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第二楽章 【不死と破滅と孤独の奇想曲(カプリッチオ)】

永久不変という言葉を冠した花は数あれど、真に永久不変のものなど、何一つこの世には存在しない……最初にそんな事を言ったのは一体誰であろうか。

 生を受ければいつかは死ぬ。朝が来れば必ず夜も来る。出会えば必ず別れが訪れる。

 始まりがあれば終わりがある。その永遠の摂理は今までも、これからも、何一つ変わらぬまま、この世界に存在し続ける。


 摂理は、掟は、守られてこそ価値がある。それらは人を捕らえる為の檻であるとともに、人を守る為の柵でもある。

 住めば都、郷に入らば郷に従え、全くよく言ったものである。窮屈な世界の中でも、どれだけ穢れた世界の中でも、ずっとそこにいればそれが当たり前になってくる。その当たり前を享受する事が生きる事だと人は言う。

 なるほど、それもまたひとつの真理だ。どれだけあらゆる思想や教えが規則や法律で雁字搦めにされ、固く禁じられ、背いた者に罰が下される世界でも、それさえ犯さなければあくまで平穏無事に暮らしていける。危険を冒して自由を欲する事なんてないじゃないかと、悟ったように語る者。既に彼等がこの世界の……オズワルドという、あまりに狭い檻の中に住まう者の多数派だ。


 しかし、ある人がいつかこう言った。

“それではまるで家畜じゃないか”と。“そんなの生きているとは言えない”と。それはまさに正論だった。どんな世界で生きようとも、そこには人の尊厳が存在する。家畜のように飼われていいはずがない。そして何より、そうやって飼われる事に慣れてしまった者はもう二度と元には戻れないのだ。

だから、人は自らの意思で選択する。自分の人生を自分で切り拓く為に、時には己の運命すら捻じ曲げる程の力を持って戦う。その意思こそが人間の本質であり、誇りなのだから。

例え、それで自分が傷つこうとも。

例え、その結果として、愛する者を悲しませる事になったとしても。

例え、大切なものを失ってしまったとしても。

それでも人は前に進むしかない。それがたとえ茨の道であろうとも、自らの足で歩む以外に道はない。


 少なくとも、人間ホモ・サピエンスはそうだった。だがもしも、だがもしもだ。そんな人間の常識を当て嵌めてはいけない存在が、この世にいるとしたら。選択に迫られる必要のない、かといって家畜にすら身を窶す必要のない存在がいるとしたら。

 永久不変の存在。そんなものがあるとすれば、果たしてどんな形をしているだろうか。

 私が……レイシア=ヘルフェリーが彼女と出会ったのは……永久不変という言葉の化身たる少女と出会ったのは、その問いにようやく答えを見出しかけた、あの頃の事だった。同時に私が彼女を……シビリー・ハーケンベルクを心底恐るべき存在だと認識したのも、まさにその時だった。

「…………?」

ふと目が覚めると、そこは見慣れた自室ではなかった。いや、正確には見覚えはあるのだが、ここは間違いなく私の部屋ではない。

私はベッドではなくソファの上に横になっていたようだ。身体を起こして辺りを見回すと、そこがリビングルームだという事がわかった。壁掛け時計を見ると時刻は既に午前二時を過ぎている。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。

「起きたのか」

不意に声をかけられたので振り向くと、キッチンの方からマグカップを持った彼女が現れたところだった。テーブルに置かれたそれに口をつけると、仄かに甘い香りと共に温かな液体が流れ込んでくる。ホットミルクのようだったが、普段飲んでいる牛乳とは少し違う気がする。何だろうと考えているうちに彼女は再びこちらへ歩み寄ってきた。

「まだ寝ていて構わないぞ。明日は特に予定もないんだろう? たまにはゆっくり休むといい」

「そういう訳にもいかないわよ。あなただって疲れてるでしょうに……」

「わたしなら平気だよ。むしろ君の方が心配なんだがな。昨日はかなり無理をしたんじゃないのか?」

「……ええ、確かにね」

彼女の言う通り、今日は色々とあった一日だった。まず朝一番に起きた出来事は、例によってアスタルテの襲撃である。どうせまた何か企んでいるに違いないと思いきや、今回は私とメトーデを分断させる作戦に出ただけだった。しかしこれがなかなか厄介な話で、私は彼女が仕掛けてきた罠をことごとく回避しなければならなかったのだ。

