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組曲〜移し身の双子〜  作者: マオ
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壱・ピアノフォルテ〜叙情詩(アリア)・1

 ピン!

 甲高い音がひとつ、音楽室に満ちる。

 大きなグランドピアノ。その前の椅子に座るのは少女だ。やぼったい制服の胸元のネームは(たちばな)とある。彼女の名前は橘聡子(さとこ)といった。

 ピン!

 また、高い音。

 少女の指がピアノの鍵盤をたたく。何か曲を奏でるわけでもない。

 ただ、弾くように強く鍵盤を押しているだけだ。

 彼女の頭の中には、こだまする声。

 ピン!

『辞めてしまいなさい、いつまで経っても上手くならないんだから!』

『どうして分からないの? お母さんはあなたのためを思って言っているのよ』

 甲高い声が、少女の中にこだましている。

 ピン!

 同じ音を何度も何度も彼女は繰り返す。頭の中の声を振り払うように、何度も。

 ピン!

 辞めたくない。続けたい。

 彼女には夢があった。どうしてもかなえたい夢があった。願うことがあった。貫きたいことがあった。

 プロのピアニストになって、世界的なオーケストラに加わりたいという、夢があった。

でも。

『才能なんか一握りの人にしかないのよ。聡子、あなたにはピアノの才能なんてないの。趣味くらいにしておくのよ。分かりなさい。ほかのことを探せば良いじゃないの!』

 母親は認めてくれなかった。

 ピン!

 聡子の家にはピアノはない。小さな中古のエレクトーンがあるだけで、ピアノはなかった。本物に触っていないと腕が落ちるとピアノの先生は言い、聡子は両親にねだったが、ごく普通のマンション暮らしの家庭にピアノを買う余裕はなく、結局学校の音楽室のピアノに毎日触らせてもらうしかなかった。ピアノに触りたくて音楽担当の先生に頼み込んで、何とか放課後に触らせてもらえることになったときはとても嬉しかった。

 飽きずに弾いていた。雨の日も風の日も台風の日も、ずっとずっと弾いていた。

 弾けば弾くほど上手くなるものだと思っていた。

 でも。

 ピン!

 ある日、転校してきた彼女に出会った。彼女は小さい頃からピアノを習っていて、専門の教師までついているような天才的な腕前の少女だった。

 幼い頃からずっとピアノに触っているという彼女は、聡子よりもずっと上手だった。

 聡子がピアノに触ったのは中学に入ってからだ。まだ二年に満たない。楽譜も読めなかった頃から考えたら凄い進歩だと自分では思っていたけれど。

 全然足りなかったと、彼女の演奏を見て思い知った。何か行事があるごとに彼女はピアノ演奏に借り出された。どこの誰が聞いても感心するような腕前だった。

 聡子とは違う。彼女は音楽系専門の高校への進学がすでに決まっている。もう少ししたら三ヶ月の短期留学に出るとも言っていた。彼女はプロのピアニストになることがすでに決まっているのだろう。小さい頃から、決定しているのだ。

 聡子とは、違う。

 ピン!

 ピアニストになりたいと思ったきっかけは、テレビで見たオーケストラの放送だった。

 ピン!

 小さなテレビ越しで、本物の音ではないけれど、それでも感動したから、あんなふうになりたいと思った。

 一心不乱に音の洪水に酔いしれた。きっと本物の音はもっと凄いと思った。一度でいいから聞いてみたいと親にねだったけれども、オーケストラのチケットは中学生の聡子にはそう簡単に手が出ないくらいの金額で、お年玉を貯めて連れて行ってもらう約束はしたけれど、親には連れて行く気がないようだった。


 ――彼女の演奏を聞いてしまったからだ。


 聡子が行っているピアノ教室の発表会に、彼女が呼ばれたことが、そもそもの発端だった。

 彼女は練習生ではなく、招待客だった。練習生が発表を終えた後、招待されていた彼女が演奏した。

 明らかにほかの子供とは違う、音。

 同じ楽器を使っていても、これほど差が出るのかと思うような、圧倒的な音。

 技術の差は歴然としていた。

 年は同じ。体格も似ている。

 でも、ピアノに触っていた時間が違う。才能が違う。何もかもが違う。

 彼女の演奏を聞いて、きっと誰もがそう思っただろう。

 彼女は天才だ。まごうことなく天才だ。

 遅かった。聡子は思った。

 自分に才能がないのではなく、彼女よりピアノに触れるのが遅かったから、ここまで差がついているのだと。

『あの子、すごいわねぇ』

 見に来ていた母親がうっとりと呟くのを聞いていた。聡子の演奏などうるさいとしか思っていなかった母親が、彼女の演奏にはうっとりと聞き入っている。

 でも母親を責めることはできなかった。聡子もまた彼女の演奏に聞き入っていたからだ。

 ピン!

