参・ホスピタル〜夜想曲(ノクターン)・2
「あはは、お化けじゃないよ。わたしもここの五階に入院してるの。おにいさんも入院してるんでしょ? 足、痛そう」
ギプスに包まれた足に視線を移して、少女は言う。
「え、あ、いや、まぁ、痛いけど……痛くないよ」
自分でも何を言っているのかよく分からない。相当あわてている。
「折れちゃったの?」
「あー、スキーでね。うっかり転んで、ポッキリ」
「大変そうだね、松葉杖」
「慣れてないからね、さっきも転びそうになったし」
何でこんな話をしているのだろう。しかもうす暗い院内で、知らない少女と。
幽霊みたいに生気ない少女。
そういえばこの少女こそ何をしているのだろう。
「え、っと、何してるのかな、君は? 消灯時間過ぎてるよね?」
うっかり看護師に密告でもされたら大変である。あとで怒られること間違いない。早くこの少女をやり過ごして脱走したかった。
「ジュース買いに来たの」
少女はあっさりと答えた。手には小銭入れらしい可愛い犬の絵柄が見えている。
言われてみればこの階には自販機があるはずだ。飲み物を買いに来た入院患者とたまたま会っただけのことで、不思議は何もない。
勘違いして硬直した自分が馬鹿みたいである。
「おにいさんは?」
あどけない視線が見上げてくる。咄嗟に答えた。
「う、いやいや、おれもジュース買いに来たんだ」
「あっち、自販機ないよ?」
示された方向にあるのは正面玄関だけである。
「迷っちゃったの?」
「……うん」
もう、こう言うしかないだろう。
「こっちだよ」
少女は和人の松葉杖をツンツンとつついた。ふわりと反転して道案内をしてくれるつもりのようだ。仕方なく、ついていった。看護師に密告されるよりはマシだろう。
少女はどうやら和人よりもずっと院内のことに詳しいようで、足取りには迷いがない。入院して長いのかもしれない。
「おにいさん、なんだか変な方向に歩いて行くからどうしたのかなと思ったの。気分でも悪いのかと思ったんだけど、道に迷っちゃってたんだね」
ふらふらと歩いている和人を心配して声をかけてくれたらしい。なかなかにいい子である。
後ろをついていって、自販機が設置されている一画にまでたどり着いてしまった。仕方なくスポーツドリンクを一本買う。
慣れない松葉杖で歩き回って少し疲れたので、一度休憩することにした。その辺の椅子に座ると、何故だかオレンジジュースを買った少女も隣に座ってくる。
ジュースを買ったらそれでもうこの子は自分の病室に戻ると思ったのだが。
「戻らないのかい?」
「おにいさん、また迷っちゃわない? 平気?」
どうやら、和人を心配してくれているようだ。迂闊に道に迷ったなどと言ってしまったことを少し後悔した和人である。いい子なのだが、脱走してラーメン食おうとしている身としては、ちょっとうっとおしい。
「いや、もう大丈夫だよ。道分かったし」
「そう?」
小首をかしげる様子は、可愛らしかった。夜間の病院で出会ったのでなければ、初印象はさぞ可愛らしい子供だっただろうと思う。将来はかなりの美人になりそうだ。
「大丈夫大丈夫。おにいさん、大人だから」
「うん、分かった」
にこやかに微笑み、少女は立ち上がった。
「おやすみなさい」
「お、おやすみ」
ぎこちなく微笑みを返し、和人は少女を見送った。
姿が見えなくなってから、ようやく息をつく。買ったスポーツドリンクをあけ、口にする。
あんなにいい子を幽霊と思った自分がなんだかおかしかった。
少女のパジャマも白かったので余計に幽霊に見えたのだが、怯えすぎだろう。
「さーて、ラーメン食いに行くか」
飲み干した缶を近くのゴミ箱に捨てて、和人はめげずに松葉杖にすがった。
夜。
最初の脱走が上手くいったのに味をしめ、和人は再びの脱走を企てた。近くに屋台のラーメン屋が来ていて、けっこう美味かったのでまた食べたくなったのだ。病院食は味気ないので数日で飽きてしまっていた。
ラーメン屋の親父は三日にいっぺんの割合で同じ場所に来ると言っていたので、今夜あたりまた来ているだろう。