その最たるものが、彼女が用意した《方舟》への誘いである。メトーデに気付かれぬように、しかも私にその手を取らせる為に、実に巧妙な誘導を仕掛けてきた。もしあの場にアスタがいたら、恐らく何も出来ずに終わっていたはずだ。

その後、メトーデとの決戦が始まった。こちらも決して楽な戦いでは無かったが、幸いにして何とか勝利する事ができた。もっともその代償として、かなりの痛手を負わせてしまったが……。

問題はこの後である。戦闘後、意識を失ったまま倒れていた私を、彼女がここまで運んでくれたのだという。ちなみにこの家の場所については、事前に調べておいたらしい。相変わらず用意周到な女だと思ったが、そもそもこの家を選んだのは彼女自身なので、文句を言う筋合いでもない。

「でも助かったわ。まさかこんな事になるなんて思わなかったもの」

「ああ、本当に驚いた。君の身に危険が迫っていると聞いて、いても立ってもいられなかったよ。だからこうして、君の部屋まで押しかけてしまった。迷惑だったら申し訳ないが、許して欲しい」

そう言って頭を下げる彼女に苦笑して、「気にしないでいいのに」と答える。実際、そこまで嫌という訳ではない。

そういえば以前、彼女についてある話を聞いた事がある。それは彼女が人間社会で暮らしている理由だった。

なんでも彼女は元々、ある企業の令嬢だったという。しかしその企業が経営危機に陥り、彼女の父を含めた重役達は全員首を切られ、会社は倒産してしまったそうだ。そんな状況にあっても、彼女だけは命を狙われる事なく生き延びた。それは何故かと言えば、彼女があらゆる人間にとっての財産だったからだ。

当時の彼女はまだ未成年で、成人していなかった。その年齢であらゆる分野の研究を成功させる天才少女など、どんな国であっても喉から手が出る程欲しい人材である。つまり、彼女が生きている限り、その企業には莫大な利益が見込めるのだ。だからこそ、彼女は命の危険に晒されながらも生き延びられた。

だがそんな生活も長くは続かなかった。結局、彼女は父の知人に引き取られ、その人物の元で育てられたらしい。そこでの生活は決して悪くなかったようだが、それでも彼女は常に孤独を感じていたようだ。何故なら彼女は、自分の意思で人間との関わりを絶っていたからである。

そして、十年前。ついに彼女の存在が露見した。彼女の存在は世界中の研究者達の興味を引きつけ、多くの者がその身柄を求めたのだ。その筆頭となったのが、とある資産家の男だった。彼は彼女の才能を見込み、自らの娘として迎えようとした。

だが、そんな事は許されない。なぜなら彼女は、人間の敵なのだ。彼女の持つ技術は、人類の発展の為にこそ使われるべきだ。その一点においてのみ、彼女と人間は共存できるはずなのだから。

