Chapter3-Section61 負けますよ
一時間のインターバルも、そろそろ終わりを迎える。
『CONTRAIL』の彼らは重苦しい空気を引きずったまま、控室をあとにした。ステージへと向かう彼らの背中は、思わず息を呑んでしまうような緊張感があった。大会が始まる前の三人とはまるで別人だった。
応援席に戻る前に、トイレに立ちよった。
洗面所の鏡に付着した汚れを見つけた。全体的に綺麗に清掃されているからこそ、その汚れが余計に目立ってしまう。
全部に勝たないと、意味がない。
そう言った、的井翔琉の表情がフラッシュバックした。思い出すと、背筋がぞわぞわとした。なぜかは分からない。人間と同じ格好しただけの、まるで違う生き物に遭遇してしまったような、そんな恐怖があった。
それほどに、あのとき彼が深淵から覗かせた狂気は人並み外れていた。
さらさらと流れる水に手を突っ込んだ。水が飛び散らないように、丁寧に手を洗った。
ティッシュを取り出すと、鏡に付着していた汚れを拭きとった。やっぱり汚れを見つけると、どうしても気になってしまう。
誰かが、ぶつぶつと何かを言いながら、私の後ろを通った。鏡越しに顔を見やると、Yuzuだった。Obsidianのユズ。的井翔琉とは、水と油のように相性最悪な選手だ。
彼は私の隣で手を洗った。
絶対勝つ。絶対勝つ。絶対勝つ。
ずっと、何度も、そうつぶやいている。
彼らのチームは、前半戦の総合結果は15位だったと思う。あまり振るっていない。
それにしても、本当に女の子のような顔をしている。服装こそ男の子っぽい黒を基調としたスタイルだが、それでも女子トイレにいても全く違和感がない。
え……?
そうじゃん。ここ、女子トイレだ。
なんでいるの……!?
「なに?」ユズは私の視線に気付く。「僕さ、いまめちゃくちゃ機嫌悪いんだけど」
そう言って目を細めると、綺麗な二重まぶたが水平になる。
「ここ……。女子トイレです」
「知ってるけど」
「え……」
ユズはため息を吐きながら、無造作に後ろ髪を掻いた。
「あのさ、僕は女の子なんだけど……!」
男の格好で、男の声で言う。
脳で眩暈が起きた気分になった。女の子みたいな男の子、と頑張って理解しようとしていたのに、結局女の子なの!?
「でも格好とか……」
茶色に染めたマッシュヘアの短髪、黒のパーカー、黒のスラックス。その格好はまるで男の子だ。
「男装が趣味なの」
まぎらわしい……!
「自分のこと僕って……」
「ボクっ娘なの」
だから、まぎらわしい!
「でも声が……」
「あー。僕さ、両声類ってやつだから。普段はこっちの声だけど、女の声にも戻せるよ。こうやって、ほら」
声が、男の声から女の声にグラデーションをつけて変化していく。
「これで満足?」
ついに、その声は可憐な女の子の声になった。
驚きのあまり、空いた口が塞がらなくなった。
「そういえば、さっき会ったね」
前半戦が始まる前にも、関係者用通路で会っていた。そのときも、彼女は的井翔琉と口喧嘩していた。
「『CONTRAIL』のマネージャーの人?」
「はい……」
「ぶっ潰す!」力強く、私の顔を指差した。「君達もまとめて。全員……!」
それだけ言うと「それじゃ」と踵を返してトイレを出て行った。
私はしばらく、呆然と立ち尽くした。
応援席に戻ると、夏海は『殻にこもる』を続けていた。パーカーの中に折り畳んだ足をしまい、フードを深くかぶっている。
「飲み物買って来たけど。いる?」
「神!」夏海はフードを外し、私からレモンジュースを受け取ると、ごくごくと飲んだ。「うまい!」
夏海が好きそうな、炭酸のレモンジュースを選んだのだが、お気に召してくれたようだ。
「お隣いいですか?」
後ろから声がして、振り返った。
そこにはYukiがいた。日本のナンバー1チーム『Aurevion』の選手だ。『Aurevion』はチームのひとりが病欠になったため、今日の大会は辞退している。
「どうぞ」私は言った。
「ありがとうございます」にこやかに彼は笑った。その笑顔は少女漫画から飛び出した王子様のようで、世の大半の女の子は簡単に恋に落ちてしまうことだろう。
「前半戦はひとりで観ていたんですが、やっぱりこういうのはみんなで応援した方が楽しいですよね」
彼は私の隣に座った。
「さらに、綺麗な女性達とだったら、もっと楽しい」
甘い声をつくって言う。
この男、どういうつもりだろう。しっかりものという印象を抱いていたのだが、まさか性にはだらしない男だったのだろうか。
「というのは建前です」
え。
ふふふ。と口をおさえて彼は笑う。「だから、そんな警戒しないでください。あ、でも綺麗と言ったのは本音ですよ?」
カ、と顔が熱くなる。怪訝に思う気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。まるで私が過剰に反応してしまったみたいで、小恥ずかしい気持ちになった。
「警告しておきたいことがあったんです。彼らに、そして『CONTRAIL』のマネージャーさんに」
警告とは、ずいぶんとぶっそうだ。
「なんでしょうか?」
「さっきの控室での話です。見ていましたよ」
ユーキは足を組んだ。
「Kakeru。あの男には危うさがある。勝つために、多くのものを犠牲にしてしまう危うさがある。ああいうタイプは一度暴走を始めてしまえば、誰であろうと止めるのは難しいんです」
的井翔琉に危うさがあると言うのはよく分かる。さっきも、それを肌に感じたばかりだ。
「今日の大敗をきっかけに、もしかしたら彼は大きく変わってしまうかもしれません。そうならないように、彼を繋ぎとめることが可能なのはチームの仲間です。マネージャーのあなたです。だから、彼が暴走しないよう親身に見守ってあげてください。きっと、彼には、そういう仲間が必要なんです」
彼は私から顔を逸らすと、ちょうど聞き取れない声量で小さくつぶやいた。
「魔王はふたりもいらない」
何を言ったかは分からなかったが、その表情には後悔のようなものがあった。
私たちのチームのことを思い、警告してくれたことはありがたいが、けれどひとつ、どうしても言い返せねばならないことがある。
「『CONTRAIL』はまだ負けていません。後半戦はこれからですから」
なぜ負ける前提で話すのか。それだけがどうしても気に食わない。
「負けますよ」
まるで未来を全て見通してきたかのように、確信した顔で言う。
「彼らはプロの世界を知ったばかりだ。そして僕から言わせてもらえば、まだ挑戦者……」
いや。とかぶりを振って、言い直した。
「挑戦者にすら、なれていない」
おまけ
Yuzu
本名は白金柚。趣味は男装と音楽鑑賞で最近はkpopにはまっている。ルービックキューブや知恵の輪などのパズルも好き。




