終わり
足を引きずって歩く。
アオと揉みあった際に捻ったのか、足首は歩くたびに鈍い疼きをもたらした。右腕は揺れるだけで激痛が走るため、できるだけ体にぴったりとつけて固定している。空いた左腕でアオを抱いて、ずり落ちそうな体を抱きとめながら歩いていく。自分の荒い呼吸が耳について鬱陶しかった。生きようとするイエリの体が、その存在を主張するように痛みを訴える。朦朧とした意識を意地だけで保ち、ひたすらに歩く。
王たちの争う音は、森の奥へ移動していた。フェルディオとルオもそれを追っているはずだ。けれど、イエリはもう竜殺しをどうこうするつもりはなかった。
どうしてこんなことになったんだろう。
広大な無力感が足元に広がっていた。イエリが足を前に出しても、体はどんどんとその中へ沈んでいく。涙とも汗ともつかない雫が頬を伝い、腕の中のアオを濡らした。
イエリが本当に魔女ならよかったのに。
木がなぎ倒される大きな音がした。ばきばきと枝が折れていく重い悲鳴だ。騒々しい戦いの気配が近づき、王たちの戦場が近いことを感じさせた。
イエリが行ったところで何もできない。言葉を交わすだけで人や竜を惑わせたり、指先一つで世界を動かしたり、そんな力はない。イエリは無力だった。
「王、さま」
イエリの頭には、王の隣へ帰ることだけがあった。痛みと感情がキャパオーバーし、何も考えられないのだ。残された意識は、ひたすらに自分の帰る場所を探していた。
王さまといれば、怖くない。なにも怖くないんだ。だから王さまに殺されるなら、きっと怖くない。竜殺しさんも、世界も、もうなんでもいい。王さまにもう一度会えれば、もう。
ふっと視界が開けた。木々がへし折られたことにより、空が広く見える。泣き出しそうな曇天を一度見上げてから、イエリは彼らに気が付いた。
一人と一匹の王がそこにはいた。
彼らは互いに満身創痍だ。王の美しかった黒髪は乱れ、妙な長さでざっくりと切れている。いつも温度の低かった瞳が激しい憎悪に燃え、人ならざる瞳孔で竜殺しを見据えていた。竜殺しもまた、全身の鎧が砕け、ほとんど残っていない。右の角が折れ、頭から流れ出す血で目を充血させていた。どうやら膠着状態で、互いに相手の隙を窺っているらしい。
王さま、と呼ぼうとした。だが喉が枯れて、わずかな吐息にしかならない。王のそばに行かなければ、と踏み出そうとして……少しだけ正気に戻る。
先に行ったルオたちは?
周囲を見渡すと、離れた草むらに見覚えのある茶髪がちらついている。イエリは片足を引く不格好な歩き方で急いだ。幸い、王たちも限界が近いのかこちらに気を払う余裕がないらしい。彼らを刺激しないようにして草むらへたどり着く。
その影には、予想通り兄弟の姿があった。
だが、フェルディオは額から血を流して倒れている。気を失っているのだ。その隣で、いよいよ色をなくしたルオが小刻みに震えていた。
「ルオ」
枯れた声をかけると、彼は大げさなほど肩を跳ねさせてこちらを見た。イエリを認識した途端、瞳から新たな涙が溢れだした。
「あ、ああ……イエリ……」
「竜殺しさんと、話せた?」
首が左右に振られる。恐らく、王たちの戦いにフェルディオが巻き込まれ、その後ルオは恐怖で動けなくなったのだろう。なんとなく想像が付いた。
「すぐそこにいるよ。今なら話せるよ」
「む、無理だよぉ……!」
ここまで来たものの、ルオはこれ以上動けそうにない。元々イエリが無理に頼み込んだことだ。臆病な彼に酷なことをさせてしまったかもしれない。イエリはそっか、と静かに頷いた。
「じゃあ、イエリは行くね。ごめんね、ルオ」
「い、行くって……あっちへ? 駄目だよ、危ない」
「でも、イエリの行く場所は他にないの」
右腕は動かず、左腕はアオを抱いているため自由が利かない。ルオの震える手を握ってやれないことを残念に思ったが、アオを手放すわけにはいかなかった。俯いてアオを見れば、死後硬直が始まったのか体が固く強張っている。冷たく固い友人にイエリは顔を寄せた。
「イエリの場所は森……王さまのところ。だから、帰るの」
こうなっては、王が竜殺しに勝つ以外に方法はない。いや、勝ったとしても、この状況が好転するとは思えなかった。どんな仕掛けがあるか知らないが、竜殺しが死ぬだけで全ての竜が我を取り戻すはずがない。
それでも、イエリの命を使ってでも竜殺しさんに勝てるなら。それで王さまの役に立てるなら。
イエリのとる行動は一つだ。
「イエリはもう行く。さよなら」
「ま、待って!」
ルオの眉がぐっと寄せられて、悲しみに歪む。そして強く目を瞑った。胸元の、服の下に隠されていたネックレスを取り出して握り込む。かつて、母の形見だと語ったネックレスだ。やがてふらついた体に力が込められた。震えながらも立ち上がる。
「い、行くよ……母上の最期の言葉を、伝えたい……」
「……うん」
イエリは、命の危険があることを確認しなかった。そんなことはルオだって百も承知だ。その上で、イエリに流される形だとしても決めたことだ。それになにより、ルオを気遣えるほどの余裕がイエリには残っていなかった。
二人は草むらから出て、一歩踏み出した。膝が笑い、今にも崩れ落ちそうだ。互いに寄りかかるようにして、全力で足を踏み込む。
