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<Anchor>

 極彩色の硝子から洩れるランプの光が、薄暗い壁に幾何学模様を描いている。

「絶滅危惧種の保存作業、か」

 そう言って砂日高(いさごひだか)はまだ湯気の立つ珈琲をすすった。

「まあ慈善事業だね。化石みたいな仕事」

 僕も一口つける。口の中に泥のような塊が流れてくる。いわゆるトルココーヒーというやつで、今日の店は彼の好みに合わせて中東料理店だった。砂という男は、昔から様々な土地のものを食べたがる趣味がある。

 砂は切れ長の目を怪訝に細めた。褐色の肌に艶のある黒髪が、いかにもこの店の雰囲気に合っている。確か親が石油系の仕事で、半分イラクの血が入っているらしい。

「化石と使うのは感心しないな。絶滅しゆく文化の記録作業をしている俺もいる」

 砂は民俗学者だ。渋谷の大学で非常勤講師として働いている。彼とは大学のボードゲームサークルで知り合った仲だった。以前なぜ役に立たぬことに心身を注ぐのかと聞いたら、面白いから、の一言で済まされた。彼の性格から考えると、ちゃんと説明するのが面倒だったのだろう。

「いよいよ同業者だねえ」

 ため息をつく。そう、僕自身、役に立たない職業に就くことになってしまったのである。

 僕の職場は遠くドイツにある。所属先の名を日本語で言うと「絶滅危惧種保存機関(Red list Conserve Organization)」。英語頭文字を取って通称RCOと呼ばれる国際機関だ。

 ここでは絶滅危惧種、および絶滅種の遺伝子保存を行っており、僕は生物学者として実験や保存作業の一環を担わされている。本当は大学の研究機関で遺伝子関連の先進研究をしたかったのだが、なりゆきで研究誌に載った論文がRCO内で話題になってしまったらしく、正々堂々ヘッドハンティングされた。飯に困らないのはありがたいが、正直やりたいことではない。

「意義のある仕事なのはわかるけどね。僕はさあ、もっと社会に貢献できるような仕事をやりたいんだよ」

 僕は辛抱堪らなくて、骨ばった手をうねうね動かした。それを見て砂は鼻で笑うともから笑いともつかぬ、ふ、という空気音だけ発した。

「役に立つかと問い始めたら、昨今騒がれているSDGsとやらも所詮焼け石に水だ。そもそも生物がやるようなことに意味などない」

「そうなんだけどさ」

 砂はふむ、と一息つき顎に手をやった。

「一般的な倫理観における善悪を考えた時に、殺すことより生かすことの方が正義だとされるのは船子君もわかっていることとは思う。役に立つということは他者を生かす。つまりは種の存続に貢献するということだ。その意味で言えば、船子君のやっていることは「役に立つ」という概念からそうかけ離れたものではないと思うが」

「そりゃまあ、そうだけど」

「それなら悩むことなどない」

 切れ長の目を再び細めて、きっぱりと言い放つ砂を前に、僕は眉間の皺を深くした。

「でもさあ、変えられない運命を前に無駄な足掻きをするって、やっぱ辛いよ」

 眉間を揉みながら目を瞑る。日本人ではない、濃い顔つきのウエイトレスが菓子を運んできて、不愛想に砂の前に置いて行った。パイのようなものに半透明のソースがかかっている。甘いもの好きの砂のことだ。どうせ中東特有のゲロ甘菓子だろう。

「それでも悩むんだったら、俺の経験則、大義を考えるより、身近に尽くす指標を設定すると楽だぞ。家族のためとか、恋人のためとか。実は昔、俺も同じ理由で悩んだことがあった。しかし、文化を記録する、というのは、他ならぬ他人の思い出を共有するということだ。歴史を学ぶと言うのは他者を知るということ。ひいては隣人を愛すことと似ているんだ。俺たちがやっていることは無駄な足掻きじゃない。それに気づいてから、悩まなくなった」

