プロローグ
初接吻を奪われた。相手は作家。それも美少女。
その日、わたしは図書室に向かっていた。
図書委員のクラスメイトがサボったので、担任から仕事を押しつけられたからだ。
それに私は断れなかった。
いつも居眠りしているせいで、成績を脅されたからだ。
ヤケクソに鼻歌を奏でながら廊下を歩いていると、窓の外がピカッと光った。
雷だ。
外は激しい豪雨で荒れていた。ぼんやりと暗く、窓にわたしの姿が反射する。
もさっとした黒髪。ちょっとだけ度が入っている丸眼鏡。
一五七センチに五一キロという、一七歳平均女児とほとんど一緒の体つき。強いて言うなら胸は小さい。ちくしょう。わたしも豊かな桃がふたつ欲しかった。
運動も勉強もそこそこであり、何一つとして特徴のない女子高生。
それがわたし、冬樹司だ。
……それにしても、朝は晴れていたのに急に降ってきやがって……このままじゃ、わたしの天然パーマがもじゃもじゃアフロヘアになっちまう。
少し早足で図書室まで移動し、扉の前に立つ。
手を伸ばすと、中から声が聞こえてきた。
人がいたら面倒だと思ったので、耳を澄ませて、扉に顔を近づける。
「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」
女の子の絶叫が聞こえてきた。
「締め切りで死ぬううううううううううううううううううううううううううううううううっ‼」
わたしは思わず顔を顰めて、扉から距離をとる。
なんかいる。たぶん、変なやつがいる。
図書室で叫ぶなんて、ふつうの人ならやらない。
それに、わたしが通う学園の図書室には、人がほとんど来ない。
担任いわく、デジタル化とかネット社会による影響だとか。時代の流れってほんと怖い。
「……どうしよう」
いつもの私なら、こっそりと退散することだろう。
仕事をしたフリをして適当に時間を潰し、担任に堂々と報告をする。
バレるはずがない。わたしは演技派な一七歳なのだ。
……でも、聞こえてきた言葉には、興味がある。
締め切り。これはとても気になる。
わたしは気配を消して、音をたてないように、扉をそっと開けた。
図書室――半分の空間に本棚。もう半分の空間に机が置かれてある。本棚は一定の間隔で並んでおり、何となく数えても三〇棚くらいある。机は大きな丸机が一つと小さな机が五つある。
電気は点いておらず、部屋全体が薄暗い。
「……ん?」
だが、そんな灰色の空間にひとつの光があった。
それはパソコンの画面の光だと、少しして気づいた。
一〇人くらいは囲んで座れそうな、大きな丸机。
机の上にはパソコンが一台あり、その周りは食べかけのお菓子や、飲みかけのペットボトルや缶で散らかっている。
そんな環境で、パソコンの前に座る影がひとつ。
「だぁぁぁあああああ……なんとかしないとぉぉぉおおおおおっ‼」
ガタガタと激しくキーボードを叩きながら、悩んでいるように頭をかき、声を荒げる少女。
わたしはその少女を知っていた。
話したことはないし、近づいたことも無いけど、その少女は学園で有名だったから。
「縞恵、丹美……」
縞恵丹美。
明るめの茶髪にふんわりとしたパーマ。大きな丸眼鏡をかけておりヘッドホンをつけている。華奢な体つきと可愛らしい顔立ちをしており、ダウナーっぽい美少女だが、いつも寝不足のようで隈がある……まあ、それでも可愛いけど。
そんな彼女は、数年前のライトノベル新人賞で、一〇年ぶりの大賞を受賞し、わたしと同い年ながら、プロの作家として活動している。業界では色々と噂をされており、現代に蘇った夏目漱石だとか、地獄から這いあがってきた芥川龍之介とか……。
ともかく、天才ということだ。
そんな丹美さんは文字を打ち込んでいるようだった。
手の動きとか作家であることから、何となくそう理解できる。
丹美さんがかけているヘッドホンから漏れている音楽。ちょっと昔に流行ったボカロ曲だ。リズムを足でとりながら、丹美さんはふぅと息を吐いた。
そして、表情を次々と変えながら、言葉を吐き捨てる。
「私と貴方は会うべきでは無かったっ‼」
親愛と嫌悪が入り混じり、叫ぶ少女。
「俺からしたら、恋なんて悪魔みたいなもんさ」
絶望と渇望を願い、小さく呟く少年。
