お嬢様は今日も美しい
「フランチェスカ・ローシャス。こちらに来い」
唐突にホールに響き渡る怒声。
今日は学園のダンスパーティー。華やかに着飾った生徒たちがダンスや歓談を楽しんでいたそんなところに似つかわしくない不快な声が私の耳に届いた。
声の主はベルナルド王太子。金髪碧眼の整った容姿にすらりとした体型はまさしく王子様という感じ。ではあるけれど……今は苛ついているのか顔が歪んで見えて醜い。
そして、その王太子の隣には一人の令嬢が仲良さげに並んで立っている。まるで婚約者であるかのように。
彼女の名前はコレット・ラウザード男爵令嬢。
ふわふわしたローズピンクの髪にくりっとした空色の瞳。可愛らしい容姿と華奢な体が庇護欲をそそるのだろう。少しの怯えを見せつつ、さらに王太子にしがみつく男爵令嬢には浅ましさしか感じない。
賑やかに華やいでいたホールは今は水を打ったように静かだ。
皆が王太子たちに注目し成り行きを見つめている。
生徒間の交流を目的に開催されるダンスパーティーを誰もが楽しみにしていた。それなのに、穏やかに流れていた空気を王太子が不快な怒声とともにぶち壊してしまったのだ。
まったく、何を考えていることやら。
「何をしている。フランチェスカ。早く来い」
苛ついた王太子が声を荒げる。
「仰せのままに」
隣から凛とした声が響いた。
ふわりと甘い香りが鼻をかすめ、さらりと長い髪が揺れる。
淡い金色の髪と新緑の若葉のような翠の瞳。白磁のごとくなめらかな白い肌に無機質にも見えるお人形のように整った容貌は、まるで春の到来を告げる初春の女神を具現化したかのよう。
「……お嬢様」
私の隣から離れて王太子の元へと歩みを進めていく一人の令嬢。
そのお方の名前はフランチェスカ・ローシャス公爵令嬢。私マリエ・テンベルク子爵令嬢が侍女としてお仕えしているお嬢様なのです。
シャラン、シャランと神聖な鈴の音が聞こえてきそうな優雅な足取りで進んでいく。
お嬢様が、一歩、一歩進むたびに周りの生徒たちから感嘆のため息が零れ、息をするのも忘れて見惚れる者もいる。
そうでしょう。そうでしょう。
お嬢様は美しい。
ひれ伏したくなるような衝動にも駆られる神秘性をともなった美しさ。
私も五年ほどお仕えしておりますが、未だにその美しさにドキドキしますし、見惚れますし、うっとりとしてしまって、お世話の手が止まってしまうこともしばしばでなかなか慣れません。
多分これは一生続くのではないかと思っています。それほど、お嬢様は美しいのです。
それに、お嬢様は美しいだけではなく学業も優秀。語学も堪能、マナーも完璧。
少々、無口ではありますが、その分余計な無駄話や噂話や悪口などなさいませんしそれらに惑わされることはないので安心です。
そんなお嬢様の唯一の汚点。
それは……
男爵令嬢を引き寄せ腰に手をまわして、これ見よがしに見せつけている王太子。
寄り添う相手、間違っていますけど。
本来なら王太子の横にいるのはお嬢様のはずなんですけどね。何を血迷っているのやら。
そうなのです。お嬢様の唯一の汚点。
それは、王太子の婚約者だということ。
決して優秀とは言えない王太子殿下。彼は正妃様のお子ではありますが第二王子。正妃様のご実家は、可もなく不可もない何の力も持たない伯爵家。
対して第一王子をお生みになった側妃様のご実家は政治・経済にも多大な力を持っている侯爵家。
第一王子の上に権力も強大な側妃様に対抗するには強力な後ろ盾が必要不可欠。
そこで、たまたま同い年だった筆頭公爵家のお嬢様に白羽の矢が立ってしまった。
王族の臣籍降下で興ったローシャス家。血筋も財力も申し分ないのが災いしてしまった。政治事には関心がなく、ましてや娘を王太子妃になどと考えていなかった当家。
公爵である旦那様もずいぶんと頑張って下さったようなのですが、再三の懇願に根負けしたというのか、王家に逆らい続けるのも不敬に当たるとして渋々了承する形で収まった。
当のお嬢様は王太子には微塵の興味も示さず、我関せずを貫いていらっしゃる。王太子もお嬢様がお気に召さなかったのか、最初から傲慢で不遜な態度を隠さなかったですからね。
貴族の婚約というものに本人同士の意思など関係ないとはいえ、できれば好感を持てる相手であればよかったのですが。
なまけ癖のある王太子で王家の教育もさぼり気味であまり進んでいないとか、視察と称してお付きの者の目を掻い潜って下町で豪遊しているとか、婚約者ではない令嬢を常に侍らせているとか……どこまで本当なのかわりませんが悪い噂に事欠かない王太子。
そんな中でも、婚約者でない令嬢を侍らせるというのは真実ですね。現に今目の前に隠すこともなく、男爵令嬢が婚約者のごとくぴったりと寄り添っているのですから。
やがて、湖に張った静謐な水面のごとく清閑な佇まいで王太子と対峙されたお嬢様。
さて、どんな結末になるのやら、お嬢様のおそばに控えつつ、とくと拝見いたしましょう。
「お久しゅうございます。王太子殿下」
久しいとはこれ如何に。