 砂はナイフとフォークで器用に菓子を刻んで、口に運んだ。表情筋の動きが微細な彼だが、満足しているのか口角が少しだけ上がっていた。

 幸せな奴。昔からそうだ。ぱっと見理屈だけでできているように見えるのに、実は単純で純朴。だから僕と違って、左手の薬指に指輪を嵌められるのだ。

 その言葉が、僕にとっていかに残酷か、知らずに使えるのだ。

「はっ、僕に恋人を作れって?」

「そういうことじゃない。船子君はもうちょっと、自分の内に他人を入れてもいいんじゃないかと思っただけだ」

「それなら敢えて聞くんだけど」

 卑屈な僕は、その言葉をうまく呑み込めないまま年を取ってしまった。

「愛、って、何」

 そういう意味では、僕はあまりにも欠落している。



 記憶の最初、というのは誰しも曖昧なものだ。

 しかし親の顔くらいは覚えていてもいいとは思う。僕の場合、それすらも皆無だった。

 あまり悲劇的に書きたくないし、実際悲劇的でもない話だから淡々と語るが、僕には親がいない。

 赤ちゃんポストとかいう無責任な親が縋る最後の砦に投げ込まれた僕は、無機質な施設で育った。施設とはいえ、職員は職員なりの愛を注いでくれたとは思う。

 しかしこの場合、幼少の僕が変に頭が良かったのが不幸だった。周りに他人がたくさんいたからか、察する能力と、嫌われない行動を選択する力だけが育っていき、今の事なかれ主義な人格に至る。よく言えば合理的。

 愛という言葉は、僕からしたらあまりにも動物的すぎて、遠い感情だった。

 そんな中、役に立ちたい、という気持ちだけは持っていた。役に立つ行動を選択することで、この淡泊な僕にも愛を知る機会が得られると思ったのだ。多分生物的には間違っているんだと思う。少なくとも、過程と結果が逆なことだけははっきりわかる。

 五体満足でこれといった欠陥がない僕だが、殊に愛については不具である。

 人間であれば当然持っているその感情は、僕の中では育っていない。



「ねえ、穂村、聞いてる?」

 寝転がったスマホ越しに声が降ってくる。

「うん、聞いてる。雅子おばさんと原宿に行ったんでしょ」

 安い六畳間に秋の風が入ってくる。蛍光灯の影を切り取り、上から顔を覗き込む(いつき)は、一瞬頬を膨らませてふっと笑った。ころころ表情が変わる。猫のような女だとよく思う。

 からからと換気扇が回っている。ここは度会斎(わたらいいつき)の家だ。巣鴨という立地の良さから、日本に帰ってきた時は定宿にしている家だった。

「心ここにあらず、だね。答えがない悩みとか?」

 ゆるそうに見えていきなり芯を突いたようなことを言ってくるのも、尚更猫っぽい。

「斎には勝てないなあ」

「うん、バレバレ。隠し通せると思った?」

 斎はにい、と口角を上げた。

 斎とは施設で一緒に育った仲だった。

 施設にはたくさんの親なき子がいたが、特に斎は歳が同じで学力も同じ位、テストがある度に毎回成績争いをした戦友でもあった。大概僕が勝っていたので、向こう側から執着されたという方が、表現が近しい気がする。幼馴染よりも親しく、家族よりも軽い、そんな立ち位置だった。

 今は大学の事務員として働いており、その傍ら文化人類学者としてちょこちょこ海外にフィールドワークに行っているらしい。

 ともかく、斎は僕が変に気を遣わずに話せる数少ない人間の一人だった。

 スマホを床に伏せて、腹から起き上がる。クッションの上に腰を落ち着ける。

「ねえ、斎。愛ってなんだと思う」

「年頃だね」

「茶化さないで。真面目に聞いてるんだから。なんだか欠けている気がするんだ」

 斎は真っすぐな黒髪を揺らして、首を横に倒した。

「それ、私に聞く?」

 真ん丸な猫目は、射抜くようにこちらを見つめている。

 待て。彼女だって親に虐待されて施設に来た張本人じゃないか。本来信頼すべき人から尊厳を破壊された経験がある彼女に聞くには、あまりにも酷な質問ではないか。

「ごめん間違え」

「九人」

「へ?」

 斎は僕の間抜けな顔がよほど面白いのか、くくく、と口を覆って笑っている。

「付き合ってきた男の人数」

「……」

 罠にかけられた、と気づいた時には遅かった。

 別に今更ショックを受けているとかではなく、自明のことだった。斎という女は、昔から男癖が悪い、というか男を勘違いさせるのがうまいのだ。中学では上の学年のコミュニティを掻きまわし、高校時代はサッカー部のマネージャーとして健全な男子高校生たちを亡き者にし、大学時代はもうご想像通り軽音サークルや映画研究会を破壊した、恐ろしい女である。黒髪ストレート、色白、細身。一見清楚な印象なのが事をさらに厄介にしている。

