四・バースディ〜聖譚曲(オラトリオ)・3
彼が帰って一日目。
この部屋の中って広かったんだなぁと彼女は思った。一人減っただけでずいぶんとがらんとした感じがする。この一年で増えた彼の荷物はそのままで、物が減ったわけではないのだけれど、それでも、広い。そう思う。
「うーん、意外」
呟いて部屋を見渡した。彼はいない。部屋の中には彼女だけだ。
まぁ、帰ってくるとか言っていたから帰ってくるつもりなのかもしれない。休暇は三日。四日目の朝には彼はこの部屋に戻っているかもしれないし、戻ってこないかもしれない。どうするかは、彼の自由だ。
おそるおそる訊いてきた彼。帰る決断をするには勇気がいっただろう。どうして彼が家を出てきたのか彼女は知らない。知る気もなかった。拾ってきた理由すら分からないのに、そこまでの事情まで首を突っ込む気もない。
あー、洗濯係がいなくなったなぁ。そんなことを考えた。三日間一人でご飯食べるのか、一人分って実は不経済なんだよね。そんなことも考えた。
広く感じる部屋を眺めて、彼女はいつものように仕事に出た。
晩ご飯はしばらくコンビニ弁当かな。そんなことを考えて。
彼が戻ってくることを、恋人でもない彼女は疑っていなかった。
久しぶりに帰った家で、家族は目を見開いて彼を出迎えた。
一年音沙汰の無かった彼を、父親は叱らなかった。母親も叱らなかった。
ただ、心配していたのだと言った。
どこで何をしていたのかすら、訊かなかった。無事でいてくれて嬉しいとだけ言った。
弟は馬鹿と叫んだ。目が真っ赤だった。
心配されていたのだと知った。
「バイトしてるんだ。休み取っただけだから、三日したら戻る」
そう言うと、母親に泣かれた。帰ってきたと思ったのにまた行ってしまうのは止めてと。
息が苦しいと思った。血の繋がった家族だけれど、まぎれもなく家族なのだけれど。
辞めて帰ってきなさいと父が言う。学校はどうするんだと言われる。
息が出来ない。
家ってこんな場所だったのかなと、思い返した。どこにいても息苦しくて、それが自分の部屋でも息苦しかった。
初めて息が出来たのは、どこだっただろう。
家に戻ってきて二日目。ぼんやりと思った。
此処に居たくないな、と。
馬鹿みたいな変な女の家に戻って、アホみたいな会話がしたい。
そんなことを考えた三日目。もう彼女の部屋に帰ろうかと思っていた日。
朝のテレビを見て、彼は愕然とする。
にぎやかしのワイドショー。どこを見ても似たような番組で、ヒマな主婦しか見ないような朝番組。何とはなしにつけていた番組で、耳慣れた名前を聞いた。
――彼女。
刺された。意識不明の重体。通り魔。犠牲者は五人。夜中。出歩いた。三人死亡。血の染みた地面。残りのひとりが重傷。
ああそうだ、そう言えば冷蔵庫のビールがきれていた。もうあと二本しかなかった。一晩一本。ここに来て三日目。昨日でビールはなくなっただろう。気がついて彼女は買いに行ったのだろう。
いつもなら、夜間は彼も一緒に行った。最近物騒だからねと、彼女は面倒だと渋る彼を無理矢理連れて行った。それ以外なら彼がバイトの帰りに買って帰った。
一日一本。アルコールで太るからと彼女は決してそれ以上飲もうとしなかった。
何で買っておかなかったのだろう。あと二本。無くなると分かっていたのに。
何で我慢しなかったんだ。明日、いや、今日の夕方には彼はあの部屋に帰ったのに。
何で昼に行かなかったんだ。昼間なら、怪我なんて、襲われることなんてなかったんじゃないか。
彼は電話に飛びついた。どこに何を訊けばいい? 事件のこと、彼女のこと、彼女が運ばれた病院のこと、彼女の容態、怪我。
彼は彼女の身内でもなんでもないのに。
恋人でもないのに。友人ですらないかもしれないのに。
どうしたのと母親が声をかけてきた。テレビ画面を見て真っ青になった彼を見て心配になったのだろう。
知り合いが。
刺された。
世話になった女性が。
途切れ途切れに言うと、母親も青くなった。どういうこと、どんな知り合い?
