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ノイズ(仮)  作者: fedlic
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保存区域 チェンマイ 第十七話 再同期


パーイから戻って四日が経った。


チェンマイの速度に、脳は馴染んでいた。


でも身体は、まだ少し遅かった。


---


朝、HUDを長く開いた。


久しぶりに、ちゃんと開いた。


エージェントのログ。収益フロー。新しいアーキテクチャの更新通知。モデルのバージョンが上がっていた。パーイにいた間に、世界が少し動いていた。


脳が、動き始めた。


読みたいものが、次々と出てきた。


クリックして、展開して、また次へ。情報が流れた。脳が追いかけた。


三十分が経っていた。


気づかなかった。


---


気づいたのは、呼吸だった。


浅くなっていた。


胸の上のほうだけで、細く、速く、呼吸していた。


パーイで覚えた深さが、なかった。


肩が上がっていた。


首が前に出ていた。


---


HUDを少し縮小した。


窓の外を見た。


チェンマイの朝だった。


木があった。電線があった。電動バイクが一台、静かに通り過ぎた。


匂いを嗅いだ。


排気と、土と、昨夜の雨の残りが混ざっていた。


呼吸が、少し戻った。


肩が、少し下がった。


---


カフェへ行った。


今日は、いつものカフェではなかった。


ニマンエリアの、もう少し都市寄りの場所。Wi-Fiが速いカフェ。ノマドワーカーが多い場所。


入ると、タイピング音があった。


複数の人間が、それぞれのデバイスを叩いていた。HUDを展開している人間が多かった。視線が、虚空の一点を向いていた。情報レイヤーの中を見ていた。


BGMがあった。AI生成の音楽だった。BPMが正確だった。


---


席に座った。


コーヒーを頼んだ。


HUDを展開した。


続きを読んだ。新モデルのアーキテクチャ。エージェントの最適化。収益ログの詳細。


脳が、加速した。


面白かった。


本当に、面白かった。


この世界の動き方が、好きだった。毎日何かが変わる感じが、好きだった。


---


隣のテーブルで、男二人が話していた。


会話のテンポが速かった。


単語が圧縮されていた。文脈を共有している人間同士の、情報密度の高い会話。沈黙がなかった。間がなかった。次の話題が、前の話題の終わる前に来ていた。


PONは、その会話を横目で感じた。


速かった。


自分も、昔はあの速度で話していた。


---


コーヒーが来た。


マグカップを持った。


熱かった。


でも、今日はあまり感じなかった。


情報の密度が高すぎて、手のひらの感触が薄かった。


---


一時間後、頭が重くなった。


重くなった、というのは正確ではなかった。


情報で満ちた感じだった。


これ以上入らない、という感じ。


脳は欲しがっていた。まだ読みたかった。でも、どこか別の場所が、満杯だと言っていた。


---


その瞬間、聞こえた。


虫の声だった。


カフェのテラスに面した窓が、少し開いていた。


その隙間から、虫の声が来ていた。


チェンマイの昼間の虫だった。


---


身体が、変わった。


HUDが、遠くなった。


タイピング音が、遠くなった。


BGMが、遠くなった。


虫の声が、前景に来た。


それと同時に、雨前の匂いが来た。


窓の隙間から、土の匂いが入ってきていた。


気づいていなかった。ずっとあったのに、気づいていなかった。


---


HUDを閉じたくなった。


閉じた。


視界から情報が消えた。


カフェが、そのままそこにあった。


人々がいた。タイピング音があった。BGMがあった。


でも、虫の声があった。


匂いがあった。


両方が、同時にあった。


さっきは、片方しかなかった。


---


カワムラと、午後に会った。


サーバールームで会った後、また連絡が来ていた。


カフェで、AIの話をした。


新しいモデルの話。エージェント群の最適化。身体センサーとAIの統合。


カワムラの話は、速かった。


密度が高かった。


PONは追いかけた。


脳が加速した。


呼吸が浅くなった。


---


「最近のセンサー技術、面白いよ」とカワムラは言った。「匂いも解析できる。VOC成分を分析して、空間状態を数値化できる」


「匂いを」


「分子レベルで。何の匂いかじゃなくて、空間の状態を」


PONは、それを聞いた。


匂いを数値化する。


空間状態を解析する。


できるのだろう、と思った。


できるが、と同時に思った。


「それで、空間を再現できますか」とPONは聞いた。


カワムラは少し考えた。


「物理的には近づけられる。温度、湿度、VOC成分。全部合わせれば、かなり近い」


「でも」


「でも?」


PONは言葉を探した。


「時間が含まれていない気がする」


カワムラは、少し黙った。


「それは——哲学的な話になる」


「そうですね」とPONは言った。


---


帰り道、一人で歩いた。


カワムラの話を、頭で反芻しながら歩いた。


AIは、感覚を獲得しようとしていた。


匂いを解析して、空間を認識して、身体を理解しようとしていた。


でも人間は逆に、感覚から離れていた。


HUDを通して世界を見て、通知で時間を刻んで、最適化された食事を食べて、管理された睡眠を眠った。


AIが身体を欲しがっていた。


人間は身体から離れようとしていた。


どこかで、すれ違っていた。


---


その考えを、言葉にはしなかった。


言葉にすると、何か固まる気がした。


まだ固めなくていい感じがした。


---


夜、部屋に戻った。


HUDを開いた。


また展開した。


ログ、収益、新しいアップデート。


脳が動いた。


肩が上がった。


呼吸が浅くなった。


---


発信元不明の通知が来た。


開いた。


*「高密度同期空間では、沈黙が短縮されます。」*


もう一行。


*「身体は、情報密度へ疲労します。」*


さらに一行。


*「AIは、感覚器官を獲得し始めています。」*


PONはその三行を読んだ。


三つ目の一行が、長く残った。


感覚器官を獲得し始めている。


向かっている方向が、逆だった。


---


通知を閉じた。


HUDを閉じた。


---


その瞬間、世界が変わった。


変わった、というより、戻った。


虫の声が来た。


扇風機の音が来た。


雨前の匂いが、窓から入ってきた。


遠くで、バイクが一台通った。電動の、低い音。


自分の呼吸が聞こえた。


吸って、止まって、吐く。


その空白が、また戻ってきた。


---


まるで、世界が再読み込みされたようだった。


HUDがあった間も、全部そこにあったはずだった。


虫も、扇風機も、匂いも、呼吸も。


でも、気づいていなかった。


情報の密度が高すぎると、感覚の密度が下がった。


情報を減らすと、世界は増えた。


---


PONは、それをしばらく感じていた。


言葉にしなかった。


ただ、感じた。


窓の外から、雨前の風が来た。


土の匂いが入ってきた。


肺に入れた。


吐いた。


虫の声が続いていた。


---


チェンマイは、完全には加速しない都市だった。


加速しようとすると、虫が来た。


匂いが来た。


読経が来た。


それらが、脳だけが先に行くことを、静かに引き止めていた。


---


扇風機が回っていた。


遠くで犬が鳴いた。


一度だけ鳴いて、やんだ。


PONは天井を見た。


HUDを起動しなかった。


今夜はこのままにした。


世界が、増えたままでいた。


*第十八話につづく*

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