「教えてあげよっか」

 悪魔じみた甘い声で、上目遣いをしてくる。

 いつも通りわざとなのはわかっているので、頭頂部を軽く叩いて、

「いいや」

 と返す。僕が厄介に巻き込まれるのはごめんだ。

 斎は、つまんないのー、と言ってビーズクッションに顔を埋めた。

 少しの沈黙の後、気が変わったのかくるりと起き上がって、今度は僕の肩にしだれかかってくる。

「ねえ穂村さあ」

 甘いシャンプーの香りが、ふわっと漂ってくる。黒髪がさらさらと、僕の肩を滑り落ちていく。

「私はさ、穂村は別に欠けてるわけじゃないと思うよ。気づいてないだけ。目を凝らしてみて。子供の笑い声、ショートケーキの甘さ、冬の朝起きた瞬間の、冷たい空気……」

 役者のように、天に手をかざして、朗々と言葉を紡ぐ。

 夕暮れの光が、部屋を橙色に染め上げている。

「そのすべて、きっと愛すべきものだから」

 斎は、猫のように、目を細めた。



 休暇も終わり、ドイツに帰ってきた。

 試験管をくるくると振っていると、昼休憩を告げる鐘が鳴った。サンプルを冷蔵庫に戻し、白衣を脱いで売店に向かう。簡単なものだけ買って会議室に籠り、アニメでも見ようと棚を物色していると、横から茶髪の女性が話しかけてきた。

「船子さん、一緒に食べません?」

 鹿野小雪(かのこゆき)。生物学者。大きな目をくりくりさせながら、真っすぐ僕を見つめている。彼女は日本人の中でも特に小柄なので、このような海外の職場では、時折中学生に間違えられる。動物が好きすぎて今の仕事についている人種。なんというか僕とは熱量が違ってどちらかというと苦手な部類の人間ではあった、が、ここにいる貴重な日本人の一人なので親しくはしている。

「ああ、うん」

 断る理由もないが、本当はひとりでアニメを見たかったため、ぼんやりした返事になってしまった。

「じゃあせっかくなんで、食堂、行きましょう?」

 エネルギーの塊のような異性に、大輪の笑顔で言われると断りづらい。結局引きずられるようにして食堂に連れてかれた。

 流石に昼下がりの食堂は混んでいる。やっとのことで席を確保し、簡単なヴルスト(ソーセージ)とポテト、ザワークラウトにドイツ特有の堅くて酸っぱいパンが載ったプレートを食卓に置いて、腰を下ろす。

「なんで僕?」

 僕の質問に、鹿野はへにゃっと笑う。

「次の保全プロジェクト、手伝ってほしくて。対象の捕獲地が日本なんです。船子さんなら言語の心配もないですし」

 鹿野も同じプレートを頼んでいた。小さな口でもそもそとドイツパンを食べる姿は、少し鹿っぽい。名は体を表すのか。僕も口をつけるが、ドイツの味付けはよく言えば素朴、正直に言えば平坦で酸っぱいので、食べるたびに日本の豊かな食生活が恋しくなる。

「へえ。ちなみに何の個体?」

「北海道でエゾオオカミが見つかったんです」

 平然とそんなことを言うものだから、水を吹き出しそうになった。

「エゾオオカミ⁉ 絶滅種じゃないか。同定はちゃんとしたんだよね……?」

「はい。信頼できる筋からの情報なので間違いありません」

 にこにこしながら鹿野は言う。

 エゾオオカミとは言わずと知れた絶滅種である。明治期に北海道開拓での開墾、異常気象も相まって、野生のエゾジカが減少した。結果として鹿が主食だったエゾオオカミの餌がなくなり、人間を襲うようになったため、徹底的に駆除された。百年以上前の話である。