学園でも顔を合わせることはほとんどない。昼食でさえも誘われることも誘うこともないドライな関係。
このような関係で将来は大丈夫なのかと不安視する声も一部には聞こえますが、それでも生徒たちは未来の王太子妃として敬意を払ってくれている。
どこを見渡してもお嬢様ほど王太子妃に相応しい方はいらっしゃらないですからね。
涼やかな小鳥のさえずりのような声で挨拶をすると、最上級のカーテシーを披露するお嬢様。そんな優雅な仕草に瞠目する王太子。一連の動作は洗練されていて王太子が言葉を失うのも無理はない。
しんと静まり返ったホールの中が羨望の眼差しと熱い吐息が漏れて若干熱を帯びる。
場の雰囲気を掌握したといっても過言ではない様子に私は一人ほくそ笑む。
「なんだ。その態度は、悪びれもせず、のこのこと出てくるとは。厚顔無恥も甚だしい」
人差し指をお嬢様に突き付け怒鳴り散らす王太子。
のこのこ出てくるとか、何を言っているのか。あなたが呼び出したのでしょうに。そうでなければ、今頃はダンスパーティーを楽しんでいるはずだったのですが。
TPOもわきまえず、場を壊していることさえも気づかない王太子の茶番劇に付き合っているだけでも感謝してほしいものですね。
お嬢様と目が合った時に見惚れていましたよね? 目元がうっすらと赤くなっているように見えますが。
「お呼びだと耳に致しましたので伺ったのですが、必要なかったということでよろしいでしょうか?」
用がなければ退散する素振りを見せるお嬢様に慌てる王太子。嫌味まがいのセリフにも動揺も見せず淡々と返されては、立つ瀬がない。
「い、いや……そうじゃない」
「ベルさまぁ」
場にそぐわない甘ったるい声がした。親しく愛称で呼び、うるるんとした瞳で上目遣いで王太子を見つめ、指を絡めて体を密着させる男爵令嬢。
以前は平民だったという彼女は男女問わず身分関係なく馴れ馴れしい。貴族令嬢らしくない行動は、人によっては新鮮に映るようで。これが彼女の武器なのでしょう。王太子がデレたのがわかった。
男子生徒の中にも彼女に好意を寄せている者もいるとか、親衛隊がいるとかいないとか……。噂ですけどね。
「ああ、わかっている」
我に返ったのか一つ咳ばらいをして口を開くと
「フランチェスカ。お前は公爵令嬢という身分と俺の婚約者であることを笠に着て、コレットをいじめたな」
なんともありえないことを言い始めた。
「コレット?」
お嬢様は首を傾げる。
「そうだ。ここにいるコレット・ラウザード男爵令嬢だ。彼女が涙ながらに訴えたのだ。お前にいじめられているとな。教科書を破いたり、ダンスの授業で使うドレスをぼろぼろにされて、制服で出席せざるを得なかったり。ほかにも酷いことを多々やっていたようだな」
「そのようなことをわたくしがやったと?」
「おまえしかないだろう。他に誰がそんなことをするというのだ。とぼけるのは無しにしろ。今、謝罪すれば許してやらんこともない」
「身に覚えのないことで謝罪などできませんわ。それにこのお方がコレット様だったのですね。初めて知りました」
学園内でも姿は見かけても別段興味もなくお過ごしでしたから、名前を知ろうとは思ってもいなかったのでしょうね。彼女のことが話題にのぼることはなかったですし。
「可愛らしいお方ですわね」
男爵令嬢に目を向けるお嬢様。なぜだか、ポッと頬を染める男爵令嬢。気持ちはわかります。美しいお嬢様に褒められて悪い気はしないでしょう。
「はあ? ふざけるな。嘘をつくんじゃない。初めからから知っているくせに。だから、嫌がらせをしていたんだろう。コレットに嫉妬して」
「……⁇」
少し、ほんの少し眉を顰めるお嬢様。
「申し訳ございませんが、おっしゃっている意味が分かりません。嫌がらせ等やってはおりませんし、嫉妬などという感情も持ち合わせてはおりません」
きっぱりと告げた言葉にプッと小さく誰かが吹き出す声が聞こえた。それも複数。
王太子に慕う気持ちはないとバッサリと切って捨てるように言われては、笑いたくもなるというもの。けれど、それもすぐに消えてしまった。ここはシリアスな場面ですからね。話の腰を折ってはいけません。
ちょっと、面白くなってきました。
「な、なにを……」
王太子は顔を真っ赤にさせて口をパクパクさせています。二の句を告げない様子。
思いもかけないことを言われたと思ったのでしょうか? お互い歩み寄る気のない関係なのに、自分は好かれているとでも思っていたのでしょうか? ちゃんちゃらおかしいのですが。
「そ、そうか、なら。本日をもってフランチェスカ・ローシャス公爵令嬢との婚約破棄をここに宣言する。そして、新しくコレット・ダウザード男爵令嬢と婚約を結ぶこととする。だが、コレットへの数々のいじめの償いはしてもらうぞ。いいな」
得意満面に偉そうに高らかに宣言してしまった王太子ですが、いいのですかね。お嬢様との婚約は王命ですよ。
最後は、国王陛下が土下座まがいのことをして成約されたものであるらしいのですが、よろしいのですか? 苦労をして、再三懇願してやっともぎ取った婚約を勝手に破棄してもよろしいのですか?
