参・ホスピタル〜夜想曲(ノクターン)・1
朝。
目を開ける。閉じられたカーテンの隙間からの日の光を、ベッドの上から眺め、彼女は安堵の息をついた。
今日もまだ生きている。
白いベッドに起き上がる。枕もシーツも毛布にかけられているカバーも白。
自分の腕も白。そこから繋がる点滴の管は、薬液の色をしている。
彼女は自分の胸元に手を当てた。
手は動く。足も動く。息をしている。心臓は動いている。
今日もまだ生きている。
神様ありがとう。わたしはまだ生きている。
ベッドの頭にはプレートがついている。
彼女の名前と生年月日が刻まれたプレート。
生年月日から彼女の年齢は十二歳と知れた。小学校か中学校に行っている年頃の少女だ。
彼女はベッドから降り、枝になる果実のように垂れ下がっている点滴を引きずって、窓に近寄った。カーテンをゆっくりと開ける。
朝の光はまぶしくて、彼女は目を細める。窓の外の植木に小鳥がとまっているのが見えた。
毎朝の風景。この小さな窓から見えるもの。
それが彼女の全てだ。
外へ出たいと思ったことはない。出ても誰かの迷惑になるだけだと思っている。
少し冷たい風に当たるだけで熱を出す身体。
生まれつきに重い病気を持つ身体。病室からは出られない身体。
彼女は毎朝、生きていることに感謝する。
まだ死んでいないとホッとする。
いつどうなってもおかしくないと思う。たまに見舞いに来る家族は何も言わないけれど、本人には分かっている。すぐに倒れてしまうくらいにこの身体は弱いから。
可愛らしいパジャマに包まれた手足は細く、今にも折れそうなくらいだ。
細い両手を祈るように組み合わせて、彼女は目を閉じる。
明日も生きていられますように。
***
朝。
目を開ける。閉じられたカーテンの隙間からの日の光を、忌々しげに見つめて、彼は息をついた。
つまらない一日が始まる。
入院なんかするもんじゃない。身を起こして頭を掻いた。彼のベッドの頭にはプレート。
青山 和人。彼の名前と生年月日。年は二十三歳。
彼は病気ではない。もうシーズンも終わるというのに、屋内スキー場で足を折ってしまってそのまま入院。スキー場でナンパした綺麗な彼女は素敵に薄情だったようで、足を折った彼を見てそのままUターン。ほかの男と行ってしまった。
全くついてない。ギプスで固められた自分の足を見下ろして、和人は肩を落とした。
あそこで転ばなければ、今頃は綺麗な彼女とイロイロと仲良くなっていたはずなのに。
本当についてない。
「おはようございます、青山さん」
検温ですと看護師が入ってきた。まず先にカーテンを開けて日の光を室内に入れてから、体温計を手渡され、和人は素直に脇に挟み、脈拍を測られる。
毎朝の決まりごとだ。
つまらない一日の始まりを告げる、目覚ましのように。
「カンゴフさん、退院したいよ。出して。ヒマ」
愚痴を言って駄々をこねてみるものの、
「気持ちは分かりますけどねー、もう少し我慢してくださいね。今は安静が必要ですので」
暇をもてあましている患者には慣れている看護師にあっさりと受け流される。
「そんなにヒマなら松葉杖で歩いてみます? 院内の散歩くらいは大丈夫ですよ」
「退院したいな」
「まだダメです」
にこりと微笑む看護師に、音を立てた体温計を渡す。骨折による発熱はもう治まっていた。
「散歩してきたらどうです? 気分転換になりますよ。あとで松葉杖持ってきますね」
変わりばえしない病院内を散歩してみたらと言われても、あまり嬉しくなかった。
夜。
等しく訪れる眠りの時間。部屋も廊下も静まり返っていて、昼間の人の気配はどこにもない。しんとした、静寂の世界だ。
そんな中、和人は松葉杖をついて病室を抜け出していた。
大体消灯時間が早すぎる。健康な若い男がこんな早くに寝られるものか。病院の食事は美味しくないし、なによりもヒマだ。
ちょっと抜け出してラーメンでも食べてこよう。そんなことを考えていた。
どこから抜け出していいのか分からなかったので、とりあえず正面玄関に向かってみたが、案の定閉まっている。診療時間も面会時間もとうに過ぎているのだから当然だ。入院なんて人生初めてで、勝手が分からないが、やはり裏口から抜け出すべきなのだろう。
で、病院の裏口というのはどこら辺にあるのだろう?
見取り図にでも載っているものだろうか。院内の見取り図を探してみようと夜間の病院をうろうろしてみる。初めての入院の上に、けっこう広い総合病院なので見当がつかない。病院にかかったこともほとんどないのだ。入院から脱走まで初めての経験である。
見取り図とか地図のようなものは、大抵入り口の近くにあるはずだと予想をつけて、そのあたりを探してみる。これかなぁと思う案内図を見つけ、裏口を探してみる。
それっぽいものは反対側の方向にあるようだ。
よーしラーメンだと意気込んで、慣れない松葉杖でつっかえつっかえ歩いてしばらく。
ここが裏口に通じる道! と曲がったところは行き止まりだった。脇にはあまり聞いた事のない検査室らしい部屋がある。
どうやらどこかで曲がるところを間違えたらしい。
「……迷路かっ」
どうしてこんなにややこしい造りなのだろう。方向音痴ではないはずだから、院内が複雑に入り組んでいるとしか思えない。
どこで間違えたのか。とにかく戻って確認してみるしかない。またあの案内図のところまで行かなくてはならないのか。
面倒くさくなってきたが、ラーメンは食べたい。結局食欲に負け、案内図のところまで戻ることにした。
時々転びそうになりながらなんとか中間の距離くらいに戻ったときだった。
ふわり。
白い影が。
「……」
視界の隅を横切ったような気がして、和人は足を止めた。
「……病院、だっけな、ここ」
思わず呟いた。
びょういん。それはもう、ここぞとばかりに怪談が溢れて湧き出しそうな場所である。
バーゲンセールが出来そうなくらい、そのテの話は多いだろう。
だからと言って自分が体験するのはごめんだ。聞いて誰かと騒ぐのは良くても、体験談になるのはまっぴらである。和人は見なかったことにした。そのまま案内図のところまで戻ろうと必死に松葉杖を動かす。病室に戻ったほうがいいような気がするが、ラーメンは食べたい。
今のところ明確に目撃したわけではないので、恐怖心より食欲が勝っている。
とっとと裏口にたどり着いて、ラーメンを。
「お兄さん、どこ行くの?」
かけられた細い声に、心臓が止まった。硬直した和人に、さらに声は続く。
「消灯時間、過ぎてるよ。カンゴフさんに見つかったら、怒られるよ」
ぺた、ぺた、ぺた。スリッパの音が近寄ってくる。
……スリッパ? 和人は恐る恐る振り返ってみた。
夜に浮かび上がる白いパジャマを着た少女が、不思議そうな表情で和人を見ている。
足はある。別に透けていることもない。生身の人間に見えた。小学生か中学生か、ちょっと判断はつきかねたが、子供だということに変わりはない。
ただ、生気は薄い。元気そうにはとても見えなかった。入院患者だとすれば無理もないことなのだが。
「どうしたの?」
きょとんと少女は話しかけてきた。
「……び、びっくりした」
やっと声が出て、そう言うことができた。
「いきなり声掛けられたから、なにかと……」
言うと、少女は納得したようだ。生気薄い顔に花のような笑顔が浮かぶ。
散る寸前の、小さな花のように。
ここから第三章です。退屈な夜を過ごす青年と少女のお話。