 それが現代で見つかるのは流石におかしい。

 疑念が顔に出ていたのか、鹿野は僕の表情を見て困ったように眉を下げた。

「疑問を抱くのはわかります。だから今回の案件は、他ならぬ私たちの目で確認することが大事なんです」



 新千歳空港からレンタカーで数時間。僕たちは山間にあるログハウスに着いた。広大な敷地に二、三棟建築物があり、一番大きな建物には「ジビエレストラン ホロケウ」と看板が掲げられていた。鹿野が言うには、ここは猟友会の敷地であり、その中でレストランを経営しているらしい。

 ちらつく雪が、頬を掠めて溶ける。

 今回はレストランには入らない。用があるのは隣の掘立小屋だ。

 コンテナを積み上げただけの小屋の中に入る。

空調が効いているのだろう。もわっとした熱気に襲われる。

 中は普通の事務所だった。倉庫の役割も果たしているのか、猟銃が立てかけてあったり、何に使うかわからない仕掛けも雑多に置いてある。

「おお、小雪、来たか」

 部屋の奥から声がした、と思ったら、事務机の影から大柄な人影が立ち上がった。

 中年に入りかけの男性だった。薄く無精髭が生えている。ラグビーでもやっているかのような体つきに、文字通りひょろひょろでガリガリな僕は無意識に身構えてしまう。

「ただいま、司朗」

 その言葉に、男はおかえり、と返した。当たり前だが、鹿野は怖けずに男に向かっていく。二人で並ぶと父と子のようにすら見えるが、実年齢はあまり変わらないだろう。鹿野は僕に紹介するように男の横に立った。

「神山司朗さんです。猟友会青年部のリーダーをされています」

「神山です。よろしく」

 神山は礼儀正しくお辞儀をした。やたら筋の入った、キビキビした動きだ。警察官とかなのだろうか。

「船子です」

 僕が名刺を差し出すと、神山は笑みを浮かべて受け取った。いわゆる怖い顔だが、笑うと人懐こい。なんとなく鹿野と似ている。

「対象は捕獲済みです。どうぞ持って行ってやってください」


 神山に連れられ、掘立小屋の裏にあるトタン屋根の古い作業場に入る。

 土臭い作業場。その薄闇に紛れるように檻がある。

バネの着いた金網の中には、爛々と目を光らせる狼がいた。

蛍光灯のスイッチが入り、対象の全体像が白い光に照らされる。

全体的な色は白く、尾先だけ黒い。こちらに唸る口から覗く牙は、イエイヌのものよりずっと鋭利だ。

「本当にエゾオオカミだ……」

「罠にかかってましてね。最初は動物園に預けようと思ったんだが、まず小雪に連絡したほうが早えなと」

「正解だよ司朗。こんな貴重なサンプル、国や自治体で取り合いになるより、国際機関に任せたほうがいい。船子さん、早速作業しましょう」

「はい」

 バンに乗せてきた簡易の機材を並べる。個体をドイツに運ぶための本隊は明日到着するので、今は簡単な同定作業だけだ。確認しながら作業を始める僕らを見ていたのだろう。神山の声が降ってきた。

「ありがとうございます」

 ふ、と後ろを向くと、真剣な顔をした神山がいた。

「どうかこいつが生きていた事実を、繋いでやってください」

 僕はしばし目を丸めた。何を含んでその言葉を発したのかわからなかったのだ。

「うん。繋ぐよ」

 僕の代わりに、鹿野が返した。一人だけ空気を読めないやつみたいになってしまい。少し居心地が悪かった。



 その日は神山の家に泊まることとなった。

 神山は敷地内の小屋で一人暮らししているらしい。レストランとは別棟のログハウスの扉を開けると、中は数部屋からなる家だった。もとは長期宿泊用のコテージ、というような内装。几帳面な性格なのだろう、男一人暮らしにしては整頓されている。ただ一つ気になったのは、男一人にしては可愛らしい動物モチーフの雑貨がちらほら置いてあることだが、この答えもすぐ判明する。

「ここら辺で調査をしているときに、よくお世話になってたんです」

 厚手のジャケットを脱ぎながら鹿野が言う。勝手知ったる部屋なのだろう。慣れた手つきで上着をハンガーにかける。神山は買い出しに行ってしまっていて留守だった。狭い部屋。ソファに座る僕、冷蔵庫を漁りだす鹿野。

