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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第五章 雨
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恐れよ

 空を飛んでいたのは少しの間だった。歩いて移動した時は丸一日かかった距離でも、竜の翼でなら目と鼻の先だ。高度を下げるときにも、何とも言えない不快な感覚があったが、歯を噛み締めてこらえた。

 徐々に降下して地面に近づいていくが、そうすると地上の騒ぎの大きさに改めて気が付く。

「なにあれ……!」

 イエリは目を疑った。地上には森から出てきたのか、数匹の竜がいたが、その様子はどれもおかしかった。

 彼らは皆、先ほどのビナーと同じだった。知性を失ったようなぎらついた目で互いを睨み、威嚇の声をあげている。竜たちのいずれもが口を血で濡らし、人を襲った後だと分かる。

 不意に、二匹の竜の距離が縮まった。自身の縄張りを犯されたと感じたのか、竜がぱっと顔をあげ、低く唸る。二匹とも大きさ自体はそこまでではないが、鋭い爪や牙を持っている。二匹が争えば、お互いに無事ではすまないだろう。一触即発の空気は、飛んでいるイエリにまで伝わってきた。

 ビナーが下降をやめた。下の様子が把握できる位置まで降りると、緩く旋回しながら高度を保つ。地面には降りず、ここから状況を判断するようだ。

「喧嘩してるの? なんで?」

 イエリが王へ尋ねる。しかし彼もまた答えを持たないのか、眉をひそめたまま答えなかった。

 竜は基本的に、同族同士で争うことはない。縄張りという感覚が薄く、自分の巣を荒らされなければ竜を襲うことはないのだ。そして、竜たちもお互いにそれを分かっているため、竜の巣を荒らすことはしない。王のいる洞穴にアオが入ろうとしなかったのと同じだ。だからこそ、平原に出ているこの状況で二匹が争っているのは異常だ。

 イエリは焦りに身を任せて叫ぶ。

「止めないと!」

「分かっている」

 王は呟くと、イエリから離れた。

「背から落ちないように、じっとしていろ」

 それだけ言い残すと、王は身を翻し竜の背から飛び降りた。

「王さま!」

 思わず金切声の悲鳴をあげる。咄嗟に下を覗き込むと、そこには軽く着地した王の姿が見えた。ビナーが低空飛行していたこともあり、問題なく降り立ったようだ。流石、竜の王。感心したような呆れたような気持ちで、イエリは胸を撫でおろした。

 王はしっかりとした足取りで睨みあう竜たちに近づき、なにか呼びかけた。しかし、先ほどのビナー同様、王の言葉にも耳を貸さない。王は仕方なく、実力行使で彼らの正気を取り戻すことにしたようだ。巨体を蹴り飛ばし、殴りつけ、竜たちの間に割りこむ。そのどこか作業的な動きを見守りながら、イエリは周囲を見渡した。

 ここはタリステリアの中でも、フリアナの畑に近い場所のようだ。景色に見覚えがある。しかし、畑は竜に踏み荒らされ、周囲に巡らされていた柵も破壊されていた。見知った場所が見るも無残な有様になっているのは悲しかった。

 イエリは人が嫌いだ。ルオと話した時も、人がみんな死んだって構わないと本気で思っていた。けれどもこの光景や、竜が人を食らう場面を目の前で見ると、胸を張って同じことを言うのは難しかった。

「あれ……? ちょっと待って……」

 ここがフリアナの畑の近くということは、フリアナの家も近いと言うこと。開戦に合わせて彼女が避難していればいいが、そうでなければ──。

 顔からさあっと血の気が引く。イエリはビナーの背を叩いた。

「ビナー、降りて! 今すぐ!」

 彼女は疑問符の浮いた鳴き声で答える。王からの指示は「その場で待て」というものだったのだろう、ビナーが困惑する気配がした。しかし、イエリはこのままここにいるわけにはいかない。半狂乱で叫び声をあげる。

「お願い、お願い! 降りて。そうじゃなきゃ、イエリもここから飛び降りるから! いいの? イエリ、王さまみたいに降りられないから、落ちたら死んじゃうかも!」

 ビナーに人の言葉が通じているのかは微妙だが、ニュアンスは伝わっていると信じる。イエリが半ば脅しのようにして体を下へ乗り出すと、ビナーが慌てて高度を下げ始めた。ビナーが王の指示に従っていたらイエリにはなすすべもなかったが、彼女はイエリの命を優先してくれた。内心でガッツポーズをしながら、イエリは地面に降りるタイミングを今か今かと待つ。