「我の力が欲しいだろォ? この恋愛絶対成就の力がッ‼」
傲慢な口調で誘惑する、世に存在しない誰か。
異なる一人称を使いわけながら、ひとりひとりを演じている。
いや、そのものになっている。
「……すごい、な」
それぞれが意思を持っており、別人であることを感じさせ、熱の籠った台詞は心を震わせる。
文字だけで言葉だけで、物語のひとりであるように錯覚してしまう。
図書室で現実とは思えない言葉を吐く少女。
傍から見たらヤバい人かもしれない。
だけど、わたしはなんとなくその感覚を理解できた。
丹美さんはパソコンに顔を近づけながら、苦悩したように表情を歪ませる。
「……いや、このときの心情はもっと切ない……っ」
「……これじゃ、キャラの本質が壊される……っ!」
「……もっと、おもしろく……っ‼」
よほど集中していたのだろう。わたしがこっそりと覗きはじめてから、三〇分くらいして、ようやくこちらに気づいた。
丹美さんはヘッドホンを外すと、
「ん? なんのよう……?」
ギロッとこちらを睨んできた。
うわ、めっちゃ不機嫌じゃん。
「暇だったら翼を授けるやつ買ってきて」
「初対面に一言目がパシリかよっ⁉」
「買ってきてくれたら、ご褒美あげるよ?」
「すぐ行きます」
わたしは脊髄反射で答えてしまった。ので、急いで図書室を出て自販機から翼を授けるやつの缶を二本購入してきた。ちなみに一本はわたしのだ。
図書室に戻ると、わたしは丹美さんに缶を渡す。
丹美さんは缶を受け取ると、
「ありがと」
カシュッと良い音を鳴らしながら、蓋を開けた。
ぐびりと一口飲み、
「ふわぁ……」
幸せそうに微笑む。
眠たそうでとろんとした瞳。口端についた液を指で拭い、ぺろりと舐めた。
ぐぐっと伸びをしながら吐息を漏らす。
大人びた雰囲気ながら、所作に淫靡さを感じる。
図書室で叫んだりわたしをパシらせたり、常識から逸脱したことがあっても、丹美さんはありえないくらいの美少女だ……だから、わたしが買いに行ったのも、仕方ない……はず。
わたしも缶の蓋を開けて、一口飲む。エナドリ特有の刺激と甘味。喉がピリッとする。
丹美さんはポケットから粒ラムネの袋を取り出すと、何粒か口に入れた。
どうやら、再び作業をはじめるようだ。
……いや、ラムネだったら食べかけのが机にあるじゃん。
ぐちゃぐちゃと汚れている机の上を見ていると、丹美さんにビニール袋をポイッと渡された。
……まさか、掃除をしろと?
わたしが目線で訴えかけると、丹美さんは親指をグッとたてた。彼女は缶を一気に飲み干すと、ヘッドホンをつける。
カフェインを摂取したからか、さっきよりも集中力が増しているようで、一心不乱に文字を書きはじめた。
チラっとパソコンの画面を見たら、びっしりと文字が書かれていた。詳しくはわからないが、描写や内容、そして作家であることから、小説を書いているのがわかった。
「……しょうがないなぁ」
わたしはため息をつき、机の上を綺麗にしていく。
空になったゴミを回収し、中身が残っているものは端にまとめておく。
時々、つまみ食いもするが、丹美さんは気づかなかった。集中しすぎて、こっちに意識を向けていないようだ。
一〇分もしないうちに机の上は綺麗になった。
丹美さんに視線を向けると、彼女はまだパソコンと睨めっこをしている。
……まだ、ご褒美を貰ってないし、終わるまで待つか。
幸い、ここは図書室だ。それにわたしは本を読むのがそんなに嫌いじゃない。時間を潰すにはちょうどいいだろう。
わたしは本棚から一冊の小説を持ってきて、丹美さんの対面する席に座る。
丹美さんを一瞥し、ページを捲る。
一時間もかからずに読み終わると思うけど、それまでに丹美さんの執筆が終わっていたらいいな……。
♰
四〇分くらいかけて本を読み終わり、わたしが読後感に浸っていると、丹美さんの動きがぴたりと止まった。
「うううっ~……」
呻き声をあげながら、悶える丹美さん。彼女はヘッドホンを外すと、顔を手で覆いながら、天井を見上げる。
しばらく悩んでいるようだったので、わたしは声をかけた。
「わ、わたしにできることって、何かある?」
あとでご褒美もくれるみたいだし、ここで恩を売っておくのも悪くない。