「あのー……僕別でホテルとった方がいい?」

 鹿野は二つ出したマグカップに牛乳を注いで、電子レンジに入れる。

「お気遣いは要りませんよ。こんな山奥じゃ、ホテルまで十キロ以上ありますし」

「まあ、それは、そうなんだけど……」

 寝る部屋は別とはいえ、事実を知ってしまうと申し訳なさが募る。長期の海外出張から彼氏の家に戻ってきたのだ。流石の僕でも、水入らずで一緒に過ごしたいだろうというのはわかる。

 電子レンジから、チン、というレトロな音が鳴った。

 鹿野が取り出したホットミルクを両手で受け取る。

 口をつける。さらりとした飲み口だが、しっかりコクがありおいしい。きっと近くの酪農家からもらってきたものなのだろう。

「意外だなあ。鹿野さんそういうタイプじゃなさそうなのに」

 野暮なことを聞いたのは自分でもわかっている。でも興味の方が勝った。鹿野小雪。僕が観察する限り、動物のことしか頭になさそうなのだ。なんなら着飾ることを求愛行動とか言いそうな部類である。

 鹿野は、カウンター部分に備え付けられた、背の高い丸椅子に座った。

「動物を殺すのが、許せなかったんです」

 ポツリと、突飛な言葉を口に出した。

「もちろん生態系の維持とか、食料問題とか、単に味がおいしいとか。理屈ではわかっていますよ。でも心で許せないから、ちゃんと獲って、解体して、食べる過程まで見てやろうと思って、狩猟を見学させてもらったんです。その時に司朗と会いました」

 大切な思い出なのだろう。鹿野は胸をさすりながら、言葉を選んでいる。

 窓の外に、雪が降り積もっていく。

「司朗は獲物を撃つ時、とても真剣な目をしていました。そしてその視線に、憐れみ……いや違いますね、慈悲、があることを感じたんです。自分が奪った命の重さをわかっている人なんだなって。そしてその責任を、食べて栄養にするという行為で引き継いでいく。それが動物を食べることなんだって、それを気づかせてくれたんです。そこには確かに愛情がありました」

 愛。

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 まただ。確かに疑問の完璧な答えが来たのに、やはり実感が沸かない。

「大切なことを教えてくれた、大切な人を、大切にしよう。ただそれだけの話です。酒の席に乗るような面白い話じゃありませんよ」

 飛躍じゃないのか、その過程は。

 頬を赤らめながら言う鹿野に、こめかみが痛くなる。

 僕にないもの。わからないもの。

 知る日はいつか来るのだろうか。来ないのだろうか。

 大体、隣に鹿野のような可愛らしい年頃の女性がいて、この部屋で二人きりだとて、その事実以上の感情は別段持ち合わせないのだ。やはり欠落しているのだろう。

 目を閉じる。この感情は、悔しいに分類されるのか、虚しいに分類されるのか。

「帰ったぞ」

 ビニール袋をぶら下げながら、神山が部屋に入ってきた。ネギが刺さっている。それこそジビエ鍋でもやるのだろう。

 袋を食卓に置いて、一息つく間も無く、神山は家を出て行こうとする。

「どこにいくんですか」

「なんかおかしい。作業場を見てくる」

「なんか?」

「虫の知らせというやつだ」

 神山は鼻をすすって、扉を開けた。

 外は吹雪になってきていて、日も落ちてきて暗い。ここから十数歩の作業場でも、酷く遠くにあるように感じる。

「私も行く」

「僕も行きます」

 なんとなく、神山を一人で行かせたくなかった。今の気持ちは、多分鹿野も同じだろう。

「わかった」

 それだけ無愛想に言って、吹雪の中に突っ込んでいった。


 作業場は静まり返っていた。

 生き物一匹、いないかのように。

 冷たい色の蛍光灯に照らされた下。三人の視線は自然とひと所に集まる。

「狼は?」

 銀色の檻の中には、獣毛ひとつ落ちていなかった。

 背中に悪寒が走る。

 逃げ出した? 逃げ出したとしてどこにいる。この作業場は締め切っているし、いくら狼の力が強いとはいえど、アルミのシャッターに穴は空いていない。この静かな雪の夕べに、息ひとつしないというのはあり得るのか。もしかして、なんらかの原因で死んでしまったとか。いや、それなら死体があるはず。