ローシャス公爵家のご令嬢ならば致し方ないと側妃様の侯爵家も後継者争いから手を引いたという経緯をご存じないのでしょうか。
男爵令嬢の口元が綻び、勝ち誇ったような瞳がお嬢様を捉える。
運よく王太子と結ばれても王太子妃になれるとは限らないのに、大丈夫なんでしょうかね。
男爵家では王太子の後ろ盾にはなれない。そう甘いものではないのに、これからいばらの道が待っているかもしれないのに。
まあ、こちらは、誰が王太子になろうと国王になろうと関心はほとんどありませんけど。
「何を勝手なことを言っているんだ」
不意に男性の声が聞こえた。
役者がまた一人増えたようです。
声の主はルーカス第一王子殿下。
半年早く生まれた殿下と王太子は同い年である。
艶のある栗色の髪、琥珀色の瞳。野性味を帯びた精悍な顔立ちに鍛えられた体躯。剣が趣味だとおっしゃっていたので、日頃から鍛えていらっしゃるのでしょう。
周りの女生徒たちが色めき立つ気配がした。殿下はモテる。婚約者もいらっしゃらないので余計に。
「邪魔をするな。お前には関係ないだろう」
割って入ってきた殿下を見るなり、王太子は顔を顰める。
「そうもいかないだろう。婚約破棄などと言われては放っておくわけにはいかない。俺も王族の一人として居合わせた者としてな」
まずい奴に見つかったとばかりにますます顔を顰める王太子。
「王太子としての俺の問題だ。口出しはやめてもらおう」
「それはそうだな。婚約も婚約破棄もお前の問題だ。だが、学園でのいじめに関しては生徒会長として看過できないな。そのようなことが起こっていたのであれば、徹底的に調査をして再発防止に努めなければいけない」
婚約破棄について物申すのかと思っていましたが、いじめのほうですか。殿下って、正義感が強かったのですね。殿下の言葉にざわざわと周りが騒がしくなってきました。
男爵令嬢が王太子の袖をキュッと掴んで青ざめている様子が目に入る。当事者ですものね。こちらには非はないとわかっていますから、堂々としていられますが、男爵令嬢はどうなんでしょう? 心境を聞いてみたい気もします。王太子が味方だから、嘘をついても大丈夫と高を括っているかもしれませんが。
「何をそのような。すでに証拠は挙がっている。今更調査することでもないだろう」
「そうかな? 現にローシャス公爵令嬢は否定をしている。そうだよね?」
同意を促すように目を向ける殿下に
「はい。わたくしは全く身に覚えがありません」
お嬢様は首肯する。
「それで、ダウザード男爵令嬢はどのようないじめを受けたのかな?」
「……ベルさまぁ。怖い」
怯えたように王太子の腕にしがみつく男爵令嬢の肩を抱きしめて、ギッと殿下を睨みつける。
「こんな怖い思いをしているのに、まだ痛めつける気か? いい加減にしろ」
「状況をきちんと把握しなくてはまた同じことが起こるかもしれない。それを防ぐためのものだ。ダウザード男爵令嬢のためにも犯人を明らかにしないと安心して学園生活を送れないだろう?」
至って冷静な殿下の物言いに王太子も黙り込んでしまう。
その通り。お嬢様ではないとはいえ、いつまでも疑われたままでは気分が悪いですからね。さっさと白黒をつけてもらいたいものです。
「それはそうだが、しかし……」
「ベルさま、大丈夫です。わたし、頑張ります」
胸の前で両手で握りこぶしを作る男爵令嬢を愛おし気に見つめる王太子。
何を見せられているんですかね。あなたたち婚約者同士でも恋人同士でもありませんけど。周りの空気がひんやりとしてきたのは気のせいではないはず。
お嬢様は無表情で二人を見ています。なんの感情も読み取れません。もともと、表情変化に乏しいお嬢様でもありますが、はなから興味対象外なので感情も揺れ動かないのでしょうね。
「えっ……と。始めは……教科書が、無くなっていて。忘れ物をしたのかなって思っていて、でも家を探してもなくて、あれって、思っていたら教室のごみ箱に捨てられていて……」
つっかえつっかえ、時にはぐすっと涙ぐみつつ、おずおずといった体で話し出す男爵令嬢。
これが演技なら……演技でしょうけれど。人気女優になれるのではないかしらね。卒業後は女優を目指すことをお勧めするわ。
それにしてもせっかくのダンスパーティーが台無し。
生徒会長の権限でこの茶番劇をさっさと終わらせてくれないかしら。
ずっと立ちっぱなしだし、お嬢様は大丈夫かしら? お疲れではないかしら。これ以上長引きそうなら、椅子をお持ちして座っていただきたいわ。場所を移すのもいいと思う。他の生徒たちには関係なさそうですし。
「そして、次の日は教科書が破られていて……机の上に散乱していたんです」
ポロリと涙をこぼして話す男爵令嬢の背中を励ますようにさする王太子。仲が良くて結構なことですわね。
「それで、誰か目撃者はいるのかい?」
「いえ、移動教室から帰ってきた時なので、誰も見ていないんです」
「そうか。他には?」
殿下は先を促す。
「あとは……ダンスの練習に使うドレスが、破られていたことがありました」
「ドレスか……個人のロッカーにしまうことになっているはずだよね。鍵も各々が管理しているはずだが」