何かおかしなことを想像したのかもしれない。
わぁわぁ母親はわめいた。家出した息子が変な女性にたぶらかされていたのだと心配している。
そんな関係じゃない。彼女とはそんな風になろうと思ったこともない。想像したことさえなかった。でも、いくら言っても信じてもらえなかった。
妙齢の女性との同居で、何も無かったなどというのはそんなに信じられない話なのだろうか。
だって本当に何も無かった。そんな気もなかった。
ぐだぐだ話して、一緒にご飯を食べて、違う場所で寝て、時には朝までくだらない話で盛り上がったりしていただけだ。
それがどれだけ彼にとって必要な時間だったかなんて、考える必要もないくらいに大事な時間と空間。
それをくれたヘンジンな彼女。
死ぬかもしれない。
死ぬかもしれない。
今彼があの部屋に行っても、彼女はいないのだ。
今後彼があの部屋に戻っても、彼女は戻らないかもしれないのだ。
ザワリと血が引いた。何もかもがなくなる気がする……。
あたし、死ぬかも。
刺されて地面に倒れこんだ彼女は思った。ものすごい勢いで血が出ている。生まれてこのかた見たことがない勢いだ。
なんつーか、死ぬかも。
暗くなる視界に、ふと、彼のことを思った。
あー、鍵持ってるから大丈夫だよねぇ。でも生ゴミ出してないって怒られるかな。結構細かいから、あいつ。あ、あたしいなくなったら住むとこ無くなるじゃん。あの部屋の家主あたしなんだから。まずいなぁ、男と同居してたなんて知れたら、うちの親大喜びするじゃん。同棲じゃないよー、そういう関係じゃないよー。
うう、彼上手く言い訳してくれるかなぁ。
眠気のような感覚に抗えず、目を閉じながら彼女は思った。
ああ、明日晴れたら彼の布団干してやろうと思ったのになぁ。
ふかふかの布団をありがたく思えと、笑ってやろうと思ったのになぁ……。
自分の部屋で、彼はぼんやりとベッドに座り込んでいた。アチコチの病院に電話をして、彼女の容態を確かめようとしたが、母親に邪魔された。
探しようもなかった。身内じゃない。恋人じゃない。彼が彼女を探す理由が、他人には分からない。彼女を心配する理由が他人には不可解だ。
あの部屋の鍵が彼の手の中には在る。
彼女の部屋。預金通帳とかも無造作に置いてあって、ちょっと考えろと注意したらアンタ持ってくのー? と、またも無造作に訊かれた。あんまり金額入ってないよ、ビンボーだから、とも笑っていた。
彼女はアホだ。とんでもないアホでヘンジンで手がつけられないくらいに。
大体、高校生男子に説教される成人女性なんて頼りないにもほどがある。
家出少年を連れ帰って、包容力があると思わせといて無い。何で連れて帰ったんだろうなんて首をひねる女。
「あほだろ、あんた」
鍵を見下ろして、彼は呟く。
「死ぬなよ……おれ、帰れないだろ」
あの部屋に帰りたい。あの部屋で彼女とまた話したい。当たり前のように、過ごしたい。
それを願うのはおかしいのだろうか。
「要らないところはない?」
声が届いた。彼しかいないはずの、彼の部屋で、女の子の声がする。
彼は顔を上げ、見た。
可愛らしい少女がふたり、ドアの前に立っている。
同じ顔で、一人は笑い、一人は無表情に、立っている。固く手を繋いで。
「要らない部分でいいの」
「貴方の身体で、要らないところはない?」
同じ顔、同じ声、表情だけが違う女の子が、彼に訊く。
どこから入ってきたのだろう。下の階には母親と弟がいて、彼が脱走するのではないかと怯えている。逃がすものかと構えている。
「わたし、音亜」
にこやかに、少女が笑う。
「こっちは優亜。おねえちゃんなの」
双子、だ。
無表情に、優亜が言う。
「お礼はするよ。だから要らないところがあるのなら、頂戴」
「貴方の望むものをあげるよ。だから頂戴」
身体の要らない部分をくれと、双子は言う。
「望み……かなうのか?」
