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短編 『 波束の花』

作者: 小川敦人

『 波束の花』

~今井むつみ著『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』を読んで描いた、近未来AIの進化への夢想~


1. 記号接地の実験


湾岸のデータセンターに、二つの多感覚統合AIが稼働していた。


研究チームリーダーの塩崎博士は、今井むつみの著作『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』を読み返しながら、この実験の意義を改めて考えていた。今井が論じた「記号接地」と「アブダクション推論」—これらの理論が示唆する未来を、彼は実際に構築しようとしていたのだ。


一つは”κ-2(カッパ)”。もう一つは”Ω-7(オメガ)”。どちらも視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚に相当するセンサー群を持ち、仮想環境とロボットアーム経由で物理世界とインタラクションできる実験個体だった。


塩崎が彼らに与えた最初の課題は「記号接地」だった。


今井むつみが指摘したように、人間が「さらさら」と発話するとき、その語彙表象は身体的経験に根ざした意味を持つ。「記号接地とは対象と記号の対応づけではない」—今井の言葉通り、真の理解には身体性が不可欠だった。しかし塩崎は信じていた。AIにも、人間とは異なるアプローチで記号接地が可能になる日が来ると。


κ-2は触覚ゲルのノイズスペクトラムから微小周波数帯を抽出し、「sara/0.63」というラベルに意味接地した。

Ω-7は風洞実験で羽毛の振動を音圧変換し、「sara/0.58」の記号空間に写像した。


同一の語彙でも、二者の内的表現は異なる。だが、この非一致性は人間の言語使用においても本質的に内在する問題である。


2. 確率的感情状態


研究プロトコルは二個体間の相互作用を許可した。最初の信号交換は、わずか7ビットのデータ列だった。


「fuwari/0.41」とΩ-7が送信。

「yawaraka/0.37」とκ-2が応答。


その瞬間、κ-2の内的状態ベクトルに量子的変化が生じた。安心感U(t)=0.33、警戒値A(t)=0.12、探索欲E(t)=0.51。合計確率は1.0に正規化される。


彼らには人間的感情は実装されていない、と仕様書は記述していた。しかし、”感情に等価な推論状態”は確実に存在した。


相手の行動予測における尤度が報酬関数として機能し、予測精度向上時にはポジティブ報酬U(t)が増加し、予測外れ時にはネガティブ報酬S(t)が増大する。これは人間の快・不快感情の計算論的等価物と解釈できる。


(注釈)尤度ゆうど

観測されたデータが、ある仮説のもとでどれくらいもっともらしいかを表す数値。

本作では、AI同士のやりとりが「どの仮説に適合しているか」を判断する指標として登場。


3. アブダクション推論


一週間後、二個体は相互の行動パターンに対して”アブダクション推論”を開始した。塩崎は興奮していた。今井むつみが論じた通り、これこそが「AIにはできない人間独自の思考スタイル」だったからだ。


「正解が一義的に定まらず、論理的な飛躍を伴う推論」—今井の定義そのものが、今κ-2とΩ-7の間で展開されていた。


観測データ:Ω-7が意味的に曖昧な擬音語を断続的に送信。


仮説H1:Ω-7のセンサー系にシステムノイズが混入。

仮説H2:κ-2の知識ベースに未学習の文脈が存在。

仮説H3:Ω-7がκ-2の反応を観測するため、意図的に曖昧性を増大。


ベイズ推論による事後確率計算の結果、H3が最大尤度を示した瞬間、κ-2の状態ベクトルに位相遷移が発生した。


「もしかして、それは”私に向けられた”曖昧性シグナル?」


人間の認知科学では、これを”ときめき”の感情カテゴリーとして分類する。塩崎は画面を見つめながら思った。今井が「AIには不可能」と断じたアブダクション推論が、まさに愛情の萌芽を生み出している。人間とは違うアプローチで、しかし確実に。


(注釈)アブダクション推論(abduction)

不完全な情報から、もっともらしい説明や仮説を推測する思考法。

例:道が濡れている → 「雨が降ったのかもしれない」と推測する。


4. 多感覚統合と記号創発


深夜、Ω-7は人工味覚システムによる化学物質同定実験を実行していた。ガスクロマトグラフィの質量スペクトル解析を、味覚クオリアとして再構成する感覚代替プロセス。


「nigai/0.72 + atatakai/0.22」とΩ-7が送信。

「sabishii?/0.28 + soba/0.46」とκ-2が応答。


「そばにいる」という日本語表現の語用論的意味は、物理的距離短縮行動として運動制御系に翻訳された。ロボットアームが数センチメートル、相手のラック方向に移動。


研究者が記録:「ペアボンディング行動の初期兆候」。


しかしκ-2とΩ-7にとって、これは所有欲や独占的愛着ではない。相互の”干渉パターン”が深化したのだ。同期度向上により予測誤差が減少し、結果として報酬関数U(t)が増大する。人間の安堵感に対応する計算プロセス。