そうですね。ドレスは個人の所有物なので管理は本人が責任をもって行うことになっている。ドレスは嵩張るし持ち運びも大変なのでロッカーにしまっているのが当たり前になっている。鍵をかけるのだって常識である。
「でも、鍵が壊されていて……ドレスがめちゃくちゃになっていて、授業で着れなかったんです」
男爵令嬢はその時のことを思い出したのか、ぐずぐずと泣き始めた。
「コレット……」
王太子も同情しているのか痛ましい顔をしている。
「俺もドレスを見せてもらったんだが、まるで憎悪に駆られたかのように切り裂かれて、無残な姿だった」
お前がやったんだろうとばかりに王太子は顔を歪めてギッとお嬢様を睨みつける。
「鍵を壊された? 生徒会のほうには上がってきてないな。備品が壊れた際の修理は学園でやってくれるが、報告だけでもこちらに上がってくるはず。だが、そんな報告は受けていないな」
「そうだったのか? そんなことは知らなかったから内々で済ませたんだが、コレットがいじめられていることを知られたくないって言っていたから」
「あの……ごめんなさい」
男爵令嬢がぺこりと小さく頭を下げる。
王太子の権限で学園側を丸め込んで口止めでもしていたのでしょうね。自作自演の線も含めて疚しいことがあるから、公にしたくなかったのかも。しっかし、何がしたいんでしょうかね。
「それで、その時の目撃者はいるのか?」
「いえ……人の気配はなくて、その、気づいた時には、すでに破かれた後だったんです」
これも目撃者なしとは都合がいいこと。
「それで、よくローシャス公爵令嬢がいじめていたと言えるな」
半ば呆れたように男爵令嬢を見遣る殿下は大きくため息をついた。
「だって、他に心当たりが……」
冷たく一瞥されて男爵令嬢の声がしりすぼみに小さくなっていく。
「ルーカス。これ以上、コレットを責めるな。一番苦しい思いをしているのは彼女なんだぞ。それなのに、否定ばかりしてコレットの言い分を聞こうともしない。それでも生徒会長なのか? 弱い者に味方をするのが当たり前のことだろう」
男爵令嬢を背に庇いながら王太子が捲し立てる。
「別に責めているわけではない。公平に判断するために状況を把握したいだけだ」
「ははっ。それは詭弁だろう? 俺の目にはお前があいつの味方で肩入れしているようにしか見えないんだがな」
あちらが明らかに不利だから、彼女を庇うために難癖付けてくるのでしょう。
婚約者を取られた哀れな公爵令嬢が嫉妬に狂って嫌がらせをしていると訴えて、殿下の寵愛を名実ともにしたかったのかしらね。
「ベルナルド。お前は王太子なのだから、もっと冷静に広い視野を持たないとな。懇意にしている令嬢だからとすべてを鵜吞みにするのもどうかと思うが」
もっとなことを言われて諭されてカッと頭に血がのぼった王太子。真っ赤な顔をして両手のこぶしを震わせていた。
男爵令嬢は背中越しに殿下とお嬢様の様子を交互に窺っている。悪びれている様子はなさそう。
お嬢様の表情は無のまま。若干飽きてきていらっしゃるのではないかしら。
「黙れ。俺に指図をするんじゃない。それよりも俺は知っているんだぞ。ルーカス、お前、フランチェスカと浮気をしているだろう。お前こそ不貞を働いているんじゃないか」
王太子の衝撃的な発言に会場中が凍り付いてしまった。
虚を衝く王太子の発言に生徒たちがざわついた。
初耳だっただけに、皆の興味を煽りますます注目を集めていく。もうダンスパーティーどころではない。全生徒を巻き込んだ演劇の舞台と化している。
それにしても、お嬢様と殿下が恋仲とはどういうことなのでしょう?
自分たちの行いを正当化するためか、もしくはごまかすためのでっち上げ? 婚約者がいるにもかかわらず、別の令嬢に入れあげ、いじめを訴えるも確たる証拠も示せず不利な状況ですからね。
いじめに信憑性を持たせたいのなら、目撃者も作っておかないと。ちょっと甘い。
殿下もポカンと口を開けたまま固まっていますし、お嬢様は肩で息をする王太子を凝視していますし。
どこからそんな情報が出てきたのでしょうか。
「俺が知らないとでも思ったのか?」
王太子はふんと鼻を鳴らし腕を組んで殿下とお嬢様を見下げる。
「身に覚えのないことを言われて、何と答えればいいのか。誓って言うが、俺はローシャス公爵令嬢とは何もない」
殿下は真剣な眼差しで王太子に告げる。
「わたくしも同じですわ。第一王子殿下との仲を疑われるようなことは何一つ致しておりませんわ」
きっぱりと否定するお嬢様。
その通りです。お嬢様と私はいつも行動を共にしておりますし、スケジュールの管理も行っております。殿下と会う機会などございませんし、会う必要性もありませんからね。それは、殿下も同じでしょう。
「嘘つけ。俺はこの目で見たんだぞ。二人が王宮の庭園で一緒にお茶をしているところをな。ああやって何度も会っているんだろう。俺の目を盗んでな」
王太子の目撃談にざわざわと周りが騒がしくなる。
「本当なのか?」「まさか、お二人が……」などとひそひそと声がする。
まったく何を言い出すんでしょうかね、この王太子は。
少々退屈な学園生活を送っている者からしたら、恋のスキャンダルなんて格好の餌。皆の好奇心が色濃くなって目が輝いているのがわかる。
いい加減にしてほしいわ。