丹美さんはわたしに視線を向けると、考えたような素振りを見せ、パソコンを指す。
「これ、読んで?」
「……え?」
「いいから、読んで」
「……で、では、ちょっと失礼します」
わたしは丹美さんの隣の席に移動して、パソコンの画面を見る。
やっぱり小説が書かれていた。一五〇ページもある長編の小説。これはたぶん新作だ。
丹美さんが書いてきた小説のなかで、このタイトルには見覚えがない。自慢じゃないが、わたしは丹美さんの小説をすべて読んでいる。
縞恵丹美という天才作家の新作。その生原稿を読めるとは……。
わたしが動揺しながらも、感銘を受けていると、
「はよっ」
丹美さんが制服の裾を引っ張って急かしてきた。なんか幼女みたいで可愛い。
わたしはふぅと息を吐き、パソコンの画面に集中する。
隣に作家本人がいて、それも熱烈に視線を向けてくるので、かなり緊張する。
だけど、一ページ。また一ページ。読み進めていくたびに緊張が解けていく。
頭の中の世界が文字で構築されていく。
ただ、物語に没頭していく。
♰
……一時間くらい経っただろうか。
わたしはパソコンの画面から目を離し、深く息を吐いた。
小説を読むのにこんな時間を費やしたのは久しぶりのことだ。かなり疲れた。
ぐぐっと仰け反ると、丹美さんが顔を近づけてきた。
「それで、どうだった? 感想は?」
「も、ものすごくおもしろかったけど……」
「どこが?」
「……ぜんぶ」
「そっか」
丹美さんは小さく微笑んだ。
この小説はおもしろい。さっき読んでいた小説よりおもしろい。作家というのは、本を書くたびにおもしろくなる、生き物かもしれない。うらやましい。
……だからこそ、疑問に思う。どこに悩んでいるのか。
わたしは丹美さんに改稿――文章をよくするために書き直すこと――をしているのかを尋ねた。
「改稿は?」
「一〇回はしてるけど、まだ足りないところがある……っ」
……もう、そんなにしているなら充分だと思う。だけど、丹美さんとしては譲れないこだわりがあるんだろう。
「どこに納得いってないの?」
「え~と、ね」
丹美さんは席を近づけてくると、体がくっつくくらいの距離感でパソコンを操作しはじめた。
なんだか良いにおいがする。女っぽい甘くてほんわかとする感じ。
「ここなんだけど……」
そこは主人公とヒロインが初めて接吻をするところであった。よく読んでみれば、他の文章と比べると、リアリティとか心理の造形が深くないような気がしなくもない。
でも、文章としては読みやすいし、情景の描写も伝わってくる。
なにより、おもしろい。
もしかしたら他に良い表現があるかもしれないが、一〇回も改稿しているなら、いいんじゃないかな……丹美さんは納得しないと思うけど。
「もしよかったら気分転換とかどうかな? ほら、作家って旅行とかゲームとか、いろんなことを経験して、新しく知識や経験を蓄えるっていうじゃん?」
「いや、締め切りは今夜なんだけど――」
刹那、丹美さんは閃いたような表情を浮かべた。
そして、わたしの頭から足先まで舐めまわすように見ると、頬を朱にして不敵に笑う。
……えっ。わたし、何されるの?
丹美さんはわたしの手を掴むと、小さく言う。
「ちょっと目を閉じてくれない?」
「べ、別にいいけど……」
丹美さんから不穏な空気を感じた。だけど、断るのは無理だった。
もう彼女の魅力というか、雰囲気に飲まれている。
わたしは恐る恐る目を閉じた。
――唇。
初めての感覚だった。
口にやわらかいものが触れた。ぷにっとしており、ほんのりと温かい。少しだけ触れたそれは、口から静かに離れていく。
な、なにをっ……⁉
わたしは目を開けると、丹美さんの顔が近くになった。
鼻と鼻が触れ合う距離。ぷるんとした唇が視界に映る。
丹美さんの顔がゆっくり離れていく。
「かなりいい、ね」
丹美さんは満足そうに微笑み、
「やっぱり、経験に勝るものはない」
唇を舌でぺろりと舐めた。
再び、執筆作業に戻る丹美さん。悩んでいたようが嘘のように手を動かしはじめた。
突然の出来事に動揺を隠せず、わたしは感触が残っている唇を撫でた。
さっきエナドリを飲んでいたからだろうか。
唇を舐めると、少し甘く、ピリッとした。