故に、彼女は逃げ出した。そして、そのまま姿を消した。それから今日まで、ずっと行方を晦ませていたという。

それが何を意味するかは明白である。彼女が消えた事で、それまで保たれていた均衡が崩れたのだ。つまり、世界が彼女を脅威と見做したのである。

ならば、どうするか。答えは既に出ている。彼女が再び姿を現したというのなら、その時は必ず排除されるだろう。たとえどれだけの犠牲を払う事になろうとも、だ。

しかし、今はまだその時ではない。少なくとも今は、まだ。

「それで、これからの事なんだが」

「……ええ」

私はマグカップをテーブルに置くと、改めて彼女を見た。彼女もまた同じようにこちらを見つめ返してくる。

「あなたには、悪い事をしたと思っているわ」

そう切り出すと、彼女は不思議そうな顔をした。

「どうしてだ? 君はわたしを助けてくれたじゃないか」

「あれは成り行きよ。別にあなたを助けるつもりじゃなかったわ」

「それなら、なおさら感謝するよ。おかげでわたしは生き永らえたんだ。君がいなければ、わたしはきっと死んでいただろう」

「……そうね。確かに、あなたの言う通りかもしれない」

私はソファから立ち上がると、キッチンの方へ向かった。

「あなたは私を、助けてくれるのよね?」

振り向かずに問いかけると、背後からは当然のように肯定の言葉が返ってきた。

私はそれを確認してから、棚の上に置いてあった小箱を手に取った。蓋を開けると中には、赤い宝石のついた指輪が入っている。その輝きを見て、私は思わず溜息を吐いた。

やはり、これを使うしかないのか……。

覚悟を決めて振り返り、彼女に向き直った。

彼女は私の様子をじっと見ていたが、やがて小さく首を傾げた。

「それは……?」

私の手に握られている物を見ると、怪しげな表情を浮かべて尋ねてきた。

私はそれに答える代わりに、右手に持っていた物を彼女の目の前に差し出した。

途端に、彼女の顔色が変わった。信じられないものを見るような目つきで、私の持つ指輪に見入っている。

私はその反応を確認すると、ゆっくりと口を開いた。

「これを受け取って欲しいの」

「…………」

「お願いよ。何も言わずに、これを受け取って」

懇願するように告げたが、それでも彼女は無言のまま動かない。ただ呆然と、私の顔と差し出された指輪を交互に見ているだけだ。

しばらくして、ようやく彼女が動いた。恐る恐るといった様子で手を伸ばし、指輪を受け取る。

その瞬間、私は自分の心が大きく揺れ動くのを感じた。

だが、まだだ。まだ足りない。もっと、強く揺さぶらなくては……。

必死になって気持ちを抑えながら、彼女に向かって微笑みかけた。すると彼女もぎこちない笑みを返した。

これでいい。この笑顔さえあれば、彼女は必ず応えてくれるはずだ。そう自分に言い聞かせて、彼女の手を握りしめた。それからしばらく二人で笑い合った後、彼女に背を向けた。

そして、部屋を出る前に一度だけ立ち止まる。

もう二度とここへ来る事は無いだろう。そんな予感を抱きつつ、最後にもう一度だけ後ろを振り返ってみた。

そこには、先程と同じように彼女が立っていた。

しかし、その姿は今まで見た事も無いほど弱々しく見えた。まるで、迷子の子供のような眼で、私を見つめている。

だが、それも一瞬の出来事だった。

次の瞬間には、彼女はいつも通りの彼女に戻っていた。その瞳には強い意志の光が宿っている。

ああ、それでこそあなただ。

私は安堵のため息を漏らすと、静かにドアノブに手をかけた。

そして、部屋の外へ出る直前。

私は、自分の中の何かが音を立てて崩れ落ちるのを聞いた。

だが同時に、その事に気づかぬふりをして、そっと扉を閉める。

こうして、長い一日が終わった。

「わたしはこれからどうすればいいんだろうか」

困り果てた声で呟くと、彼女は両手で抱えていたマグカップを口に近づけた。

「ふむ。なかなか美味いな」

コーヒーを一口飲むと、満足げに感想を述べる。

私はその様子を横目に見ながら、黙々と朝食を食べ続けていた。

結局昨日は夜遅くまで彼女の話を聞かされたので、すっかり寝不足になってしまった。なので今日は朝からずっと眠くて仕方が無いのだが、今はそんな事を言っている場合ではない。何故なら今まさに、命の危機に直面しているからだ。

というのも、今の私は丸腰である。

つまり、このままではいつ殺されてもおかしくないという事だ。……冗談じゃないぞ。こんな所で死んでたまるか! だが、だからといって下手に逆らうわけにもいかないのが辛い所だ。もし機嫌を損ねたら、どんな酷い仕打ちを受けるか分かったものではない。ここは素直に従うべきだ。

