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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第五章 雨
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青い、青い空

 不意に、キー……と高い音がした。

 この声をイエリは知っている。

 はっと声の元を辿る。すると、木の陰から燃えるような赤い鱗のちいさな竜が飛び出してくる。それは流星のような速度で、一直線にこちらへ飛んできた。どうやらルオめがけて突進してきているようだ。

 その竜の目は透き通る青い色をしている。見慣れた色だった。

「ルオ!」

 イエリは咄嗟に足を前に踏み出し、ルオの前に立ちふさがった。と同時に右腕に重たい揺れと激痛が走る。ばきり、と体の中で音がした。

「う、あぐ……ッ」

「い、イエリ……!」

 イエリは後ろへ尻もちをつき、痛みに体を捩る。涙に滲んだ目を凝らすと、飛んできた塊もまた、衝突によってダメージを負っていた。イエリに跳ね返って、地面にどさりと落下した。

「な、なんだ……イエリ、どうした!」

 駆け寄ってきたフェルディオを、イエリは無事な左手で押しとどめた。ぶつかったのは右の前腕だが、痛みが激しく動かすことができない。痛みに呻きながら、それでもイエリは彼らへ告げる。

「い、行って……このまま音のする方に……」

「だが!」

「はやく……」

 見れば、墜落した塊はもぞもぞと動き始めている。腕のなかにすっぽりと収まるほど小さな竜は、ギィギィと鳴きながらもがいていた。もうまもなく起き上がり、襲いかかってくるだろう。まだ子供とはいえ、その様子は恐怖を感じるには十分だ。

「君はどうするんだ!」

 半ば恐慌状態のフェルディオが、それでもイエリを案じて腕を引こうとする。ルオもまた、今にも気を失いそうになりながら頷いていた。兄弟の優しさに感謝しながら、乱れた呼吸を整える。

「この子、知り合いなの……ちょっと話したら、すぐ行くから」

「だがこの竜は……」

 フェルディオが何か言いたげに竜の仔をちらりと見る。竜の血走った目は、普段の美しい青色とほど遠い。例の興奮状態にあるのだろう。歯を剥き出しにして、恐ろしい形相で吠えた。

「大丈夫」

 右腕を庇いながらなんとか立ち上がる。本当は蹲って泣き叫びたいほど痛かったが、この状況が痛みをある程度麻痺させている。痛がっている場合ではないと本能が判断したのだ。

 フェルディオは一瞬迷いを見せたが、すぐに決断した。悲壮な顔で頷くと、ルオの手を引いて走り出した。

「イエリ!」

 ルオのか細い声がしたが、彼は兄に引っ張られて森の奥へ消えていった。草を踏み分ける騒々しい足音が徐々に遠ざかっていく。

 彼らがいなくなったことを確認すると、イエリは改めて竜の仔に向き直った。

「アオ……」

 赤い鱗に、宝石のような美しい瞳。成長しきっていない幼い体。確認するまでもなく、彼はイエリの友人だ。

 アオは涎を滴らせ、牙をむいている。敵意を全面に押し出した彼を見るのは初めてだ。初対面の時でさえ、アオはイエリを野犬から庇ってくれていた、優しい子だ。懐いて甘えた声で鳴く彼ばかり見てきた。

 よく観察すると、アオは既に怪我を負っていた。だからこそ、イエリに激突した程度で墜落したのだろう。あちこちの鱗が剥がれ、ぷるぷるとした薄ピンクの皮膚を晒している。折れた角から流血し、鱗よりも赤い血を垂らしている。痛ましい怪我を負いながら、それでもアオは食うべき相手を求めていた。

「アオ、イエリだよ」

 イエリが一歩近づく。すると、アオは過敏に反応し激しく吠えた。羽をばたつかせて再び宙に浮き上がる。が、体が左右にふらついて傾いている。どうやら飛ぶのも精一杯のようだ。

 アオがイエリを睨みつけ、飛びかかってくる。危ないと思った瞬間には、体が勝手に反応して横へ避けていた。アオの爪が、先ほどまでイエリの立っていた空間を切り裂く。そしてその勢いのまま、アオはまた地面に突っ込んだ。ざりざりと音を立てながら土煙が起こる。

