ほしかったもの
「王さま。逆鱗、どうするの……?」
逆鱗を手にした王は、イエリの問いかけに答えなかった。その代わり、再びイエリの前に膝をつくと目を合わせる。
王は凪いだ目をしていた。黄金色の吸い込まれそうな瞳に、間抜けな顔をしたイエリが映っている。血だらけで顔色が悪く、酷い隈だ。美しい王に比べて、なんと貧しく醜いのだろう。
前もこんなことがあった、と思い出す。
イエリが卵泥棒を捕まえた時だ。あの時も、王はイエリの前に膝をついてひたと見つめてきた。王はずっと、美しく誠実な竜だ。
王の腕が持ち上がった。そのまま上がり、ゆっくりとした速度でイエリの背に回る。王の髪が首筋に滑り落ち、くすぐったかった。イエリは身動きが取れないまま、王の腕の中に収まる。
あったかい。
王の体は温かかった。体を寄せるとイエリまで血に濡れるが、構わない。イエリはようやく、ここに帰ってきた。何も怖くない。空から堪えきれなくなった雨粒が落ちてきたが、それだって王といればなんてことはない。目を閉じると、眦から一筋の涙が流れた。
「イエリ」
王が耳元で言う。
「お前といた日々は、光のようだった」
「え?」
その真意を問う前に王の体が離れる。
突然ぬくもりが遠ざかり、イエリは手を伸ばそうとする。だが怪我をした右手もアオを抱く左手も動かせない。代わりに縋るように名前を呼んだ。
「王さま? どこ行くの……イエリも行く! 置いていかないで!」
王はもう目線一つ寄こさなかった。歩き去っていく後ろ姿を見ると、王の先ほどの発言の意味を理解した。
逆鱗が剥がれるのは死ぬときだ。その逆鱗を卵に使うと次の王が生まれる。だから、逆鱗を探して次の王へ繋ぐということは。
「王さま! 何するつもりなの!」
足が動かない。立てない。イエリは這い蹲ってでも王を追いかけようとした。しかし全身がだるく、体が倒れるとそれ以上動けなかった。意識の幕が徐々に降りてくる。もう限界なのだ。イエリはやってきた眠気に全力で抗いながら王を呼んだ。
「隣にいるって言った! 王さまが帰る場所だって……待って! イエリは……」
王が離れていく。まっすぐに、イエリから離れていく。
「いか、ないで……」
次の竜の王さまなんていらないよ。イエリの王さまは王さまだけ。イエリが一緒にいたいのは今の王さまだけなんだよ。他には何もいらない。王さまがいれば、それだけでよかった。王さまのところに帰れるなら、怖くても頑張れた。
イエリ、頑張ったよ? 捕まったり、魔女って言われたり。でも別によかった。竜が傷つく前に戦争が止められるなら、なんでもよかった。戦争が始まった後も、王さまのところに行きたくて、竜を助けたくて頑張った。いっぱい歩いた、走った。大変だった。でも、帰りたかったから。
王さまのところに、帰りたかったから。
「そばに」
世界が暗い。泥の中へ深く、深く落ちていく。自分の体も、思考もあやふやになる。雨が頬を叩いたような気がしたが、それが自分の涙か判別がつかないうちにイエリは意識を失った。