という訳で、ひたすら耐え忍ぶしかないのだ。

私はパンを齧りながら、隣にいる少女を盗み見る。

彼女は相変わらず優雅に食事を楽しんでいるが、その視線が時々こちらに向けられているのは分かっていた。恐らく、私の出方を窺っているのだろう。

やがて彼女は食事を終えると、おもむろに立ち上がった。

どうやら、お出かけらしい。

私はほっと胸を撫で下ろしたが、すぐにそれが甘い考えだと思い知らされた。彼女が向かった先は洗面台ではなく、クローゼットの前だったからである。まさかとは思うが、私に服を着替えさせるつもりなのか? 私は慌てて席を立つと、逃げるようにその場を離れた。

「どこへ行くんだ?」

不思議そうな顔で尋ねられたが、私は答えなかった。そのまま玄関へと直行すると、靴を履いて外に出ようとする。だが、そこで彼女に呼び止められてしまった。

「待ってくれ!」

私は無視して行こうとしたが、服の裾を引っ張られて引き戻された。

仕方なく振り向いてみると、彼女は泣き出しそうな顔をしていた。

その表情を見て、思わず溜息を吐きたくなる。

どうして、あなたの方が辛そうにしているのよ……。

私は諦めて振り返ると、改めて彼女と向き合った。

それから、しばらく沈黙が続いた。

 彼女は何も言わず、ただじっと私を見つめ続けている。私はというと、彼女の目を直視できずに俯いていた。

 やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。

「君は、誰なんだ?」

 それは、いつか尋ねられるだろうと覚悟していたが、いざその時が来ると動揺せずにはいられなかった。それでもどうにか平静を保つと、ゆっくりと顔を上げて彼女を正面から見た。

 そして、正直な気持ちを伝える。

「私は、あなたの知っている人よ」

 それを聞くと、彼女は驚いたような顔になった。

「どういう意味だ?」

 私は、それに答える代わりに質問した。

「ねぇ、教えて欲しいの。私が誰だか分かるかしら?」

 彼女は少し考えるような表情を見せた後で、躊躇いがちに言った。

「君の名前は……確か、アネモネと言ったはずだ」

その言葉を聞いて、今度は私が驚く番だった。

 

確かに、私は自分の名前を彼女に告げた事がある。だが、その名前は偽名なのだ。それを知っていたはずはない。なのに何故、彼女は私の本名を知っているのか……。その疑問に対する答えはすぐに見つかった。そういえば、前にも似たような事があった気がする。

 私は、あの時と同じ感覚を味わっていた。そう、これは夢だ。おそらく、この世界で目覚めた時に見た光景と関係があるに違いない。

 だとしたら、目の前にいる彼女こそが本当の私自身だということになる。だが、そんな馬鹿げた話が有るだろうか。

 私と彼女は、同一人物でありながら別人でもある。つまり、二重人格のようなものだ。だが、その事実を知る者は誰もいない。少なくとも、これまではそうだった。

 しかし、その前提が崩れ去った今となっては、その可能性も否定できない。つまり、彼女は最初から全てを知っていて、今までずっと騙し続けてきた事になる。

 私は混乱しながらも、必死になって頭を働かせた。とにかく、まずはこの場を乗り切る必要がある。私は、震える声で彼女に尋ねた。

「あなたは、本当に私なの……?」

 すると、彼女は静かに首を横に振った。

「いいや、違う。私は、君の知らない人間だよ」

「じゃあ、どうして……」

 言いかけたところで、私は言葉を詰まらせた。これ以上追及するのは危険かもしれないと思ったからだ。

 彼女は私の事をよく知っているようだったが、私は彼女の事をほとんど知らなかった。なので、もしここで彼女の正体について問い質しても、上手くかわされるだけだろう。下手をすれば、また命の危険に晒されかねない。ここは慎重に行動すべきだ。

 私は深呼吸をしてから、別の質問をした。

「それなら、もう一つ聞かせて。あなたは、私に何をさせたいの?」

 すると、彼女は寂しげに微笑んだ。「わたしはただ、君と一緒に居たいだけだ」


 その表情を見た瞬間、私は全てを理解した。


 ああ、そうか。そういう事か……。

 彼女は、ずっと孤独を感じていたのだ。だから、誰かに側に居てもらいたかったのだと思う。

 そして、私が現れた事で、彼女は自分一人だけではなくなった。だから、嬉しかったのだ。きっと最初は、それだけの事だったのだ。だが、彼女は次第に不安を覚えるようになったのだろう。