「イエリだよ……わかんないの?」

 両膝ががくがくと震える。気を抜けばその場に座り込んでしまいそうだ。右腕は脈打つたびに痛みを発信し続け、脳を痺れさせた。双眸から勝手に涙が流れ、嗚咽がこみ上げる。

 怖い。

 はっきりとした恐怖が胃の底に横たわっていた。そこから感情が泥のように広がり、イエリの全身を蝕んだ。恐ろしい。あんなにも可愛がっていたアオが、今はとても恐ろしい。

 成竜に比べ、アオの爪は短く柔らかかった。「竜の爪は何度か生え変わりながら強靭になる」と王は話した。イエリはそれに、楽しみだねと笑った。

 だが、その爪も人を裂くには十分な強さがある。

 アオは途切れ途切れに鳴きながら、もう一度起き上がる。吠えたてる声にも覇気がなくなり、明らかに弱っていた。だというのに、アオは自分の状態に気がつかない。ただイエリを食うためだけに立ち上がり続ける。

 どうしてこんなことに。

 イエリの頭の中に、純粋な疑問が湧いた。なぜ自分は、こんなことをしているのだろう。竜を恐れながら、その眼前に立ちふさがっているのだろう。愛した友人を恐れているのだろう。

 その一瞬の隙を、竜は見逃さなかった。イエリがぼうっと立ち尽くしたところを狙い、飛びつく。思考に呑まれていたイエリは、今度は避けることが出来なかった。

「あ……! い、や! いや!」

 イエリは腕で自分を庇う。鱗の感触が手に触れた瞬間、必死で手を振り回し何かを掴む。イエリは地面を転がりながら、自分に張り付いた竜を振り払おうと暴れまわった。

「やだ! やだあ! やめて!」

 ギャアッと獣の叫びが聞こえる。彼が鳴くたびに生臭い息と唾が顔に飛んだ。イエリは竜の首と翼を両手で掴み、体から引き離すべく腕を突っ張る。右腕は痛むが、その痛みに負ければ死ぬのは目に見えている。鋭い爪が腕や顔を浅く裂き、大きな口がイエリの喉を噛み千切ろうと迫ってくるのだ。イエリは泣き叫んで手足をばたつかせた。

「いやあ! もう……やめてよッ!」

 竜の体がわずかに離れた瞬間。今だ、とどこかで声がした。イエリは声に従い竜の胴体を思い切り蹴り飛ばした。反射的に両手が離れ、竜の体が浮き上がる。その一部始終がスローモーションのように見えた。

 次に聞こえたのは、どす、という鈍い音だ。

「はぁ……う……」

 何とか上体を起こし、竜がどこへ行ったのか確認する。イエリもまた、獣じみた呼吸をしながら周囲を睨みつけた。

 竜はすぐに見つかった。

 イエリの足元の木、その根本に竜は落ちていた。先ほどまでと違い、鳴いたりもがいたりする様子はない。動かない体がぐったりと転がっていた。

「あぁ、は……」

 静かに、ゆっくりと立ち上がる。右腕はもう動かせず、痛みと恐怖で眩暈が激しい。だが油断してはだめだ。イエリはそろそろと足音を殺し、竜へ近寄った。

 竜は完全に沈黙していた。もうぴくりとも動く様子もない。

「あ、は……え……?」

 イエリの頭にあるのは混乱だ。

 竜が──いや、アオが動かない。少しも、身じろぎすらしない。呼吸で胸が上下することも、鼻先をひくつかせることもない。

 死んだ。

「え、あは……あれ……?」

 ずるずると地面に座り込む。どっと汗が噴き出して背筋を伝った。世界の音が遠くなり、自分の呼吸と鼓動に支配されていく。

 左手で、ツンとアオをつついた。鱗の感触はしたが、動きはない。

 手の平で少し撫でてみた。ざらついたいつもの触り心地だ。ほんのりと温かい気がする。

 大きく揺り動かしてみた。イエリの手で揺れるばかりで起きる素振りもない。芯のないぐんにゃりとした柔らかさだった。

 叩いた。優しく呼んだ。叱ってみた。抱きしめてみた。

 だが、動かなかった。

「あ、アオ……」

 アオは死んだのだ。

「あは」

 笑い声に似た吐息がこぼれた。イエリは、アオを抱いたままなにも出来なくなる。

 どうして。

 さきほどもよぎった問いが、再びイエリを訪れた。

 どうして、こんなこと。

「アオ……起きて……」

 自分はただ、森で生きたかった。もう搾取されることのない場所で、王の隣で生きていきたかった。それ以外になにも望んではいなかった。そこにはアオもそばにいて、共に生きるのだ。

