卵泥棒・続
「シーオ」
赤子がふわあ、と話す。母の体調が悪いため、シオの面倒を見るのはもっぱらイエリの役目だった。母乳が出ずシオは痩せていたが、抱きしめると温かかった。
先ほどなけなしの母乳を与えたため、シオの機嫌がいい。頬の血色もよく、汗の匂いが強くなった気がした。おなかに鼻を近づければ、汗と尿の匂い、そしてほかほかとしたぬくもりを感じる。それだけでイエリの胸はいっぱいになり、勝手に笑顔が浮かんでしまうのだ。
「シオはどこもかしこも、あったかくてしっとりしてるね」
シオは手足をばたつかせる。あ、あ、と言葉にならない声をあげて、シオは生きていた。
「おしゃべりって、いつからできるようになるのかな? 立ったり走ったり、早くできるようになってね。そしたら、イエリと遊ぼう。ああ、でも、このほかほかがなくなっちゃうのは寂しいなあ」
イエリはシオの隣に寝転んで、顔を眺めた。シオはなぜか嬉しそうに笑い声をあげていた。
イエリは頭痛に叩き起こされた。
右目が腫れてうまく開かず、痛みと熱を持っていた。口の端から垂れた血液は、すっかり乾いて固まっている。吐き気はおさまっていたが、殴られたところはたんこぶになったらしい。寝返りをうった時、たんこぶが刺激された痛みで起きたようだった。
イエリは小川の近くに寝ていた。呻きながら起き上がると、近くに座っていたアオが飛びあがって傍にやってくる。キイキイと鳴きながらあたりを飛び回るアオに、大丈夫だよと微笑みかけた。
どうやら、イエリは男たちに殴られ、意識を失ったらしい。王がやってきたところまでは覚えているが、最後の一人と卵がどうなったのかは思い出せない。だが、卵泥棒に関してはもう生きていないだろう。胸が痛んだが、ここは竜の森だ。彼らが卵泥棒を許すとは思えない。意識が朦朧としており、彼らの死に際を直視せずにすんだことにほっとした。死体ならいざ知らず、人がむごたらしく殺されるところなど見たくはない。
アオはイエリが起きたと確認するなり、どこかへ飛んで行ってしまった。王を呼びに行ったのだろうか。止める必要もないため、イエリはアオを見送った。その後、ひとまず水でも飲もうと川へ這いよる。
体中、痛くないところを探すほうが難しいほどの有様だった。水面に映った姿を見れば、顔の右側は真っ赤に腫れあがり、血の跡もある。腹や手足にも痣が浮き、みずぼらしい体がさらに無残だ。イエリはため息をつきながら、顔をそうっと洗った。
傷に染みるのを耐えていると、アオの羽ばたく音が聞こえてきた。戻ってきたアオの後ろには、変わらず表情のない王がいた。
「王さま!」
王はアオに対して手を振りぼそぼそと話しかける。すると、アオは短く鳴いて水辺に降り立った。そのまま水面に近づき、舌で水を舐めだす。王は「ネツァク」と咎めるように言ったが、アオが聞く耳を持たないため、言うことを聞かせるのは諦めたようだ。
「何があったのか話せ」
王は尊大な態度を崩さない。本当に王さまだったんだな、と胸の奥で納得しながら、イエリは話し始めた。
「朝ごはんのあと、歩いてたらいつもと違うところに出たの。そしたら人の声がして、よくよく見てたら卵を盗んでいっちゃうから、慌てて追いかけて……でも、イエリだけじゃきっと止められなかった。アオ、王さま呼んできてくれてありがとう」
アオは呼び声に振り向いたが、それ以上の反応はしなかった。これでよく、王を呼んできてほしいという意図が通じたものだ。イエリとアオのやりとりを見ていた王は眉をひそめた。
「アオ……ネツァクのことか」
「ネツァクって言うんだ! 名前ないと不便だなあって思って、勝手につけちゃった。ごめんなさい」
「ネツァクが許したのなら、私には関係ない」
肝心のネツァク……アオは、我関せずといった態度で水を飲んでいる。しかし、今後はネツァクとアオ、どちらの名前で呼べばいいだろう。イエリが思案に沈もうとすると、王が尋ねてきてそれを遮る。
「なぜ、彼らを止めた」
「なぜって、泥棒してたから」
「竜の卵が盗まれたとしても、お前には関係がないだろう。なぜ身を挺してまで止めようとした」
「ううん……?」
確かに、言われてみればイエリは部外者だ。シオを探すために森を歩き回っているが、それがなければイエリが森にいることもなかっただろう。なぜ怪我をしてまで卵を守ろうとしたのだろう。
イエリはしばらく考え込み、やがてあっけらかんと答えた。
「分かんない」
その言葉に、王が気色ばむ気配がした。慌てて、「怒らないで!」と言い訳をする。
「分かんないけど、なんか、嫌だったの。ひどいって思った。まだ卵で、何もできないのに勝手に盗まれて、それできっと、森の外に出たら壊されちゃうんだ。それが、許せなくて……」
あの卵は、シオだった。大切に守られてきたもの。自分では何もできないのに、人の都合で奪われてしまったもの。だから憤りを感じた。自分にできることがあるなら、このまま見過ごすなどできないと思ったのだ。
「卵、ちゃんと巣に返した?」
イエリの言葉に王が頷く。
「よかったあ」
それだけで、全身の痛みが報われた気がした。あの卵は、きちんと母親の元に帰って再び大切に育まれていくだろう。イエリはほっとして、だらしない笑みを浮かべた。
「お前は……」
王は、表情を変えないままどこか戸惑っていた。イエリの言葉を聞けば聞くほど、眉間の皺が深くなっていく。何か言わんとして口を開くが、首を振るのみだで何も言わなかった。ほどなくして王は元の表情を取り戻し、話の続きをした。
「お前が食べたのは、シィラだろう」
「そうだよ! どうしてわかったの?」
「シィラには魔術除けの効果がある。森の魔力が一時的に遮断され、迷うことがなくなったのだろう」
イエリは、おお、と歓声をあげた。どうやら、同じ場所から抜け出せずにいたのは森の魔力のせいらしい。何気なく口にしたシィラのおかげで、イエリは卵泥棒たちの元へたどり着いたのだ。
「でも、なんであの人たちは竜に見つからないであそこまで行けたんだろう? 護符ってやつ、そんなにすごいものなの?」
王は答えなかった。その代わり、イエリの前に片膝をつき、目線を合わせてくる。
こうして近くで見ると、王はますます美しかった。肌が白く透き通っているため、黒い鱗が映える。黄金色の瞳も今は穏やかに凪いでおり、陽光を孕んできらめいていた。整った顔立ちは、頭に生えた異形の角や顔を覆う鱗に損なわれることなくそこにある。長く伸びた黒髪は風に揺れてさらさらと流れた。
「卵を守ってくれたこと、礼を言う」
「は、はい……」
こんなにも美しい顔立ちの男を見るのは初めてで、イエリはどぎまぎした。卵泥棒を追い詰める姿は恐ろしかったが、こうしてイエリに向き合う彼は、とても馴染みやすい人に見えた。
永遠にも感じたその瞬間は、実際には一瞬の出来事だったらしい。王はさっさと立ち上がると、なにも言わずに立ち去った。イエリは呼び止める気が起きず、ぽかんとしたまま背中を見送った。
「アオ、王さまって……優しいね?」
アオはキュイ、と短く鳴いた。