和人のパジャマ姿とギプスを見て苦笑していた親父によると、けっこう脱走患者は多いらしい。やはり病院食ばかり食べていると濃い味が恋しくなるようで、そのときもお仲間が一人いた。バイクの事故で怪我をしたというおっさんだった。包帯を巻いたおっさんと、ギプスをした和人は一緒にラーメンをすすったのだ(和人より先に来ていたおっさんは食べるなりさっさと先に去った。バレたらマズイからだろう)。
近くにはコンビニもあるので、もしラーメン屋がいなくてもそこに寄って何か買ってくればいい。
そこまで考えて病室を出る。
松葉杖にも大分慣れた。足取りはこの間よりもかなり速い。
夜間のナースステーションを見つからないように通り過ぎ、エレベーターへ。
ナースステーションさえやり過ごせば脱走は成功したも同然である。あとは夜間の見回りが来る前に病室に戻ればいい。
チン。軽い音がしてドアが開いた。
「あ」
「あ」
そこにいた人物に思わず声が出る。初回脱走の晩に出会った少女だ。彼女は今日も白いパジャマを着ていた。
「こんばんは、おにいさん」
「こんばんは」
あいさつし返して、とりあえずエレベーターに乗り込む。下に行くエレベーターはこれが一番速く来た。他は上へ行くのや、上の階で誰か乗り込んでいるのか、とろとろ降りてくるのだけだったのだ。
「今日もジュース買いにいくの?」
少女は何気なく話しかけてくる。彼女の手にはこの間と同じ小銭入れが見えた。
「え、あ、うん。まぁ。君もかい?」
「うん。今日はアップルジュース買おうかなと思って」
「へえ、果物好きなんだね」
短く会話したとき、エレベーターは自販機と裏口のある階についた。ここから自販機のある一画と裏口は真逆の方向である。脱走するためには少女と逆方向に歩かねばならない。
また一旦少女と同じく自販機まで行って、そこで別れたほうがいいだろうか。
必要ないジュースをいちいち買うのも阿呆くさい。
「おにいさん、行かないの?」
少女は和人が来るのを待ってくれている。とりあえずエレベーターからは降りたものの、
「いや、えーっと」
どうしよう。ついていってごまかすべきか。迷う和人の横でほかのエレベーターが開いた。
誰か降りてきたらしい。見たことのない男だ。三十歳前後といったところか。
「あ、おじさん」
少女の知り合いらしい。彼女は男を見て苦笑している。男は少女を見てありゃ、と呟き頭を掻いた。
「また抜け出すの?」
「見つかっちゃったか。いや、そろそろラーメン屋が来る日かなと思って」
「カンゴフさんに見つかっても知らないよ」
茶化すように彼女は笑った。よく分かっているというような態度だ。
「内緒、内緒。頼むわ」
彼女に拝むように手を合わせて笑いかけ、男は行ってしまった――裏口のほうへ。
「……あの人」
呟く和人に、少女は楽しそうに笑いながら答える。
「近くにね、美味しいラーメン屋さんが来るんだって。いろんな人が抜け出して食べに行ってるの。おにいさんもそのうち行ってみるといいよ。すっごく美味しいんだって」
脱走、黙認。いや、彼女も共犯か。
密告されるとかんぐるより、正直に話したほうが早かったようだ。
「いや、おにいさんももう行ってみたんだよね、実は」
「そうなの?」
「……この間、本当は脱走しようとしてたんだ」
正直に白状する。道に迷ったのは本当だが。
「で、今も脱走しようかと思ってた。そこを君に見つかったからまずいなーっと」
「あはは、わたしカンゴフさんに言ったりしないよ?」
慣れているのか彼女は笑っている。別に怒ったりもしていないようだ。
「そっか、心配しすぎたな」
笑って和人は敬礼の真似をした。
「では、脱走してきます。あ、君も行く?」
一応誘ってみる。夜の脱走に子供を誘うのはどうかとも思ったが、ひょっとしてこの子も脱走の常習犯なのではないのかと思ったのだ。
少女は笑って首を振った。
「ジュースで我慢する。ありがと、おにいさん。行ってらっしゃい。気をつけて」