ここからなら、声は届く。イエリがルオに目配せすると彼は頷いた。
「あ、父上……」
幼い声が、緊張でひっくり返る。けれど彼は気丈に背を伸ばして、自らの父を見つめていた。その手の中には、ネックレスがある。ルオが一つ、息を吸った。
「”私の小さな人”……!」
その瞬間、竜殺しの視線が完全にこちらへ向いた。
血に染まった瞳が、迷子の子供のように揺れていた。目を丸く見開いた顔は、どこか幼ささえ感じさせた。彼の口が何か、ぼそりと口ずさむ。しかしそれが音となって届く前に、王の爪が光った。
目をそらした竜殺しを、王が見逃すはずがない。竜殺しの目線がこちらに向いた瞬間、間合いを詰めて腕を振りかぶった。かぎ爪が竜殺しの胴体を斜めに切り裂く。体から噴き出した血を見るに、その傷はかなり深い。予想通り、竜殺しは切られた衝撃を逃がすこともなく後ろへ倒れ込んだ。そして王もまた、力を使い果たしたのか膝をついてしまう。
静かであっけない終幕だった。
ルオは数秒立ち尽くしたが、すぐに竜殺しへ駆け寄っていく。イエリもまた、アオを落とさないように抱えなおし、ゆっくりと王のもとへ歩いて行った。
王は、イエリが近づくと顔をあげたが立ち上がりはしなかった。見れば王も体中血塗れだ。竜殺しとの戦闘は苛烈なものであったらしい。イエリはふらつきながら、王の前になんとかたどり着く。
「王さま」
瞳を彩っていた激情は鳴りを潜め、いつもの穏やかな王に戻っている。その顔には疲れが見えたが、生きている。イエリはほっとして座り込んだ。
「生きて、いたか」
王の声もイエリと同じく掠れている。声には無事を喜ぶ安堵が滲んでいるが、イエリは素直に受け止められない。深く項垂れてアオを抱きしめる。
王さま、と呟く。審判の時だ。
イエリの抱えた絶望を、王は見た。そしてわずかに息を呑むと目を伏せた。爪の剥がれた手がアオに向かう。
王が触れると、アオの体には血の跡が伸びる。それでも王はアオの体を何度も撫でた。イエリはその間、喉の奥にある熱い塊にひたすら耐えていた。
アオ、王さまだよ。イエリたちの王さまのところに帰ってきたよ。
心の中で語りかけても、アオは目を閉じたまま動かない。体に血が塗られていくだけだ。
王が竜の言葉を放つ。ぽつりとした小さな囁きが、アオに落とされて消えた。
「イエリ」
続けて王に呼ばれ、刑の執行を待つ。イエリは茫然と王の顔を見上げた。
王はこんな時でも美しかった。
髪が乱れていても、血や泥にまみれていても、鱗が剥がれていても、世界が終わろうとしていても、王は美しい。
察しのいい王のことだ。イエリの態度を見て、アオを殺したのがイエリだと気が付いている。だからこれから罰が下る。イエリは静かに王の言葉を待った。
「お前に、役目を与える」
「え……?」
予想とは違う言葉に面食らう。王はそのまま冷静な態度で続けた。
「私と人の王の逆鱗を探せ。そして、次の王へ繋げ。それがお前の役目だ」
「どういうこと……? 王さまの逆鱗はここにあるよ。竜殺しさんも、そこに」
イエリの見上げるすぐそこに、血塗れではあるが大きく綺麗な逆鱗が、王の喉元についている。探すもなにもないではないか。
すると、王は不意に立ち上がる。イエリも王の後を追いたいが、足に力が入らず立てない。体を捻り、せめて視線だけでも追いかける。
王は竜殺しへ近づいた。
竜殺しはまだ息があるが、動くことはできないようだ。肺に血が入り込んだのか、呼吸のたびに濡れたごろごろという音がする。時折咳き込んで血を吐くが、もはやどうにもならないだろう。
王は彼の傍らにしゃがみ込むと声をかけた。
「竜殺し。お前の逆鱗を貰い受ける」
その言葉の意味するところを理解し、イエリは唇を噛んだ。逆鱗を奪わなくとも竜殺しの命は風前の灯だが、王としてのけじめがあるのだろう。イエリは口を挟まなかった。
「この事態を収束させる方法など、お前も知らないのだろう?」
王に問われた竜殺しは沈黙している。その目は自分の命の終わりを知っているのか、静まり返っていた。
「可能性があるとすれば、もはや逆鱗だけだ。王の逆鱗の力を二つ合わせれば、あるいは……」
王の手が竜殺しの喉に触れ、大きな逆鱗に爪をかけた。
「ま、待って……ください」
止めたのはルオだった。王の冷ややかな視線を浴びて体を竦ませたが、ルオは「一言だけ、言わせてください」と譲らなかった。
「”どこにいても愛しています。私の小さな人”」
ルオの口を借りて、誰かの言葉が紡がれる。竜殺しは、息も絶え絶えになりながらルオを見つめていた。
「母上の、最期の言葉です。母上はずっと、父上のことばかり話していました」
竜殺しから、空気が漏れるひゅーひゅーとした音が鳴っていた。呼吸の間隔が緩くなり、遠のいていくのがわかる。言葉を伝え終わったルオが身を引こうとすると、竜殺しが血を吐いた。
「お前は……似て、るな」
それだけ言い残すと、竜殺しの体から力が抜ける。
「父上!」
ルオが飛びつくが、王は無慈悲に逆鱗を剥がした。ベキ、と固い音で逆鱗が剥がれていく。逆鱗の剥がれた跡は他の部位と違って黒く、まるで深い穴のように見えた。
「ちちうえ……!」
ルオが竜殺しの体に泣き伏せる。その光景に少しばかり虚しさを感じながら、目をそらした。