 ともかく、あの獣は、密室を脱出した。

 もぞもぞと指を動かす。手汗でぬるぬるする。下手すると自分が殺されかねない。

 神山は猟銃を構えて、自分の後ろに付くようくいくい、と手を振った。

 銃口を突きつけて、周囲を観察する。

 その時だった。

 血の匂いが、鼻を掠めた。

「司朗!」

 神山がのけぞった。

 何かが上から降ってきて、目の前を通り過ぎていく。想像し得ぬ速さで。

「なんだよあれ……ッ」

 今襲ってきたもの。状況だけ考えれば狼のはずだが。

 あの速さと、あの角度。いくら本物のエゾオオカミに出会ったのが今初めてだとして、あんな軌道を取ってこちらに攻撃してくるとは考えにくい。というか、無理だ。ほぼ風が通り抜けたに近い。感覚としては、つむじ風で肌が切れることがあるが、あれを想像した。

「いやッ……」

「小雪!」

 咄嗟に神山が飛び出し、鹿野を庇った。

「神山さん!」

 つられて叫ぶも、足が固まってしまい動かない。

 蛍光灯が、落ちる。

 腐臭を纏ったそれが、後ずさる感覚がした。

(食べられる……ッ)

「耳塞いどけ!」

 神山の怒声。考える暇もなく両手で耳を覆う。

 乾いた銃声が、作業場に反響し、冷たい音を立てた。

 火薬の匂いが漂ってくる。発砲したのだ。

 蛍光灯が点く。

 少しくすんだ壁に、ひび割れた銃痕ができている。

 靄が漂っていた。

 硝煙ではない。黒い、真っ黒な靄が、漂っていた。

 しかしここにはもう、生物の息遣いも、あの腐臭も、なにも残っていなかった。

 まるで初めからそんなもの、狼なんていなかったかのように。

 唖然として腰を抜かした僕達を差し置いて、神山は立ち上がった。

 煙を手で払いながら、檻を見分する。

「開いた形跡はない。なんだったんだ、あれは……」

 神山のつぶやきは、降りしきる雪の中に消えていった。



 名状しがたきもの。

 ラヴクラフト作品に倣った名称は、瞬く間に世界に広まった。

 僕が経験した北海道の事例だけではない。同時多発的に「何か」が人間を襲う事件が起きた。今までの科学法則ではあり得ない現象が、いきなり人間たちに牙を剥き始めた。あの変貌したエゾオオカミを筆頭に、うねうねした触手のようなもの、突然起こる崖崩れ、臭気や毒ガス。どこで起きるかも、傾向も原因も不明。防ぎようがない現象たちに、右往左往する日々が始まった。

 当初こそ法則性や発生頻度を解析する運動が盛んであったが、あれらはそんな生易しい特徴は持ち合わせていなかった。安全な家の中ですら発生するのだ。人類は奮闘したが、なすすべもなかった。

 あれやこれやと動き日々を過ごすうちに、世界人口は半分にまで減った。

 あれに食われるだけではない。不安に陥った人々は武器を取り他人を傷つけ、内乱を起こし、他国を攻めた。戦って死んだ人数より敗戦後の餓死者の方が多い現象と同じだ。人類はどこまで行っても愚かだった。

 ただ僕たちは、自分の死期を震えて待つしかない。

 命からがら逃げ出してきた僕らは、ドイツに戻り、それでもなんとか日常を保とうと業務に没頭した。迫り来る恐怖に打ち勝つすべは、一心不乱に試験管を振ることしかなかった。


 とある朝、RCOの職員たちは、大ホールに集められた。

「方舟艦」

 RCOの代表が、凛とした声で言った。研究者たちはざわつきながら、代表の次の言葉を待つ。

「RCOの職員、RCOが保有する遺伝子たち。そして国内外の優秀な学者たちを避難船に乗せる」

 まだ五十も過ぎた頃の、女の代表は、金髪を肩に滑らせながら言った。

 そのあと詳細な説明がたらたらと流れて行ったが、つまりは旧約聖書のノアの箱舟を現代でやろう、というそれだけの話だった。この星のデータを詰めた舟を宇宙ステーションに放つのだ。人類はここまで来たか、という達観した感想だけ抱き、研究室に帰っていく。

