Chapter1-Section4 世界一を目指すつもりはありますか?
『はあい』
おそらく母親だろう。女性の声がスピーカー越しに聞こえた。
「こんにちは。株式会社サンクラウドテックの朝日と申します」
『あら! もうこんな時間……! カケルう! 昨日電話してた人が来たわよ!』
少しして扉が開かれると、綺麗な女性が現れた。髪は明るい茶色のポニーテールで向日葵柄のエプロンを首から下げている。肌は透き通るように白く瑞々しく潤っていた。17歳の息子がいるのだからいい年齢のはずだが皺は目立たない。丁寧なスキンケアをしているのが分かる。
「どうも初めまして。息子がお世話になってますう」
「あ、いえ。まだ息子さんとは特に何も……」
「あらやだ。そうでした。お世話になるのはこれからですもんねー。どうぞ、どうぞ。上がってください!」
「失礼します……」
家に上がると、廊下の突き当りのリビングまで案内された。部屋の手前にカウンターキッチンと四人掛けのテーブル。奥にはグレーのソファと液晶テレビがあった。
「すみませんねえ。こんな格好で。最近は私、すっかりマフィン作りにハマってまして。今も作ってたんですよ。多分もうそろそろ……」
チン。とキッチンの方で音が鳴った。
「きたきた……!」
母親は小走りでキッチンに駆けてくとオーブンからトレーを取り出した。トレーから出来立てのマフィンを容器に移すとテーブルまで持っていき中央に置いた。
「ほら! せっかくだから食べてください」
私はテーブルに腰掛けると「いただきます」と容器からマフィンをひとつ手に取って、かじった。
「美味しい……!」
お世辞なんかではなかった。生地はしっとりとしていて、バターも効いていて、チョコチップの量もちょうどいい。お金を払ってでも食べたい、まさに理想のマフィンだった。
「でしょう? コツはバターも卵も常温にしてから使うといいの。あと混ぜ加減も大事。生地をしっとりとさせるには混ぜ足りないのも混ぜ過ぎもダメ。小さなツブツブが残るくらい丁度よく混ぜるのがベスト。これは経験がいるのよ」
母親は自慢げに語りながら、マフィンを頬張った。
「完璧だわ。さすが私ね」
自作のマフィンに感心している母親の姿を見つめていると、彼女は私の視線に気付き、はっと口を押さえた。
「あらそうだった……! こんなことしてる場合じゃないですよね」
彼女は天井を睨むと「カケル!」と声を張り上げた。
「降りてきなさい! 可愛いお嬢さんがあんたを待ってるわよ! それと私のマフィンを食べなさい!」
それでも彼はやってくる気配は無かった。声すらも返ってこない。
「本当にごめんなさい。こういう子なの」
母親は気まずそうに肩を竦めた。
「でもあなたを無下にしている訳じゃない。もうすぐ絶対に来るから」
三雲進という男しかり、ゲーマーという人種は生来の自由人という素質を併せ持つものなのだろうか。
本来であればこの身勝手さは怒れるところだが、今回はこの最上級のマフィンのもてなしに免じて許してやろう。
私がマフィンをひとつ食べ終わった頃合いに彼はようやく現れた。無言で部屋に入ってくると、ぼさぼさの黒髪を掻きむしりながらテーブルに座った。
中性的な顔立ちで、大きな眼の下には薄い隈が出来ていた。覇気はないけれど、ほっとけない何かを秘めているような不気味さがあった。
「ほら挨拶」
母親に促されて、彼はゆっくりと頭を下げた。
「どうも。的井翔琉です」
「初めまして翔琉さん。私は株式会社サンクラウドテックの朝日玲と申します」
私は名刺を取り出して彼に渡した。彼は黙って受け取ると、じっとその名刺を見つめた。
「あんたまずは謝りなさい! ひと様を待たせたんだから」
「たったの5分だけだよ」
「いいえ。母さんはちゃんと数えてました。8分よ」
「そんなの誤差じゃん」
「まあ、そうかも?」
二人の会話は唐突に途切れ、彼らは私に向き直った。
「え……?」
思いがけず私が狼狽えると、母親は「あら。いけない」と顔を横に向けた。
「あんた話を逸らしたわね。あなたが遅れてここにやってきたことを謝りなさいと言っているの。何分遅れたかなんて関係ないわ!」
「別に話逸らしてないけど……」
「謝りなさい!」
すみません。と彼はぼそっと言うが、頭は下げなかった。そんな彼を見て母親が代わりにとばかりに深々と頭を下げた。
他人の時間を奪うという愚かしい行為をしておいて、なんで謝らなければいけないのかも分かっていないのだろう。たとえ高校生であろうとそれくらいの分別はついていていいものだが。
「いいえ。そんな謝るほどのことでは……。私は気にしていませんので」
ここは大人として、私が穏便な対応をしよう。マフィンのご恩もある。できることなら最後に何個かもらって帰ろう。
「さっそく本題に入りましょう」
私は契約書を取り出して、契約の内容について事細かに説明した。ときおり母親は質問として口を挟んだが、肝心の的井翔琉はなにも言わなかった。
彼はただじっと見ていた。猫のような目で私を見つめていた。その人間は信用できるのか、できないのか見定めているような、そんな瞳だった。
「では今の説明でご納得頂けるようであれば、契約書にサインをお願い致します」
「そうね……」
母親は感慨深げに契約書を眺めた。
「まさかゲームでお金が稼げるなんてね……。この子がこの時代に産まれて本当に良かったわ」
どう? 母親は的井翔琉に優しく問いかけた。
「高校にも許可貰っているし。私からは何も言うことはないわ。翔琉の好きなようにしなさい」
的井翔琉は小さく頷くと、目線を上げ私を見た。覇気の無い表情からは想像もつかない力の宿った瞳だった。
「ひとつ質問してもいいですか?」
「はい勿論です」
「世界一を目指すつもりはありますか?」
唐突に姿を現した迫力に、ゾクッと背筋が凍った。
この少年の不気味さの正体が分かった。それは彼の深淵から見え隠れする熱い炎だ。揺るがぬ自信だ。巨大な野心だ。
私は言葉を探したのち結局無難な答えに落ち着いた。
「はい。一緒に頑張りましょう!」
本心ではないが、適切な言葉だと思う。
「そうですか」
的井翔琉は目を伏せた。そして小さく溜息をこぼした。
胸にちくりと痛みが走った。
彼の態度の意味を探るなら、失望、辟易、呆れ、どれもぴったりと当てはまりそうだった。
見え透いた嘘に聞こえたのだろうか。正直にどうでもいいと言えばよかったのだろうか。そんなわけがない。彼も大人になったときには分かってくれるだろう。人を傷つけないための嘘は社会に必要だ。
私の言葉は適切であったはずだ。
的井翔琉は左手でペンを取り、契約書のサイン欄にペンを持っていく。
「待ってください!」
気付けば口走っていた。契約書に手を伸ばし、自分の方に引き寄せた。
そんな私を、二人はきょとんとして見つめていた。
「朝日さん……?」母親がポニーテールを揺らして首を傾けた。
「申しわけありません……」
無性に自分が情けなくて、腹立たしくなって声が震えた。
「出直させて下さい」
おまけ
レイ「あの…………」
母親「どうしました?」
レイ「最後に一つだけいいでしょうか?」
母親「なにかしら?」
レイ「マフィンの……ことです」
母親「まあ! ひとつと言わず、2個でも3個でも!」