 もし、このまま一緒に暮らし続けたらどうなるのだろう。いずれ、お互いの事が分かってしまうのではないか。あるいは、自分が何者かを知られる日がくるのではないだろうか。

 そうなれば、もう終わりだ。私は間違いなく殺されるだろうし、彼女だって無事では済まないはずだ。ならば、いっそのこと離れてしまった方が良い。

 私はそう考えたのだが、彼女は違ったようだ。彼女は、私の手を取ると、そっと握ってきた。

「お願いだ。私から離れないでくれ」

 私は、その手を握り返した。それからしばらくの間、私たちは黙って見つめ合っていた。

 やがて、彼女が口を開く。

「君の名前を教えてくれないか?」

 私は少し迷ったが、結局は素直に答える事にした。

「私は、レイシアよ。あなたは?」

 すると、彼女は躊躇うように視線を逸らした後で、小さく呟いた。

「私は、シビリーだ」

 私は苦笑しながら言った。

「嘘つきね。あなたの名前は、アネモネでしょう? でも、そう呼ぶのは止めておくわ。あなたには、もっと相応しい名前があるはずだから」

 私は、彼女に囁きかける。

「ねぇ、覚えている? 昔、二人で約束を交わした時のことを」

 彼女は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに思い出してくれたらしい。

「もちろん、忘れてはいないよ」

 その返事を聞いて、私は安堵していた。よかった。彼女もちゃんと憶えていてくれたみたいだ。

 私は、彼女と初めて出会った日の事を思い出していた。

 あれは、いつのことだったろう。確か、まだ私が普通の人間として生きていた頃の話だ。

 当時の私は、自分の人生に不満を抱いていた。特にこれといった目標もなく日々を過ごしており、何かを変えようと努力する気力もなかった。ただ漠然と、自分は一生こんな風に生きていくのだろうと諦めながら過ごしていた。そんな私にとって、ある日突然現れた彼女は特別な存在だった。彼女は、とても綺麗な人だった。そして、彼女は不思議な力を宿した剣を持っていた。その剣を手にした者は、あらゆる願いを叶えることができるという。

 私は、その話を聞いた時、真っ先に彼女を疑った。きっと彼女は、その剣の力で自分の望みを叶えようとしているに違いないと考えたからだ。

 しかし、彼女は私を騙すような事はしなかった。むしろ、自分の素性を打ち明けると、こう言ったのだ。


『この世界は、ひどく退屈だ』


 私も同感だった。

 この世界には何もなかった。だからこそ、彼女は私の前に現れたのだろう。そして、彼女は私に手を差し伸べてきた。

 私にも、その手を取って欲しいと。

 私は、しばらく悩んだ末に彼女の誘いを受けることにした。理由は単純だった。彼女の正体が何であれ、その美しさに惹かれずにはいられなかったのだ。

 その日から、私の生活は一変した。彼女は、私の想像を遥かに超える存在だった。

 

 まず、彼女は私に色々なものを与えてくれた。美味しい食事に快適な住居。それに、何より私に生きる目的を与えてくれた。

 私に居場所を与えて、私を必要としてくれる人ができた。彼女は、私のために様々な事をしてくれた。私は、彼女のために尽くしたいと思った。


 しかし彼女はそれを望まなかった。


 私は、彼女のためになる事をしたかったのに、彼女は私に感謝の言葉すら口にしてはくれなかった。それが悲しくて仕方がなかった。

 彼女は、私を受け入れてくれない。それどころか、私の事を嫌っているかもしれない。

 それでも構わないと思っていた。たとえ嫌われても、彼女が側に居てくれさえすれば良いと。

だが、それは間違いだった。私は、彼女に必要とされていると勘違いしてしまっていたのだろう。彼女には、最初から最後まで私など必要ではなかった。私は、彼女に拒絶されたのだ。

