Chapter1-Section9 だから?
それがどれくらいの遅刻かというと、3時間の大遅刻だった。遅刻の理由はゲームをしていたから。
ありえない! 恥ずかしい! 死にたい!
的井翔琉宅に着いた頃には18時を回っていた。
震えた指でインターホンを押すと「はーい」と昨日と変わらない声がスピーカーから聞こえた。的井翔琉の母親の声が。
「大変申し訳ありませんでした!」
リビングの椅子に座るや否や、私は二人の前で深々と頭を下げた。
「いいですよー。気にしなくて。私達は家でくつろいでいただけなんだから。むしろわざわざ東京からこんなところまで来ていただいて私達が謝りたいわ」
「謝りたい? なんで?」
「あんたは黙ってなさい!」
母親はキョトンとする息子を一喝した。
「それに二日も続けて……。大変だったでしょう」
「いえ……! それは私がお願いしたことなので……」
「お仕事が立て込んでいたんでしょう? 大丈夫よ。こういうのは主人で慣れっこなんだから」
私は頭を上げられずにいた。母親の優しい救いが蜘蛛の糸のように天から垂れ下がった。
はい。と言いたかった。
しかしそれは大きな嘘になる。私が出直して今日ここにやって来たのは誤魔化さずに的井翔琉と向き合うためだ。彼らを裏切るくらいなら本当のことを言って失望されよう。そういう大人でありたいと思った自分を裏切るな。
「違うんです……。私は……、ゲームをしていて……遅刻してしまいました……」
「あらま!」母親の驚いた声が聞こえる。頭を下げたままでは顔を見ることもできないが、どんな表情をしているかなんて容易に想像つく。
「何のゲームですか?」
的井翔琉の静かな声を聞くと、彼の溜息の音を思い出す。唇が震えた。
「インパーフェクトです……」
沈黙があった。それは永遠と思うほどの長い沈黙に感じたが、実際のところはそこまででもなかったかもしれない。ただただ、その時間は堪らなく恐かった。
「どうでした?」
この少年の声は、どうしてこんなにも静かでいて、鋭いのだろう。おそらく彼はいま、私の一語一句を見定めようとしている。嘘のある大人かどうか。
「熱中しました。時間を忘れてしまうほどに……。面白かったです」
本心だ。私はもう、たかがゲーム、なんて思わない。
「だから?」
静かな声。熱のない声。ただ、表も裏もない、無垢な問いかけ。
「まといかけるさん」
ゆっくりと顔を上げた。
私にできる限り精一杯に、誠実に、彼の目を見る。
ありふれた大人が重宝するお世辞も社交辞令も、きっと、この少年は求めていない。
求めているのはただ……。
「あなたが世界一を目指すなら、私もそれに見合うサポートを全力でします」
少女のころの私が求めていたものを、彼は大人に求めている。
「すみません」向き合え。しっかりと。真面目さだけが、私の取り柄だろ。「前回は嘘でした」
前に座るふたりの目が丸くなる。「でも」
「今回は本気です」
届いただろうか。伝わっただろうか。
彼は、ふ、と笑った。とても小さく。けれど確かに。頬にえくぼが浮かぶと幼さが際立つ。その顔立ちは、やはりまだ少年だ。
「よろしくお願いします」彼は言った。
「よろしくお願いします」と私も返した。
「契約書、出せますか?」
「あ、はい……!」
そこからは余りにもすんなりと契約は決まった。彼の真意は分からないままだった。けれど的井翔琉は私に警戒の眼を向けなくなった。そして母親からは蜂蜜リンゴ入りマフィンのおもてなしを受けた。
最後に握手を求めると、彼は何も言わず、私の手を握り返した。私よりも熱のある手だった。
私は帰路についた。タクシーの窓の外を見やると、もうすっかり夜になっていた。
もし、自分の人生にターニングポイントを付けるなら、今日は間違いなくそのひとつになるだろう。
誰が言い出したのか、燃える情熱とは巧く例えたものだ。的井翔琉の手を握ったあのとき、彼の炎は私に燃え移ったのかもしれない。あの瞬間、この仕事を本気で頑張ろうと、私は思ったのだから。
タクシーは丘の上を走る。そこからは夜の市街地が一望できた。濃紺色の街のキャンパスに街灯りが色を塗りつけて、それはまるでアニメ映画のとっておきのワンシーンのように、輝かしく美しい景色だった。
「本当だ」
「なにか仰いました?」と尋ねる運転手に「いえ。なにも」と私は返した。
おまけ
的井翔琉は偏食家で朝食と昼食はお菓子を食べ、夕食はオムライスかハヤシライスしか食べない。