Chapter1-Section1 拝啓。昨日の私へ。
拝啓。昨日の私へ。
貴方は今、相当意気込んでいることでしょう。社長がesportsなるものへ参入をしようという笑止千万なことを真面目な顔で語り出したものだから、それがいかに無謀、愚かであるのかを証明する完全無欠なレポートを作成してやるのだと……。今日の私であれば貴方に教えてあげることが出来るのです。それは全て無駄に終わるので不要です。どれほど完璧なレポートを貴方が作成しようと結果は何も変わらないのです。だから何も頑張らなくていいんです。徹夜などせず寝てください。美肌と健康のために寝てください。そして今日の私のために、どうか寝てください。たっぷりと。健やかに。
私は頭の中で、とっさにそんな手紙をしたためた。今この瞬間ほど、過去に転送できる手紙があればいいのにと思ったことはない。
「よろしくね。玲ちゃん」
カフェテリアの店内に流れる洒落たミュージックに、その声は溶け込む。私の前で二十歳になったばかりの青年が爽やかに笑っている。パーマのかかった金髪の毛先が若さと内に宿るエネルギーを象徴するかのように、あちらこちらに向いていた。
どうしてこんなことになってしまったのか。それもこれも全部、あの三雲社長のせいだ。
私は単純明快に、かつ懇切丁寧に我が社のesports参入がどれほど困難であるかを教えたはずだ。なのに……。なのに……! あの社長は……!
―でもさ。そんなこと言われても、もう決めちゃったことだからさ。宜しく頼むよ―
ふざけんな! なにが宜しく頼むよ、だ! 返せ! 私の美肌と健康を! ていうかなんで私が取り纏めることになってんの!?
「社長秘書って言ってもどうせただのおばさんが来ると思ってたけど、玲ちゃんは若くて可愛いね。俺と歳近いんじゃない? ていうか玲ちゃん顔恐いよ? 怒ってる?」
青年は首を傾けて私の顔を覗きこんだ。右耳にぶら下げたシルバーのピアスが窓から差し込む陽光を反射させ、きらりと光った。
「失礼しました。もちろん怒ってなんかいませんよ」
私は眼鏡の縁をつまんで、くいと持ち上げた。落ち着け、私。朝日玲。感情を顔に出す人間なんて大人として三流だ。悪いのは全部いい加減な三雲社長であって、この青年じゃない。この子は我が社と選手契約が出来るという社長の甘い誘いに乗っかっただけに過ぎない。ん? でもちょっと待って。それらを差し引いても、この子なんか失礼な感じじゃない? 初対面だよね?
まあいいわ。どうせ長続きすることの無い関係性なのだから。
「社長秘書と言っても弊社の社員は少数なので、私は秘書兼事務員のようなものです。今後esportsチームの指揮・運営は私が執らせて頂きます」
「なんか玲ちゃん固いねー。サラリーマンみたい」
「サラリーマンですから」
「せっかく歳も近そうなんだから。俺としてはもっとフランクな感じにいきたいけどなあ……」
「さっそく契約の話に移りましょう」
「ねえ。玲ちゃん聞いてる?」
「契約のための書類を持って来たので、まずはこちらに目を通してください」
「大胆な無視するね」
私とてもう二十五歳だ。世間からはすっかり大人として見られる年齢なのだ。学生の軽いノリに付き合えるほど馬鹿にはなれないし、暇でもない。会社に戻れば山積みの仕事が残っている。しかし大人の価値観を、社会の輪郭すらまだ知らないような二十歳の青年に強要するほど酷な人間にもなれない。
だからこそ必要なのは、適切な距離感を保つことだと私は思う。
私は鞄から大小二枚の書類を取り出すと机の上に並べた。
「一枚は契約内容を記した書類。もう一枚は契約にサインする書類です」
「ふーん。ボールペンある?」
青年は訊きながら書類を手に取った。手元でぺらぺらと紙を揺らしながら、興味なさげに紙面の文字をなぞっている。
「どんなこと書いてあるの?」
私はシャツの胸ポケットからボールペンを取り出し、彼の前にそっと置いた。
「口頭で概要をお伝えすると、選手契約期間と契約期間中の給与額。あとは契約をする上で順守して頂きたいことを記載しています。要は弊社の利益の為に最低限やる必要のあること。弊社の不利益を防ぐために気を付けて頂きたい事項です」
「契約期間と給与を具体的に教えてよ」
それが書いてある書類なのだと教えても、この青年は簡単には読んでくれないだろう。
「期間は約四ヶ月。成績次第で延長も見込んでいます。給与は15万5千円です。もしプロリーグに昇格すれば、その月から23万円に昇給します」
「オーケー。分かった。それでいいよ」
青年はペンを取るや否や、契約書にサインを綴った。三雲進と。彼が社長と同じ苗字なのは親族なのだから偶然じゃない。
「ちょ、困ります! 契約書はちゃんと読んでください……!」
「なんで? 玲ちゃんが教えてくれたじゃん」
「他にもたくさん書いてあるんです! それに私が適当なことを言っていたらどうするんですか!」
「大丈夫だよ。俺、伯父さんのこと信じてるし。その伯父さんが信用してる玲ちゃんのこともね」
呆れた。あの能天気な社長にしてこの青年ありだ。リスクを鑑みるという重要さを彼らは知らないのだろうか。
「信用だけで世の中は成り立たないから契約書があるんです。自分を守るためにも――」
「世界一になるまで……」
「はい?」
「世界一になるまで、俺にゲームをさせてくれるならそれでいい」
青年の黒い瞳は自信に満ちていた。ふざけた物言いには似合わない真剣な顔をしている。そこで私は、ようやく三雲進という青年の顔をじっくりと見つめた。顔はどこか涼しげで塩顔。奥二重の下にやや細長い目。薄い唇。女の子によってはイケメンだと表現するかもなってくらいの、どこか惜しい顔立ちだった。
「今の、契約に含まれてる?」
「いいえ。先ほど申し上げたとおり、延長が無い限り契約期間は四ヶ月です」
「あ。そうじゃん」
やっぱりふざけた男だ。私は溜息まじりにサインの書かれた契約書を鞄に戻した。
興味ない。ゲームも。この男も。ましてやesportsなんて。そんな私がマネージャー?
ありえない。ありえない。
この時の私はまだ知らなかった。
esportsの熱気を、興奮を、感動を。それらを知るのはもう少しだけ、あとのことだから。
おまけ
レイ「以上の理由から当社にeSportsチームの運営は不可能です。社長、残念ですが諦めましょう」
社長「でもさ。そんなこと言われても、もう決めちゃったことだからさ。宜しく頼むよ」
レイ「なら勝手にしてください。どうなっても私は知りませんので」
社長「よろしく、て君に言ったんだよ?」
レイ「え……」