 どすんと地面を揺らして降り立つと、イエリはようやく肩の力を抜いた。空を飛ぶのは楽しかったが、恐ろしくもあった。揺れのない地面に足をつけると、何とも言えない安心感がある。

「お前たち、なぜ降りてきた」

 降りてきたところを見ていたのか、王がこちらへ戻ってくる。ビナーは小さくなって首を縮めているが、イエリはビナーからずり落ちながら王へ話しかけた。

「イエリを助けてくれた人が、この近くに住んでるの! もしかして家にいるかも……そしたら助けないと……!」

 腹を擦りながら滑り落ちていくと、その途中で抱え上げられる。振り向けば、やはりというべきか王がイエリを持ち上げていた。ありがとう、と礼を言うと、彼は不機嫌そうに眉を寄せていた。そのまま低い声が尋ねる。

「それは、お前の命を懸けるに値することか」

「フリアナはイエリを助けてくれたの。だから恩返ししたい……駄目?」

 ひたと王を見つめる。そのまま無言で見つめあうと、彼の琥珀色の瞳が揺れた。顔を歪めて、苦渋に満ちた声をこぼした。

「イエリを信じると言ったのは私だったな」

 王がイエリを地面に降ろす。鱗に覆われた手が髪を持ち上げる、その、壊れものを扱うような丁寧な仕草に、イエリの心臓が握りつぶされた。

「イエリの居場所は、王さまの隣だよ」

 王の手を掴んだ。そのまま顔に引き寄せ、頬を当てる。鋭い爪が目のすぐ脇に見えたが、少しも恐ろしくなかった。

「絶対王さまの所に帰る。だから、王さまもイエリの帰る場所でいて」

 王の目が見開かれた。そしてすぐに和らぎ、小さな微笑みを浮かべた。ざらついた手のひらがイエリの頬を柔らかく撫でる。それだけで、イエリには十分だった。

「私も行く。竜殺しを見ているのはお前だけだ。お前の恩人を助けた後、すぐに竜殺しを探す……いいか」

「うん。ありがとう、王さま!」

 イエリは笑顔を浮かべると、すぐに王の手を引いて走り出した。王は振り向きざまにビナーへ何か指示を出し、彼女もそれに同意した。一瞬の間をあけて、竜が羽ばたく音と風を背中に感じる。ビナーはふたたび飛び上がったようだ。

「彼女には上空から来させる」

 王から説明され、イエリは素直に頷いた。フリアナの家まではすぐだ。ビナーに乗るまでもない。それに王だけでなく大きな飛竜まで連れて行ったなら、フリアナがひっくりかえって気絶してしまうかもしれない。王の判断はこちらにとってもありがたかった。

 フリアナの家までは、イエリの足で走っても近かった。見慣れた小さな家、広い畑。過ごした時間は短かったが、イエリにはどれも懐かしく大切な場所だ。家が倒壊せずに残っていることに安堵しながら、イエリは畑を突っ切った。

 足をもつれさせながら、家のドアに飛びつく。鍵がかかっているのか、ドアはガタンと揺れるだけで開かない。イエリはドアを強くノックした。

「フリアナ! いるの? イエリだよ、イエリ! 大丈夫?」

「イエリ……?」

 家の中から、微かな声がした。竜の咆哮にかき消されてしまいそうな囁きは、しかしイエリの耳にしっかりと届いた。

「聞こえた……!」

 彼女は生きている。イエリはひとまず安堵した。目にうっすらと涙を浮かべると、鍵が開かれる軽い音がした。

 木のドアが軋みながら、慎重に開かれていく。イエリはその隙間に顔を寄せて必死に呼びかけた。

「フリアナ!」

 薄く開いた隙間から、ブラウンの怯えた瞳が見えた。フリアナだ。

「イエリ!」

 彼女はイエリの顔を確認するなり、ドアを開いてイエリを抱きしめた。力強く抱き寄せられて息が漏れるが、久しぶりの再会だと思うと嬉しさが勝った。イエリもまたフリアナを抱きしめ、その背中をさすった。