「アオ、あおぉ……」

 アオの体に水滴がぱたぱたと落ちていく。その水はアオの鱗をなぞり流れ落ちた。普段ならば、アオはその感触に気が付いて、不思議そうに首を傾げるだろう。イエリが悲しんでいることを察して、顔を舌で舐めてくれるかもしれない。しかし、それはもう二度と起こらない。

 イエリ、どうして、こんなこと。

「あああ、あ、あ、あああああ……ああぁ……」

 現実を拒絶するように首を振る。涙が飛び散ってどこかへ消えた。

 なによりも許せないのは、アオが死んだ瞬間に安堵した自分自身だった。

 食われずに済んだのだ、そう理解した瞬間、イエリはほっとしていた。自分が死ななかったことに安心したのだ。友を殺した悲しみよりも、自分の命を真っ先に考えていた。

 以前は違った。死ぬことに恐怖はあれど、生に対する執着はなかった。だからこそ、命知らずな行動を出来た。

 だが、イエリは帰る場所を得た。王のそばへ帰りたいと思うようになった。生きたいという強い思いが芽生えたのだ。

 でも、アオを殺したイエリを、王さまは許してくれるはずない。

 何重もの絶望がイエリを絡めとる。こんなことなら、アオに食われてしまえばよかった。王の隣で生きることなど望まなければよかった。アオと友人にならなければ、王になど出会わなければ、森に入らなければ。

 意識の縁が溶け始める。ふっと頭の後ろが軽くなる感覚は、イエリが今までに何度も味わったものだ。気絶する前兆に身を任せれば、イエリはまもなく眠ってしまうはずだ。

 このまま意識を失えば、イエリはきっとこのことを忘れるだろう。今までもそうだった。つらいことがあるたび、その時の自分を殺して忘れてきた。アオを殺したことも忘れてしまえば、王の隣で無邪気に笑っていられる。なかったことになる。

 ──本当に?

 消えかけた意識の片鱗が呼びかけた。

 記憶を失っても、それは完全ではない。何かをきっかけに浮かび上がったり、忘れ方も虫食い状態であったり。そんな忘れ方で、こんなに大きな罪をなかったことにできるのか? なによりも、アオを殺した自分がのうのうと生きていくなど許されるのか?

「……そう、だね」

 イエリの頭ががくんと落ちる。その衝撃で右腕が強く痛み意識を引き戻した。イエリはぼうっと涙を流しながら、アオの背中を優しく撫でた。

「忘れちゃだめ。アオのこと大好きだから、覚えてなきゃ……そうだよね」

 本当に竜を愛するのなら、この罪を抱えていかなければならない。たとえ忘れたとしても、なかったことになどできないのだから。

「アオ」

 美しい、青の瞳。イエリが名前を呼ぶたびに、その目を輝かせてそばへ飛んできた。毎日共に過ごし、くだらない遊びもした。王に叱られることもあった。それでも、無鉄砲なイエリを見守ってくれていた大切な友達だった。

「アオ…………」

 甘えた鳴き声はもうしない。ただイエリの胸の中で、ゆっくりと命の熱が冷めていくだけだった。

 罰は王さまに任せよう。

 イエリは滲んだ頭で思う。

 竜を殺したイエリを罰せられるのは王だけだ。王が与える罰ならば、どんなものでも受けなければ。たとえ殺されるとしても、王が決めたことならば受け入れる覚悟がある。むしろ、罰してほしい。アオを殺した自分を、許さないと憎んで突き放して。それこそが、この罪に対する正当な罰だ。

 けれど、もし。万が一、億が一、そんな可能性はないと知っているけれど。

 もし王さまがイエリを許したなら。

「……そんなこと、あるわけない」

 イエリの顎から雫が落ちていく。爪で切られた頬に、涙が染みてひりついていた。


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