 それから母親の態度は一変した。

『辞めなさい。聡子には才能がないわ』

 月謝を払うのがイヤなのだろうか。いつまで経っても進歩が見られないように思える我が娘と、天才的な腕前の彼女を比べてしまったのだ。

 比べていいわけがない。彼女と聡子とではピアノにかけた時間が違う。

 同じくらいの時間をかければ、聡子だって彼女と同じくらいに上手になれる。

 そのはずなのに、母親は辞めろといった。

 父親も辞めたほうがいいんじゃないかと言い出した。

『うちはマンションだ。楽器の音がうるさいと言われたらどうする?』

 ヘッドホンをして弾いているといっても、聞いてはもらえなかった。

 鍵盤を押す音がうるさいというのだから、聡子にはどうしようもない。曲を奏でることすら、許されないのだ。

 ピン。

 へにゃりと、指が曲がった。

 辞めたくないのに。

 認めてもらえない。

 才能がないなんてどうして分かるの。音感がないなんてどうして言えるの。

 がんばれば何とかなるかもしれないのに。

 あたしはがんばっているのに、誰もそれを認めてくれない。

 ほかのことを探せと言われたけど、どうしてこれじゃダメなんだろう。

 がんばっているのに。

 あたしのこれは、努力じゃないの?

 聡子はゆっくりと鍵盤を叩き始めた。

 二年近く習ったことで指は滑らかに動くようになったと思う。そりゃ彼女に比べたら大人と子供くらいの差にはなる。

 でも、二年でここまで上手くなったのは、間違いなく聡子の努力だ。

 最初の頃には重たかった鍵盤も、指や腕に力がついた今では重く感じない。

 弾くのは楽しい。弾くのは嬉しい。

 上手になっていると思ったらとても幸せな気分になったのに。

 どうしてもダメなんだろう。

 なんでなのかな。あたし一生懸命がんばっているのに。

 辞めたくない。

『今月いっぱいで、辞めなさい』

 でも決められてしまった。辞めなきゃならなくなってしまった。

 聡子の意思は無視して、親が決めてしまった。聡子がピアノを習いたいと言い出したときにはあれほど喜んでいた母親が、真っ先に聡子の才能を否定した。

 悔しい。

 あの時彼女の演奏を聞かなければ、母親の態度は変わらなかったかもしれない。もっと聡子が早くピアノを始めていれば、また違った意見だったかもしれない。

 でも、もう遅い。

 バァン!!

 聡子はたたきつけるようにして演奏を終わらせた。来月の発表会の課題曲を練習する必要はなくなってしまった。

 今月いっぱいで聡子は辞めてしまうのだから。

 暗い瞳で楽譜を眺める。たくさん練習したのに、もう出来ない。エレクトーンも捨ててしまうと父親は言ったのだ。ピアノに触るチャンスは放課後だけ。

 それもこれからは無理だろう。受験に向けて塾に行かなくてはならなくなった。ピアノにばかり情熱を向けていた聡子の学業成績は、はっきり言って良くない。

 両親はそれを心配して勝手に塾を決めてしまった。

 ピアノを辞めて浮いた分の月謝を数学塾に回したらしい。

 部活も辞めろと言われた。成績が悪いのだから勉強しなさいと。

 夢をかなえることは出来なくなった。

 聡子は息をついて楽譜を撫でた。これだけは捨てないでおこう。時間が出来たらなるべくピアノに触りに来よう。

 今は無理でも、大人になってから何とかなるかもしれない。

 今は無理でも、親元を離れたら夢をかなえるチャンスが来るかもしれない。

 あきらめたくないから。

 泣き出しそうな顔で聡子は楽譜を撫でて、それからピアノのふたを下ろした。


「要らないところはない?」


 声がしたのはそのときだった。


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