「フリアナ、よかった。無事だった!」

「それはこっちのセリフよ!」

 強い力で肩を揺さぶられる。フリアナは泣き出しそうになりながらイエリの顔を覗き込んでいた。

「家に帰ったらあなたはいなくなってるし、クレイさんは『竜を助けに行った』って言うし……一体何をしてたの!」

「か、勝手にいなくなったのはごめんなさい。でも、あのときはすごく焦ってて……」

 しどろもどろになりながら説明していると、フリアナがふと顔をあげた。イエリの後についてきていた王の存在に、ようやく気が付いたようだ。彼女は硬直した後、引き攣れた悲鳴をあげた。

「いやああああッ!」

 鼓膜がびりびりと震える。イエリは肩をすくめたが、すぐに事態を把握した。両手を大きく振り回し、フリアナをなだめる。

「違うの! 大丈夫だから、王さまはフリアナを食べたりしないよ。落ち着いて」

「いやっ! ごめんなさい、やめて!」

「フリアナ!」

 フリアナは泣き叫びながら後退る。彼女には、どんな言葉も届いていなかった。イエリは我を失ったフリアナを見つめ、胸の奥がすうっと冷たく撫でられる感触を味わっていた。

 フリアナは間違いなく善人で、イエリの味方だ。イエリが助けたいと思う数少ない人間で、伝えきれないほどの恩を感じている。だからこそ、彼女ならば竜のことも、王のことも受け入れてくれるはずだと勝手に思っていた。しかしそれは、イエリの思い込みだったのだ。

 竜が人を襲っているこの状況で、冷静に王と向き合うのは確かに難しいだろう。このタイミングでなければ、もっと違う展開になったのかもしれない。けれど現実はこうだ。体を縮めて恐怖に泣いているフリアナと、その前に立つイエリたち。それが全てだった。

「イエリ」

 王が短く名前を呼んだ。イエリはなぜだか泣きそうになり、唇を強く噛み締める。喉に熱の塊がつまり、息が苦しかった。

「王さま、ごめんなさい……少しだけ、二人でお話するね」

 王もそのつもりで声をかけたのだろう。小さく首肯し、ドアの前から離れた。そばにはいるが、フリアナの目に入らないところまで移動してくれたようだ。

「フリアナ……フリアナ……」

 喉の塊を飲み下し、イエリは蹲るフリアナの背を撫でた。彼女は一瞬肩を跳ねさせたが、相手がイエリだと分かるとおずおずと顔をあげる。そして、イエリを守るように抱きしめた。

「フリアナ、あのね……イエリ、恩返しに来たの」

 彼女の顔はすっかり青ざめていた。恐怖と絶望に塗られた瞳は、普段の穏やかさを失い、揺れている。イエリは彼女が落ち着くように、ゆっくりと撫でながら話しかけた。

「イエリね、ずっと森にいたの。竜たちと一緒にいた」

 外では、竜が人を狩る声がしていた。その鳴き声は、竜たちが優しいことを知っているイエリでさえ怯んでしまう迫力がある。フリアナや他の人々は、もっと恐ろしかっただろう。

「フリアナがイエリを助けてくれて、嬉しかった。フリアナのこと大好きになった。でもね、イエリの居場所って本当にここなのかなって……イエリがいるせいで、フリアナに迷惑かけちゃうんじゃないかって、不安だった」

「そんなこと……!」

 王がいなくなってわずかに冷静さを取り戻したのか、フリアナが首を振る。イエリはフリアナの肩に顔を埋めながら、話を続けていく。

「竜が森から出てきた時、兵士たちが竜を殺したのを見て、分かったの。イエリ、人よりも竜のほうが好きなんだって。だから、竜を助けたかった。森で暮らしたかった」

「そんな、どうして……竜は人を食べるのよ!?」

「うん。でも……」

 イエリは思い返す。村で過ごした時間、虐げられ、蹂躙された日々のこと。

「人も人を食べるでしょ?」

 竜は食料として人を食らう。その純然たる本能には、確かに恐怖や、人と相容れない部分を感じることもある。

 しかし、人もまた人を食らうのだ。

「イエリ、村で何度も食べられた。お母さんもそう。食べられて、肉の欠片もなくなるくらい食べつくされて、死んじゃった。シオは、食べられる前に死んじゃったけど……お母さんが食べられなければ、シオだって生きてたかもしれない。イエリたちは、ずっと人に食べられて生きてきた」

