崖の上の二人
「人間の命って、平等だと思う?」
僕は頷く。それを見て、彼女はほほ笑んだ。
「じゃ、質問ね。あなたのお父さんとお母さんが、崖から落ちそうになっています。どちらか1人しか助けられません。どちらを助けますか?」
「…。」
「1人しか助けられないんだから、『2人とも助ける』なんて野暮なことは言わないでね」
僕は黙った。お父さんもお母さんも、僕にとっては大切な人だからだ。
「…答えられないんだね。じゃ、質問を変える。あなたのお母さんと、あなたの知らない人が、崖から落ちそうになっています。どちらか1人しか助けられません。どちらを助けますか?」
「お母さん」
僕は迷わず即答した。
「なんで?」
「なんでって」
「人間の命、平等だと思ってるんでしょ?だったらお母さんも、その知らない人も平等なんじゃないの?なのにどうして、お母さんって答えたの?」
僕は硬直した。眼を見開いたまま固まってしまった僕を見て、彼女が嗤った。
「ね。こんな質問が成立してる時点で、人間の命は平等じゃない。…違うかな。もしかしたら平等なのかもしれない。…ただ、『人間の心の中』では、人の命は平等じゃない。自分と深く関わっている人の命の方が、必然的に重くなる」
『僕が知らない人』は、『誰かにとっては大切な人』なのに。
それなのに僕はあっさりと、自分の母親を選んだ。人間の命は平等だと、言っておきながら。
「ねえ。その崖の話って、人間の命は絶対に平等だと思ってる人は、どうすればいいんだろうね?」
僕が尋ねると、彼女は眼を細めた。
「簡単だよ。どちらか一人しか助けられないってことは、どちらか一人は確実に死ぬってことでしょ?」
秘密事を話す子供みたいに、彼女は声をひそめる。
「だったら2人とも見殺しにして、そのあと自分も死ねばいい。そうすれば、平等」
それはそれは、楽しそうに。
「昔、そんな話をしたのを覚えてる?」
16歳になった俺は、18歳になった姉さんに尋ねた。あのころは二人とも小学生だった。子供だった。なのにあの頃から、姉は歪んでいた。
姉はまっすぐなんだ。だから、歪んでる。
「覚えてるわ。懐かしいこと言いだすのね」
「あの時、訊き忘れたんだ。姉さんは、人間の命は平等だと思ってる?」
姉はしばらくぽかんとしてから、耐えきれないといった様子で笑い始めた。
「平等かって?そんなわけないでしょ」
姉は目尻に涙を浮かべながら、至極楽しそうに言った。
「あなたと私の命だって、決して平等じゃない。だからこっちに来ないでね?下手したら、あなたも死んじゃうから」
姉はくつくつと笑う。自らの喉元に、包丁を突き付けながら。
「私の命は軽いの。だけど、あなたの命は重い」
「…俺は、姉さんの命も俺と同じくらい重いと思ってるよ。だから、助ける」
「相変わらず馬鹿な弟。なに?あんたはまだ、人の命が平等だと思ってるの?」
「分からない」
俺は少しずつ、姉に近づく。
「来ないでって言ってるでしょ」
「…崖の上の2人についての質問だけど、今の俺はこう答えるよ」
2人とも助けようとする。
「…助けられないって、最初に言ったでしょ?」
「知ってる。だから、『助けようとする』だよ。2人とも助けようとした結果、3人全員死んでしまうかもしれない。けれど俺は、皆が助かる可能性に賭けたい」
見殺しにする、ではなくて、助けようとする。
「この答えだって、ある意味平等だと思わないか?」
「…あんたは本当に、馬鹿ね」
姉は笑った。目尻から涙が一粒だけ、零れた。
「たとえ一人しか助けられなくても、…一人だけでも助けるべきよ」
そして姉は、包丁を、