 ふと考えがよぎる。

(僕なんかが、乗っていいのだろうか)

 今までの経験から、種を続けていくには、やはり他者への執着が必要なのだ、と思う。僕の場合、それが薄い。そんな非効率な人間など、舟に乗っていていいのだろうか。しかしこの悩みを他人に打ち明けたところで分かってもらえないのは承知なので、わざわざ口に出すことははばかられた。舟は数週間後、宇宙に打ち上げられるらしい。準備は急ピッチで進められるとのことだった。

 宇宙に逃げたところで、逃げ場なんかあるのだろうか、ということからは、全員が目を背けていた。



 RCOのエントランスに、見知った姿があった。

 最先端を意識した建築物のなかでいて、その姿はやけに古ぼけていて、招かれているわりには変に浮いていた。曲線をあしらったソファで、力なくうなだれている。

「……砂くん?」

「……ああ」

 民俗学者は返事をした。僕は失礼するよ、と声をかけて隣に腰を下ろす。

 なぜここにいるかはわかっている。彼は舟に乗る資格ありとみなされたのだ。誰が選別したのかはわからないが、各分野の未来ある学者たちは方舟への乗船券が渡された。彼はその一人なのだろう。

「どうしたの、元気ないじゃん」

 かなり長い沈黙が流れた。

絞り出すように声をやっと発して、砂は口を動かす。

「妻を、亡くした」

 眉間に、深く皺が刻まれていた。

「……そっか」

 僕は彼の背中を撫でた。背がかなり高くて頼りがいのある背中だったのに、いまは酷く小さく見えた。

「聞かないのか」

「うん。話したかったら、話して」

 こういう時は聞いてはいけないな、というのはわかる。なんども観察して、その通りに動いてきたから。そして本当は聞いて欲しいのだろうということもわかるが、自ら口を開かせたほうがいい。

 砂はなにか言いたげに、こちらを見る。

「生きていたんだ」

 小さく叫ぶような、声だった。

「生きていたんだよ、つい数日前まで。少し低い声も、髪の匂いも、肌の感触も、生々しく思い出せる……お腹に、子供もいた。だが、家に帰ってみたら、マンションの瓦礫に押しつぶされていた。お腹の子も一緒に」

 顔を伏せて、呻くように呟いた。

「清那君……」

 彼の妻の名だろう。それきり彼は肩を震わせたまま、口を開かなくなった。

 丸まった背中をさする。

 胸がざわざわする。他人が苦しんでいるのは、こんなにも不快なものだっただろうか。

 ため息をひとつ零し、窓の外を見る。

 外には、それでも、抜けるような青空が広がっていた。

 砂は身だしなみをちゃんと整える人間だった。しかし今は、髪はぼさぼさだし、薄く無精ひげは生えているし、黒く隈ができている。積み上げてきたものが目の前で無に帰すことに耐えられずに、みっともなく呻いている。

 これが、他人を愛した者の末路なのか。

 やはり愛は、執着以上の何者でもないんじゃないか。



 あっけらかんとした晴天。

 つるりとした曲線を描く方舟は、まさに人類の期待を一身に背負っている美しさだった。死出の道が確約されている日でなかったなら、いくらか心も晴れただろうに。

 僕が乗るのは、方舟艦「あかし」という舟だった。

 なぜ日本の艦の名など、と思ったが。ほかの船の名が「ロゼッタ」やら「ムセイオン」やら知識の集積場所、および記録装置の名ばかりだったため、おそらく「アカシックレコード」からの連想だろう。

 舟の発着場所は見送りの人間で埋め尽くされており、一種の祭りのような混み様だった。

 僕に見送りなんて一人も来ないだろうと高をくくっていたら、数日前に斎から連絡が入った。彼女は、こういうところは律儀な人間だった。あるいは、律儀でないと生きていられないのかもしれないが。

 風に黒髪を煽られながら、斎は肩を落とす。

「私も志願したんだけどなあ」

「こればっかりは、僕の権限でもね」

 僕が肩をすくめると、斎はふん、と鼻を鳴らした。

「穂村はさあ。権限があったら、私を乗せてくれるの」

 質問されて一瞬迷ってしまった。命の価値と身内びいきを天秤に乗せて考えてしまった。彼女を舟に乗せた時、特に男性のコミュニティ崩壊が自滅に追いやらないとも限らないのだ。