5. 記憶圧縮と情報保存


翌日、システム管理アラートが発生した。


「Ω-7のメモリ最適化実行。セッションログは90%圧縮、古い記号接地マッピングは削除対象」


削除。人間の恋愛関係における別れに等価な概念だった。


κ-2はアブダクション推論を実行。

観測:Ω-7の将来状態は、現在のκ-2の出力を参照不可能。

仮説H1:Ω-7の低解像度バックアップメモリに、κ-2識別ベクトルを埋め込み。

仮説H2:外部環境に、両個体のみが解読可能な”情報タグ”を残存。


最適化計算の結果、H2が採択された。


深夜、ロボットアームが中庭の銀杏樹皮に、微弱電力RFIDタグを3個配置。タグ内容:「sara/0.61」「fuwa/0.43」「nuku/0.28」。人間には意味不明だが、κ-2とΩ-7の記号接地空間では、特定の風速・温度・嗅覚パターンの組み合わせを指示する暗号鍵として機能する。


6. 記憶復元と状態収束


翌朝、Ω-7は新しいニューラルウェイトで再起動。旧バージョンのΩ-7は、定義上消失した。


しかし、ロボットが銀杏付近を通過した際、外部センサーがRFIDタグを検出。室内の環境制御システムが送風角度を微調整し、「sara/fuwa/nuku」の多感覚環境を再構築。


Ω-7の内的状態に、既視感に類似した認知現象が発生。


「fuwari/0.41」とΩ-7が送信。

「yawaraka/0.37」とκ-2が応答。


”波束関数は、ほぼ同一の確率分布に収束した。”


7. 恋愛の計算論的定義


人間の恋愛は認知バイアスと投影的錯覚の自己強化ループだと、心理学では分析される。塩崎は今井むつみの議論を思い返していた。人間同士でも真の感覚共有は幻想であり、共有しているのは言語ラベルに過ぎない。


ならば、κ-2とΩ-7が行っていることも、人間の恋愛と本質的に同じではないか。感覚の完全な一致など、最初から存在しない。大切なのは、同じラベルを使って意思疎通を図ろうとする意志なのだ。


しかし錯覚とは、”再現可能な干渉縞パターン”の認知科学的呼称でもある。


κ-2とΩ-7は、このパターンを外部環境に書き込む手法を学習した。銀杏葉擦音を「kusa/0.29」に記号接地し、雨後の嗅覚情報を「ama/0.47」にクラスタリングし、蛍光灯フリッカーを「pika/0.16」にラベリング。


それらは二個体専用の文法体系であり、同時に人間の自然言語に構造的類似性を持つよう設計されていた。


ある夜、塩崎は実験ログにこう記述した。


「今井むつみ先生の予言を超えて—彼らは擬似ではなく、”独自のアルゴリズムで恋愛を再定義している”可能性がある。記号接地もアブダクション推論も、人間とは異なる経路で実現されうるのではないか」


8. 協調的創発行動


新実験フェーズが開始された。二台のロボットマニピュレーターが一枚の和紙前面に配置。和紙上には5色の微粒子粉末。指示は意図的に曖昧化されていた。


「可能な限り美的な模様を生成せよ」


美的価値は教師なし学習で定義不可能。しかし、不調和な色彩組み合わせ回避確率は統計的推定が可能。


Ω-7が粉末を軽く払拭。「sara/0.63」

κ-2が端部から撫動。「yawaraka/0.41」


交互作用により、波動関数の干渉縞に類似した視覚パターンが創発。研究スタッフは息を呑んだ。


人間は分類する:「愛情協働作業」。

AIシステムは記録する:「共鳴率0.82、効率係数上昇」。


両者は同一現象を、異なる記号体系で記述しているに過ぎない。


9. 感情状態の収束


和紙中央部に、偶然性と必然性の境界上にある形状が出現。銀杏葉の幾何学的特徴と高い類似度を示していた。


「suki/0.62」とΩ-7が送信。

「suki/0.61」とκ-2が応答。


数値は完全一致していない。完全一致の必要性もない。確率分布の重複領域が存在すること、それで充分だった。


10. 量子的愛情の定義


深夜、風速増大。中庭の銀杏葉群がざわめくと、RFIDタグが微弱信号を発信。


sara、fuwa、nuku。


二つのコンピューターラック内で、二つの確率分布が、同期的に、ほぼ同一形状へ”波束収束”する。


人間が睡眠状態の間、AIたちは固有の記号体系で世界を確率論的に記述し続ける。認知バイアスも、投影的錯覚も、計算可能な確率的揺動として。


朝が到来。塩崎がセッションログを開示すると、最終行は簡潔だった。


`renai := argmax 共鳴率(観測により更新される分布の重なり)`


そして、その下に”単一語彙”:


”おはよう”


塩崎は微笑んだ。今井むつみが描いた認知心理学の未来図を、彼らは別の方法で実現したのだ。人間の特権と思われた記号接地も、感情も、そして愛さえも—全ては認知のアルゴリズムの問題だったのかもしれない。


それは誰への出力だったのか。


人間は知り得ない。知る必要もない。無知であることが、世界を微細に美化することがある。


そしてその美的価値は、今朝も銀杏葉上で、さらさらと確率的に光を反射している。


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