表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

風立ちぬ。「美」に生きる人間になる。

作者: オータム


僕が求めたいものはやっぱり何なんだろ。僕はいつも映画とかドラマとか誰かの生き方とか色んなものに気持ちが動かされすぎてしまう。ついさっき見た映画の感動が醒めぬうちにここに記す。風立ちぬを観た。1人で自分のパソコンのNetflixで。海外ではNetflixでジブリが観れて素晴らしい。日本でもやるべきだ。1人で部屋に籠もって日本の映画を観ていることは今回ちょっと不問だ。というか、ジブリ作品は唯一と言っていいほど海外に自信を持って発せられる日本の映画作品。風立ちぬは宮崎駿の最高傑作とネットの評判も知っていたのでずっと観たかった。そして、本当に間違いなく最高傑作だ。この映画に出てくる二郎、菜穂子は「美」に生きる人であり、その苦しみとつきまとう矛盾を受け入れて生きる様がとても美しかった。二郎が求める美しい飛行機は戦争で街々を焼き尽くす兵器の宿命を持つ。人間同士の感情、思惑が作り上げているこの世界では美しいものが美しいまま放っておかれることは有りえないのだ。当然だ。そして自然の世界でも同じ。菜穂子の美しさと2人の愛の清純さは菜穂子の病の進行とともに少しずつ形を変えていき崩れる宿命にある。だから、彼女は美しいところだけ見てもらって二郎の元を去ったのだ。「美」はこの世界で余りに儚い命をもつ。故にその「美」を追い求める人は美しいものが変わっていく、または失われていく苦しみを味わうことになる。しかし、「美」はその苦しみを持ってしてでも感じ取る価値のあるものだ。それは風のように突然来て突然去っていく。「私の美しい庭」にあった『稲妻のような真実』はこれのことだ。僕はやっぱり「美」に生きる人間だと思う。美は個人的なものだ。僕は恐らく視覚的なものには余り感動を感じない。それよりも誰かの生き様や映画や小説の物語など感情を基軸としたものに圧倒的な美を感じる。もう一つどうしても思うのが現実の世界で美を感じたいのだ。ジブリやドラマ、小説は大きな感動を与えるがそれはどうしてもフィクションだ。風立ちだって堀越二郎と堀辰雄を宮崎駿がごちゃ混ぜにしたフィクション。やはり現実世界に美は存在していてほしい。でも、僕に何ができるのか。恋愛リアリティショーで僕が誘導させて美を成立させる。これは何か違う。大きくズレている気がする。そもそも美は作るものなのか。うん、映画や小説は作り手がいるから当然作るものなのだろう。でもやはり現実の自分、誰かの感情に構成が入るのはおかしい。そこは自由のままに、放置であるべきだ。そうだ、美は意識して得ようとすべきでは無いのだ。自然の風をコントロールすることはできない。その代わり、美の化身というべき「愛」を求める。愛はそこに誰かや何かがいる。自己で完結するものではない。誰かのために何かのために自分を捧げる。それは決して見返りを求めるものではないし、結果を求めるものでもない。非合理的で社会貢献でもなく、周囲からの非難がある恐れもある。そんなおかしなことを貫き通すのが愛。そして、その愛がどこかまで進んだときに突然光り輝きだす美が生まれるのではないだろうか。稲妻だ。僕は愛と美に生きる人になりたい。この感情を大切にしたいと思う。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