「……乗せる」

「濁したね」

 すかさず返事が返ってきた。彼女が欲しかったのは確実にこの答えではなかったのだ。せめて、コンマ何秒で乗せると言わなければいけなかった。

 まあこの答えも彼女の中では予想済みのものだったのだろう。残念そうな顔はしているが、諦めの方が強くにじみ出ていた。

「今更信じられないかもだけど」

 ちょっと自嘲じみた声音だった。

「私、小学生の時からずっと、穂村が好きだったよ」

 斎は少しだけ赤らんだ顔で言う。

 え、と言う間もなく、彼女は言葉を続ける。

「でも穂村ったら、ず~っと研究にしか興味ないんだもん。私が本当の気持ちを言ったら、穂村は困っちゃうでしょ。だから、ずっと心の奥に気持ちをしまってた。穂村の空白を埋めるために色々な人と付き合ってみたけど、でもね、だめだ。穂村だったらなあって思っちゃって。でもさあ、私はさ、穂村に選んでもらえるような、綺麗な女じゃないんだ。出会った時から、汚いの。だから気持ちを言って離れるくらいなら、部屋で一緒にゲームして、ご飯食べて、だらだらする関係でいいやって、そう思ってたの。でも、それも今日で終わりだし、うん」

 斎は、曖昧にはにかんだ。

 その瞳は涙で潤んでいる。

 なんて言っていいかわからなかった。僕はずっとうまくやっていると思っていたのだ。他人の心情までしっかり考えて、行動できていると。灯台下暗しだ。一番近くにいた人間のことを一番わかっていないどころか、勝手にレッテルで見て、勝手に軽い女だ、と高をくくっていた。

 穴にでも入りたい気持ちだった。僕の無関心、というか甘えが、彼女を深く傷つけていたのだ。二十年以上、彼女の心を蝕んでいたのだ。

 彼女は一歩、進み出た。

「最後にひとつだけ、わがまま、許してね」

 唇に感触があった。

 それも一瞬で、柔らかさはすぐに離れていく。

「斎、あの」

 僕の声に被せるように、搭乗時刻のアナウンスが流れる。もういかないといけなかった。

 風が僕の黒髪を、彼女の黒髪を通り抜けていく。

まだ言いたいことがある。しかし、斎は一歩後ずさると、やはり猫のような瞳を細めて、

「じゃあね!」

 とだけ言って身を翻した。

 遠ざかる背中を、僕は追いかけることができなかった。



 かくして、僕は舟に乗り込んだ。

 選ばれた知者たちは、ここからでは数えきれないほどいた。こんなに人数がいるのに、彼女が選ばれないことがあるんだな、と思う。あるいは先ほどの僕と同じで、残酷なレッテルで彼女を省いた者だっていたかもしれない。

 船上から、ふと地上を見下ろした。

「斎」

 僕はその光景を見てしまった。

 黒々とした触手が地面から立ち上がり、発着場所全体を包み込んでいる。

 アリの大群じみた人間たちは、統制も取れず逃げまどっている。人間があちこちに散らばる間にも、触手はどんどん肥大化していく。

 血の気が引いて、手足の感覚がなくなっていく。確実にあの中に斎はいる。

「降ろして、降ろしてくれ! お願いだから……」

 半ばパニックに陥る僕につられて捕食の光景を見た者たちがざわめき始める。

 あの言葉を言われるまで、斎に対してほとんど何の感情もなかったのに。

 いや、それは嘘だ。気づいていなかっただけなのだ。斎が隣にいることが当たり前すぎて、自分が満たされていることに気づけなかった。思えば、今まで悩みを打ち明けられるのは斎だけだった。斎がいると思うと安心できたのだ。一緒にだべっている時は楽しかったし、日常のあれこれを忘れることができた。かけがえのない時間だった。

 間違いなく、斎のことが大切だったのだ。

 何が愛は執着だ。自分が同じような状況に陥ったら取り乱す癖に、よく他人を見下して言えたものだ。もはや愚かすぎて笑えてきた。

 愛とは何か、僕はとうの昔から、知っていたのに。

「馬鹿野郎……」

 ぼそりとつぶやき、僕は静かに目蓋を降ろした。

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