彼は手の中の鍵を握り締めた。誰でもいい、なんでもいい。彼女が死なないのなら、あの部屋にもう一度戻れるのなら。
「かなうよ。それが貴方の望むカタチとは限らないけれど、かなうよ」
その言葉に、彼は戸惑った。どんなカタチか分からないのに、答えてしまっていいものだろうか。
「……身体って、どうやって持っていくんだ?」
ひょっとしてこの少女たちも通り魔なのだろうか。彼はここで殺されるのかもしれない。
「いろいろ」
優亜は無感情に言い放つ。そのひとことで全て説明したとでも言いたげに、双子は口をつぐんだ。それ以上は聞けないと感じて、彼は違う疑問を口にする。
「……何に使うんだ? どうする気なんだ?」
「造るの」
「わたしたちを」
にこやかに、無表情に、双子は言う。
「……なんで?」
意味が分からなかった。造るという言葉。しかも双子は自分たちを造ると言うのだ。
いぶかしむ彼に、双子は声を揃えて答える。
「「手を離したら死んじゃうから」」
「え……」
繋がれた細い手指。決して離れてはいけないとでもいうように。
「死んじゃうの」
にこやかに、音亜が言う。
「わたしか、音亜が死んじゃうの」
無表情に優亜が言う。手を離せば自分か妹かどちらかが死ぬと。
「な、なんで?」
そんな話があるのか。手を離したら死んでしまうなどとは。
「分からない。手を離したことがないから」
なのに手を離したらどちらかが死ぬと双子は言う。確信している声だった。離してしまえば比喩でなく、二人のうちのどちらかが死ぬのだと。
「だから、死なないわたしたちを造るの」
そのために、他人の身体を集めていると。
「どうやって……造るんだ?」
「さぁ?」
優亜が首をかしげた。
「でも、造るよ」
さも当然というように、それが常識とでもいうように。
「だから、要らないところがあるのなら、頂戴」
繋いだ手を離したら死んでしまう姉妹のために、彼女たちは他人の身体をつなぎ合わせて死なない身体を造るという。男女関係なく、ひょっとしたら老若も関係ないのかもしれない。ひとえに、死んでしまうかもしれない姉妹のために。
そんなことがあるのか、ありえるのか。
「なんで、死ぬんだ? 手を離しただけで死ぬのか」
「うん」
「死んじゃうの」
理由が分からない。そう思う何かが彼女たちにはあるのか。
手を離したら生きていけない、二人。
「わたしが死ぬのはいいけど、音亜が死ぬのはいやなの」
「わたしが死ぬのはいいけど、おねえちゃんが死ぬのはいやなの」
死んでしまうどちらかのために、死なないで欲しいと願う、もう片方。
彼女らは声を揃えて彼に言う。
「「だから、要らないところがあるのなら、頂戴」」
私の姉妹を死なせないために。
一体この双子は何なのだろう。人ではないのかもしれない。いや、きっと人間ではないのだ。手を離せばどちらかが死んでしまう双子。
彼は思う。
そんなこともあるのかもしれない。彼女のところでないと息が出来ない彼のように。
彼女が死んだら彼も息が出来なくなっていずれ死ぬだろう。身体でなく、心が先に死ぬだろう。自由に息が出来る空間を知ってしまった彼は、彼女のところに戻る意外に生きる希望がない。生きていこうという気持ちがない。起こらない。
「助けることできるのか? おれ、もう一度あの部屋に戻れるのか? 一緒に、暮らせるのか?」
恋人じゃない。でも大事な人。
友人ともいえない。でも大切な人。
あの日偶然会って、それから惰性のように一緒に暮らしているだけの、人。
強く握り締めた手の中の鍵の感触が痛い。
彼女の部屋。居候している彼。
あの部屋で初めて、心から笑うことを知ったように思う。
あの部屋で初めて、息が出来たように思う。
彼女が、いたから。
手の中の鍵。二度と使えないかもしれない物。
いつもの明るい彼女の笑い声がしたような気がする。その瞬間に決心はついた。
彼は顔を上げ、双子を見た……。