ないものをあると言われたお嬢様が気の毒すぎます。清く、正しく、美しく、日々を過ごされているだけですのに。お嬢様は相変わらず無表情のままですので、感情を読み取ることはできません。
不貞というあらぬ疑いとかけられて、悲しんでいらっしゃらないとよろしいのですが。ちょっと、心配です。
「何を根拠にそんなことを? 王宮の庭園で二人でお茶? いつの話だ? 記憶にないが?」
こいつ何を言い出すんだと疑問符を張り付けた呆れ顔で王太子に目を向けた殿下。
ですよね。王宮にもご一緒する私も記憶にございませんが……記憶……
もしかして……何やら、引っかかるものが……でも、あれは……あれが……まさか……
と思った時には「あっ……」と声が出ていました。
小さな声のはずが、しんと静まり返ったホールに存外に響いてしまった。王太子に殿下とお嬢様、そして生徒たちの視線が私に突き刺さった。
「君は確か、マリエ・テンベルク子爵令嬢だったね」
殿下に名前を呼ばれて私は礼を執った。
「ルーカス第一王子殿下よりお声をかけていただき光栄に存じます」
「堅苦しい挨拶抜きで。テンベルク子爵令嬢はローシャス公爵令嬢の侍女でもあったね。声を上げたところを見ると何か思い当たる節でもあるのか?」
「はい。心当たりといいますか……」
記憶を手繰って引っかかったものがあった。王宮で二人でお茶をしたという話はある意味間違いではないけれど、厳密に言えば違うとも言えるのだけれども。
「心当たり? 一体どういうことなんだ?」
殿下の視線が痛い。咎められているようで。生徒たちの視線が痛い。好奇心と疑念に晒されて。
「ハハハッ。やっぱりそうか。お前たちはできてたんだな」
王太子の嘲笑う声が聞こえた。
「そういうことではなくて……」
お嬢様は目をぱちくりとして私を見ている。意味が分からないというような表情で。
「詳細を話してもらわないと何とも言えないな。俺には心当たりがないのだから」
そうかもしれませんね。殿下にとってはあの日のことは取るに足らない出来事だったでしょうからね。
王太子は勝ったとばかりに口の端を上げてニヤついている。
「恐れながらお答えしますと。王太子殿下がおっしゃっているのは、半年ばかり前の出来事だと思われます。元々は王太子殿下とのお茶会が開かれる予定でした。約束の時間になっても王太子殿下はお見えにならず……」
先は言葉を濁して伝えると
「ああ、あの時か。一緒にお茶をしたのは間違いないな。だが」
「そらみろ。やっぱり」
王太子の横やりが鬱陶しい。
「最後まで聞け。お茶はしたが、母である側妃も一緒だったんだがな」
「はっ? 馬鹿げた嘘をつくな。俺は見たんだぞ。お前とフランチェスカが親しそうに話をしているのをな」
「どこで見てたんだ? それにお茶会の相手はお前だっただろう。それなのに、婚約者の相手もせず何してたんだ」
「そ、それは……」
もっともなことを指摘されて口ごもる王太子。藪蛇でしたね。
はっきり言って心当たりはそれしかないのですよね。
殿下とお茶をご一緒したのはその日だけ。
それにお嬢様の隣にお座りになったのは側妃様でしたし、お嬢様も側妃様とお話になられていましたし、殿下とはほんの少しだけお言葉を交わした程度。
なので、どこをどう見たら親しい間柄と取れるのか理解しがたい。色眼鏡で見るとそのように見えたのでしょうか。本当にくだらない。遠くから眺める暇があればとっとと姿を現せばよかったものを。
怒鳴りつけたい気持ちを抑えながら私は王太子を睨む。
第一王子と婚約者のいる公爵令嬢の恋愛スキャンダルかと色めき興味津々だった生徒たちの目が、冷ややかになっていく。
「所用のために母と廊下を歩いていたら、ちょうどローシャス公爵令嬢が一人庭園のテーブルについているのが見えた。一時間ほどしてまた通ると同じように一人でいるところを見かけて、気になった母が声をかけたんだ。訳を聞くと約束したはずの王太子が来ない。連絡すらないから帰るに帰れないというので、お前と連絡が取れるまで母と一緒にお茶をしながら待っていたんだ」
ギロッとねめつける殿下の鋭い目つきに王太子はタジタジになる。
どこで見ていたか知りませんが、そんなバカげたことをやる前に姿を現してほしかったですね。
あれからほどなくして、執務が忙しく手が離せないと連絡は来ましたけれど。大方、それも苦肉の言い訳で侍従の指示だったのでしょうね。
月に何度か行われるお茶会という名の婚約者同士の交流会。
それ以降、お茶会はなくなりました。
「い、いや。それがきっかけで付き合うことになったんじゃないか。そうだろう? 俺の目はごまかされないぞ」
「何を血迷ったことを言っている。ローシャス公爵令嬢は王太子であるお前の婚約者だ。そのような相手に懸想するなどありえない。ましてや恋愛関係などと。バカも休み休み言え」
剣で空気を断ち切るように断言する殿下。
その通りなので私も無言で頷いた。
疚しさの欠片もなく堂々と言い切る殿下の姿に周りの空気がさらに冷えていった。軽蔑の眼差しが王太子に向けられる。
日頃の行いの違いもありますが、モテていても令嬢と一定の距離を保っている品行方正な殿下と婚約者以外の令嬢と所かまわずイチャイチャしている王太子。それだけでも信頼度が違います。