 だから、私は彼女の元を去った。彼女は私を追いかけてこなかった。その事に、ほっとしている自分が居た。これで良かったのだと自分に言い聞かせた。

 けれど、私は納得できなかった。彼女は、私を騙していた。そして、今も私を苦しめ続けている。

彼女は、きっと私を許してはくれないだろう。だからそんな過去も、人であることも、捨てる決心をつけるのは容易だった。今の私は、吸血鬼だ。私は、彼女に復讐するために生きている。

 あの日、彼女に受けた屈辱を返すまでは死ねない。そのためなら、どんな手段だって厭わないつもりだ。

 彼女を殺すためには、人間の身体では力が足りない。そこで、私は自らの肉体を改造した。今では、普通の人間よりも身体能力が高いだけでなく、再生能力まで備わっている。

 私は、彼女の命を奪うための道具を手に入れた。だが、それだけではまだ不十分だ。

 私は、彼女の弱点を知っている。その情報を得るために、私はある人物と接触していた。

 その人物は、とても頭の切れる男だった。彼は、私の話を聞くとすぐに協力を約束してくれた。私は彼に礼を言うと、早速仕事に取り掛かる事にした。

 それから数日後の夜更けに、私は行動を開始した。目的の場所は、街の外れにある廃墟だ。そこはかつて教会として使われていた場所らしく、今でも礼拝堂が残されている。その建物の中には、今は使われていない部屋がいくつもあった。

 私はその中の一つに身を潜めると、じっと息を殺して待ち続けた。やがて、誰かが近づいてくる足音が聞こえてくる。扉の前で立ち止まる気配があった後で、鍵を開ける音が続いた。

 私は暗闇の中で目を凝らす。そこには、一人の男が立っていた。男は、ゆっくりと部屋の中へ入ってくる。彼が、今回の標的だ。私は、事前に決めていた合図を送ると、懐からナイフを取り出した。

その直後、私は男の背後から飛びかかるようにして襲い掛かった。不意打ちを受けた事で、男は驚きの声を上げた。しかし、すぐに反撃に移るべく振り返ろうとした。


 しかし、もう遅い。すでに私は彼の首筋に噛み付いていた。


 すると、口の中に血が流れ込んで来るのを感じた。久しぶりの感覚だった。十数秒も吸い続ければそいつは全身の体液が失せ、ガヒガヒの干物と成り果てる。私は口を離すと、床の上に倒れた死体を見下ろした。その顔には恐怖の表情が残っている。

 そして、私は自分の手を見た。そこに、真っ赤な鮮血が付いている。

 これが、私が手に入れた力だった。私は、他人の血液を吸う事ができるようになったのだ。そのおかげで、私は以前とは比べものにならないくらい強くなった。私は、この力で彼女への復讐を果たすつもりだった。

 しかし、私は思い知る事になる。

 彼女が私に与えた苦しみは、この程度ではなかったのだと。

 彼女は、私を裏切っただけではない。私の大切なものをすべて奪い去ったのだ。


「レイシア……」

 私の中に残ったあの少女の存在が、何処かで泣き声を上げた。私は、彼女の名を呼んだ事など一度もなかったはずだ。なのにどうして、その名を口にしてしまったのか自分でもよくわからない。

 ただ、その瞬間に、私の中の何かが崩れ落ちていくような気がした。

 私は、彼女を愛していたのだろうか? いいや、違う。そんなはずはない。

 彼女は、いない。しかし、いる。彼女は、私の中から消えてはくれないのだ。私は、彼女に復讐するはずだった。だが、それは叶わなかった。なぜなら、私自身が彼女に復讐されてしまったからだ。

 私は、彼女の影から逃れる事は出来ない。彼女は、私の一部なのだ。彼女は、私に呪いをかけた。私に絶望を与えた。私を憎みながら、彼女はどこかで私を愛している。そして、私もまた彼女を求めている。


ああ、そうか。ようやくわかった。

私は、彼女を殺したかったのではない。私はただ、彼女ともう一度会いたかっただけだったんだ。

でも、それは叶わない夢だ。だから、私は別の方法を選んだ。それが間違っていたとしても、私は後悔しない。

たとえ、そんなでたらめなそれが、汚物塗れの私にとっての救いであっても……。

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