとう。あたしと彼。
あたしは生きて帰ったことを。
彼はこれからの道を自分で見つけたことを。
だから。
「ハッピーバースディっ」
この出会いに、祝福を。
恋人でもなく、ひょっとしたら友人でもないこの関係に、感謝しよう。