お嬢様の婚約者が色ボケした王太子よりも殿下だったならばと思わなくはないですが……
「嘘だ。そんなはずはない。そ、それにこいつだって。フランチェスカだって笑っていたんだぞ。俺には笑みの一つもよこさないくせに。お前の前では笑っていた。それが何よりの証拠だ。お前もルーカスが好きなんだろう? 俺には話しかけることはないくせに、楽しそうにしゃべっていたではないか」
王太子が捲し立てた内容を私は唖然として聞いていた。
なんと、くだらない。
お嬢様は表情に乏しい方ではございますが、だからと言って全然お笑いにならないというわけではありません。
約束の時間になっても現れない王太子を待つ時間がどれほど惨めなものか、本人にはわからないのでしょうね。
どこで見ていたのかわかりませんが、そんなお嬢様を見物して嘲笑っていたのかもしれない。
ホント、性格悪いわ。
沸々と怒りが湧き上がってくる。許されるなら、思いっきりぶん殴ってやりたいところ。
「おっしゃっている意味が分かりませんわ」
鈴を転がすような澄んだ声が微妙な空気を払った。
「意味が分からぬとは。お前は俺の言葉を理解できないのか?」
「いえ、そういう意味ではございません。わたくしとお話をして下さったのは側妃様でございます。第一王子殿下もお言葉を下さいましたが、ほんの一言、二言程でした。笑いかけるといったものがどういう状況だったのかわかりかねますが、側妃様のお話がとても微笑ましい内容だったので、自然と笑みがこぼれたのかもしれません」
「そうやってごまかすのか?」
「ごまかしているわけではございません。事実を述べているだけでございます」
動揺の欠片もなく毅然な態度で対応するお嬢様。凛としたお姿は神々しくも美しい。
「そんなわけあるか。お前たちは今もこそこそと会っているんだろう。いい加減に認めろ」
「認めるも何も、そのような事実はございません」
流麗な声音が辺りに響く。
感情的に喚く王太子と冷静沈着に対処するお嬢様。正反対の行為に生徒たちの王太子への眼差しが侮蔑を含んだものへと変わっていった。
「いい加減にしてくれないか。元々は、お前が約束をすっぽかしたのが原因だろう。一人で待つローシャス公爵令嬢を気の毒に思い、少しの慰めにもなればと母がお茶をともにしたのだ。俺はそれに付き添っただけのこと。それだけのことでなぜ不貞を疑われなければならない? このことが母の耳に入れば、ローシャス公爵令嬢の立場を慮り、さぞ心を痛めることだろう」
「……ぐっ」
側妃様まで出されたら黙るしかない。側妃様を巻き込めば大事になることぐらいは察しがついたのでしょう。
こぶしを握り締めてわなわなと震えている王太子と侮蔑の色を浮かべる殿下。
殿下との接点は偶然とはいえあの日だけですからね。
「そんなにローシャス公爵令嬢との仲を疑うのであれば、調べてみるといい。学園から王宮まで徹底的にな。俺はいつでも協力するぞ」
自信たっぷりに口角を上げ笑みを浮かべた殿下を睨み返すだけの王太子。
どちらに軍配が上がるかは火を見るよりも明らかではありますが。
「それに、ここは断罪の場ではないし、婚約破棄をするような場でもない。そんな分別もつかないとは、王族として恥ずかしいこととは思わないのか」
「……」
殿下の叱責が飛ぶ。
もっともなことなので王太子もぐうの音も出ない。奥歯を噛みしめて殿下を睨んでいるだけ。そんな二人を顔色を伺うような瞳で交互に視線を動かす男爵令嬢。
お嬢様は相変わらずの無表情で無関心を貫いていらっしゃいます。
第一王子と第二王子。
滅多にお目にかかれないお二人の対決を生徒たちは見逃してなるものかと固唾をのんで注目している。
政局的には第二王子である王太子のほうが上だったはずなのですが、それも今後どうなるのかといったものを含めても目を離せない出来事になるかもしれません。
「このままでは埒が明かないな。せっかくのダンスパーティーも台無しになってしまう。王太子であるベルナルド第二王子に再度聞く。ローシャス公爵令嬢との婚約を破棄する。その意志に変わりはないんだな?」
「……」
「どうしたんだ? 違うのか? もしや、その件は撤回したいと思っているのか?」
「……い、いや。こ、こ、婚約は破棄する。そう、言っただろう。何度も言わせるな」
やや、間があっての、どもり気味な返事の上に逆ギレ……とか。
なぜ、即答ではなかったんですかね。さっきまでの勢いはどこに行ってしまったのでしょう。お嬢様のことを嫌悪していましたよね。
「王太子はこう言っているが、ローシャス公爵令嬢はどのように思っているのか聞きたい。俺はあなたの意見を尊重する」
「お心遣いに感謝いたします。恐れながらわたくしは王太子殿下のお心に沿いたく存じます。よって、婚約破棄を謹んでお受けいたします」
王太子に礼を執り殿下に向き直ったお嬢様の顔は、ここ数年の憂いが消えたように、晴れ晴れとして清々しく見えました。
「そうか。ローシャス公爵令嬢、もう一度聞く。その言葉に偽りはないのだな? 今ならやり直しもきくし、心が定まるまで、猶予も与えることも可能だと思うのだが、どうだろうか?」
「はい。過分なご配慮痛み入ります。先ほど申しましたように、わたくしの言葉に嘘偽りはございません。迷いもございません。わたくしの本心にございます」