 人は生きるためではなく、ただ快楽のために人を食う。イエリを食べなければ死ぬわけでも、イエリたちが掟を破ったわけでもないのに食う。イエリは、食べられるために生きていた。

「それなら、生きるために食べる竜のほうがよっぽどいい。それに、王さまがイエリのこと食べちゃ駄目って言ったら、みんな食べないでいてくれたの。優しくしてくれたの。人なんかより、ずっと……」

 フリアナは優しかった。イエリは、初めて自分を食べない人に出会った。だからこそ感謝しているし、フリアナが死んでしまうのは耐えられない。だが、それでもイエリの帰る場所はここではないのだ。

「フリアナ、このお花、持って」

 イエリはポケットに忍ばせていた花を差し出す。頬を濡らしたフリアナは、呆然自失としながらもそれを受け取った。

「パネノミ……?」

「竜はこの花が嫌いなの。持ってれば、きっと襲われない」

 フリアナの手は震えていた。イエリは彼女の手をそっと握り、精一杯笑う。

「イエリのこと、助けてくれてありがとう。大好き」

「ま、待って!」

 イエリが立ち去ろうとすると、フリアナが縋りついてくる。彼女は涙を流しながらも、行かせてなるものかとシャツの裾を掴んでいた。

「本当に行くの? 竜に利用されていない? 森で生きることがあなたの幸せなの?」

 悲痛な声だった。だが、イエリは胸を張って、はっきりと答えられる。へらり、と力の抜けた笑みを浮かべた。

「うん。王さまが、イエリの居場所だったの」

 その言葉を聞くなり、フリアナの体から力が抜ける。がっくりと肩を落として崩れ落ちた姿は、とても小さく見えた。

 これ以上王を待たせるわけにはいかない。イエリは胸を締め付けられながら、フリアナから離れる。そのまま家から出ようとしたとき、背中に声がかけられた。

「幸せに、なりなさい」

 思わず、振り向く。

 フリアナは笑っていた。双眸から涙をこぼしながら、それでも顔をあげて、まっすぐにイエリを見つめている。その目には、かつて母が注いでくれたようなあたたかな愛が込められていた。

「うん!」

 イエリは満面の笑みでそれに答えた。そして今度こそ、振り返らずに家を出た。


 イエリが家から出ると、離れていた王がすっと目線をあげた。イエリは王の元へ駆け寄り、鼻水をすすった。

「もう大丈夫。竜殺しさんを探しに行こう」

 王は頷いた。そして、イエリの小さな頭に手を乗せて、一度だけ撫でた。

「行くぞ」

 王はフリアナについて何も言わなかった。それが余計にイエリを打ちのめす。

 人の王は、ずっとこんな気持ちで生きていたのか。

 人が竜を恐れる気持ちについて、理解したつもりでいた。しかしイエリの感覚は、一般のそれと大きくずれているようだった。

 王は、遠目に見れば人の姿をしている。体のあちこちを鱗で覆われ、頭には角が生えているが、竜と人どちらに似ているかと言えば、圧倒的に人に寄っている。だからこそ、王を見たとしてもそこまでの恐怖や衝撃はないだろうと思っていたのだ。

 しかし、フリアナは怯えた。竜を見たときと同じように、食べないでくれと懇願した。

 ──竜殺しさんも、ずっとそうだったのかな。

 実の母親から恐れられ、人目につかないよう隠れ、怯えられることに怯え。その世界は、どれだけ窮屈で苦しかっただろうか。

 イエリはただ悲しかった。自分の愛するものが受け入れられなかった。竜を愛することを拒絶された。

「竜殺しはビナーに乗って探す」

 王はそう言って、降りてきたビナーの背にイエリを登らせる。その手つきは、とても優しく力強かった。

 王さまはこんなに優しいのに。竜はみんな優しいのに。

 油断すると涙が零れ落ちそうだ。イエリは顔に力を入れて、みっともなく泣きださないようにこらえた。

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