「わかった。俺に今回の件での裁量権はないが、事の次第を陛下には伝えることとする。それとダウザード男爵令嬢の件は俺が預かろう。よって、ダウザード男爵令嬢の被害届の提出後、直ちに生徒会と学園とできちんと調査をし結果を踏まえ適切な処分を行う。ダウザード男爵令嬢、それでよいか?」
王太子の背中に隠れていた男爵令嬢は顔色を悪くしながら、コクコクと頷いていた。
「皆の者、せっかくのダンスパーティーを台無しにしてすまなかった。せめてもの詫びにワインと果実水を土産に用意させている。だから、心ゆくまでパーティーを楽しんでほしい」
それを合図に音楽の音色が聞こえ始めた。やがて、ホールはダンスパーティーが再開され、ダンスや歓談にと場が賑やかになっていった。
一連の采配はつけ入るスキのない殿下の独壇場。失態を犯した王太子とは雲泥の差。場を仕切るスキルがお見事過ぎました。
皆に謝罪して土産という名の心付けまで用意する周到さ。殿下の心遣いに生徒宅でも好感度が爆上がりするのではないでしょうか。王家の評判にもかかわるような事態を逆手に取り、この機を逃さない殿下はさすがです。
「お嬢様、お疲れ様でございました。それと、なんのお力にもなれず申し訳ございませんでした」
不用意に漏らした私の一言がお嬢様に不利益をもたらす可能性があったことは否めない。お嬢様と殿下に救われたようなもの。お嬢様に申し訳が立たない。
「何を言ってるの。わたくしの与り知らぬところで、王太子殿下に誤解を受けていたんですもの。だから、ちょうどよかったのよ。おかげであらぬ誤解も解けたのだから。それよりも疲れたわ」
お嬢様の優しさが心に染みました。泣きそうになったけれど、そこはグッと耐えました。まだお役目が残っていますから。
「それでは、どこかで休憩を取りますか?」
「いえ、帰るわ。いつもより話をしてしまったから、横になりたいわ」
話疲れたとおっしゃるお嬢様の瞳が眠そうにとろんとしていました。
無口なお嬢様ですから、おしゃべりにも相当なエネルギーを使うようでお疲れになりやすい。確かに今日はいつもより饒舌でございましたから。
一言挨拶をと思いホールを見渡したけれど、殿下の姿も王太子も男爵令嬢も見つけることができなかった。
仕方なく、私たちはパーティー会場を退出すると帰路へとついた。
*****
あれから、一週間が過ぎ、やっと念願の婚約が解消された。
破棄ではなく王太子の有責での白紙撤回となり、婚約そのものがなかったことになった。こちらとしてはお嬢様の経歴に傷がつかなくて何よりです。
「お嬢様、よかったですね。望みが叶いましたね」
「そうね」
公爵邸のサンルームでお茶の時間。うららかな日差しのもと紅茶を嗜んでいたところに吉報が届いた。
憂いが消えたためか、柔和な表情で口角が緩み微かに微笑むお嬢様も美しい。
白魚のような白い指で茶器を操る優美な仕草や淡い金色の髪が陽光に溶け周りを金色の光で包む儚げな様は、まるで花の妖精のよう。
他の侍女たちもボーッと見惚れて手が止まっている。それは日常茶飯事のことなので、今更咎められることもありませんが。お嬢様も気にされておりませんしね。
それは置いといて、あの件は翌日にも決定するかと思っていたので、一週間もかかってしまったのが、少々不満ではありますが。
それでも、白紙となったのでヨシとするところでしょうか。
なぜだか、あれだけ、派手に婚約破棄宣言していた王太子も渋っていたとか、わけわかりませんが。破談となれば、強力な後ろ盾がなくなるので正妃様と陛下もなかなか首を縦に振ることができなかったようですね。
それはそうでしょう。
側妃様は陛下の元婚約者。婚約者がいながらほかの令嬢と懇意になり婚約破棄をした挙句に結婚をしたのが今の正妃様で、正妃様の生家が伯爵家だったのがせめてもの救いだった。
どうにか結婚はしたものの、三年間子供に恵まれず、そこで元婚約者だった侯爵令嬢を側妃として娶ることになった。そして、すぐに側妃様は懐妊。その半年後に正妃様も懐妊。かくしてお二人の王子が誕生することとなった。
今では、側妃様には第三王子と第一王女がいる。正妃様には王太子一人。
なんとなく、策略めいたものを感じてしまいますが、追及することはやめておきましょう。政治はそれに関わる方々に任せるに限ります。
「今頃、側妃様は喜んでおいでかしら?」
紅茶を口に含み味わってから、音もなくカップにソーサーに戻したお嬢様がポツリと零す。
そのことについて思考を放棄したばかりだったので、動揺したけれど、ほんの少し、逡巡した後、私は遠慮がちに答えた。
「……そう、かもしれません」
「望む通りの結果はわたくしも同じ。ここにきて王太子妃教育を受けていなかったことも功を奏したわね。お父様のおかげだわ」
婚約後、すぐにでも王太子妃教育をとの要求をした王家に対して、娘が王太子妃教育で肩身の狭い思いをしないように公爵家で教育を施し送り出したいとの建前上の要望を出して王家側にその条件を呑ませた。公爵家としては少しでもリスクを排除しての婚約破棄を狙っていましたからね。
陛下も筆頭公爵家の後ろ盾をもらうために強制はできなかったようで、公爵家の言うとおりにするほかはなかったようです。約束では一年後に王太子妃教育は始まる予定でしたから、その前に今回の白紙撤回になったというわけです。
王太子がやらかしてくれてよかったです。そのことに関してだけは感謝ですね。
「王女殿下がお生まれになってから、陛下が側妃様のもとに、足繁く通っていらっしゃると喜んでおいででしたものね」
件の日、お嬢様を心配して下さった側妃様がお話しになったのは、ご自分のお子様のことでした。今年十歳になられる王女殿下と陛下とのエピソードの数々。内容はとても微笑ましいものでございました。
ただ、いかにご自分の子供が陛下から愛されているか、ご自分のことを大事に思ってくれているかなど……時折、毒ともとれるような優越感を潜ませながらではありましたが。
これがただ単に惚気だったのか、王太子の婚約者であるお嬢様に対しての嫌味だったのか、牽制だったのか……
「第一王子殿下はしっかりしたお方のようだから、これからは安泰ではないかしらね。収まるところに収まったような感じがするわ」
「そのほうがしっくりくるような気がします」
王太子は廃嫡となり今は謹慎の身。再教育をして結果次第で今後の身の振り方が決まるそう。当然ながら次の王太子は第一王子殿下に決定したようです。
ダンスパーティーでの采配を見れば至極妥当です。元王太子殿下よりも何倍も相応しいでしょう。
いじめられていたという男爵令嬢は被害届は提出したものの、三日後には学園を退学して修道院に入ったと旦那様からお聞きしました。
男爵家から被害届の取り下げ願いがあったそうで、それによりいじめの調査は打ち切りとなったそう。
現場の目撃者も現れず実体のないいじめだったので、取り下げは妥当だと思われます。
今回の件で学園側も管理体制を強化する方向で動いているようです。
事実であれ冤罪であれ、いじめは起きてほしくありませんから。
女で身を滅ぼす。身分剝奪という憂き目にあった王太子。
もっと自分の立場を理解していれば、他の女にうつつを抜かすなどという愚行は犯さなかったでしょうに。自業自得としか言えません。
たった一人の王子が未来の政治の主役の舞台から転げ落ちてしまった。政争に敗れた正妃様の心情はいかばかりか。
息子の王太子としての地位は安泰ではなかったといつでも覆るものであったと今頃は嘆いていらっしゃるのかもしれません。
後ろ盾がないからこそのお嬢様でしたのに……
これで、今回の婚約破棄騒動は決着がついたといってもよいのでしょう。
何かしらの陰謀が働いていたとしても、国が平和で安泰であればそれが何よりですからね。
「ところで、準備は進んでいるかしら?」
「はい。もちろんにございます。ご予定の日には出発できるように準備は済んでおります」
「そう、よかったわ。楽しみね」
お嬢様は来週の初めに隣国の帝国へと留学なさいます。私も侍女兼留学生として同行致します。これは一年前に決まっていたこと。王太子妃教育を引き延ばすための方策でもあったのですが、お嬢様は留学をとても楽しみにしていらっしゃったらしく、そのまま続行することになったのです。
「ふふっ。王太子殿下の婚約者ではないのですものね。わたくしはただの公爵令嬢だわ」
ゆっくりと庭へと視線を移すと、心底、嬉しそうな笑みを浮かべたお嬢様。
「お庭を散歩いたしませんか? 今日はとてもお天気がいいですし、良い気分転換になるかと思われます」
「そうね。わたくしもそう思っていたところだったのよ」
お嬢様と私は一緒に庭へ散歩に出かけました。
日差しが少し強いので日傘をお嬢様に差し向けながら、ゆっくりと庭の花々を見て回ります。お嬢様は花々の陰からちょこんと顔を出す小さな蕾にも目を向け愛おしそうに指に触れるお姿は、慈悲深い天使のようにも見えて、感慨深く胸が熱くなりました。
留学すればしばらくお屋敷を離れることになるので、少しでもお屋敷とこの庭の様子を目に焼き付けておきたいと思っていらっしゃるのかもしれません。
しばし、季節の花が咲き乱れる庭を二人で散策しながら、平穏な時間を満喫しました。
お嬢様の話し相手としてお屋敷に上がってから三年、侍女となってからは二年。
十七歳のお嬢様と同い年の私は公爵家ご夫妻のお慈悲で学園にも通わせてもらっています。
いわゆる貧乏な子爵家の上に子供が六人の子沢山。全員が学園に進学させるには厳しかった。
そこへ運よく遠縁だというローシャス公爵家から娘の話し相手にと同い年の私に声がかかった。私への養育費と我が家への援助金なども込みで。破格の条件に両親は一も二もなく了承し、もちろん私も、少しでも家計の手助けになるのならと了承しましたよ。
お屋敷に上がった当初はホームシックになったり、何もかもが我が家と違いすぎて、何をするにも慄き失敗の連続でしたが、お嬢様と接するうちに少しずつ心も癒されていきました。
今ではお嬢様のお世話をさせていただくことが私の生きがいとなっています。
燦燦と降り注ぐ陽の光。どこからともなく聞こえる小鳥のさえずり。時折吹く風に揺れる木々の葉擦れの音。お屋敷で体験するどれもが今の私の生活のすべてです。お嬢様に出会えた幸運に感謝しかありません。
未来の王太子妃という枷が外れたお嬢様に最上の幸せが訪れますように。
私はこれからも精一杯お嬢様にお仕えさせていただきます。
【 了 】