王は懸念する
太陽は大地の向こう側へ沈み、ほとんどその姿は見えない。西の空が薄ぼんやりと橙色に滲んでいるが、上からは夜の幕が降りてきている。木々が夜の訪れを知らせるようにざわめいていた。
〈王よ〉
後ろに控えていたティファレトが躊躇いがちに声をかけてくる。彼女の声は痛みを孕んでいたが、容赦なく現実を突きつける。
〈イエリは、まだ戻ってきません〉
王はようやくティファレトへ振り向いた。彼女は目を伏せると、王の足元へ鼻先をつける。イエリが戻らないのは彼女の責任ではないが、王を気遣っているのかもしれない。
〈そうか〉
王は呟く。ティファレトに顔をあげるよう言うと、彼女はおずおずと体を起こした。
イエリは「知り合いのところへ行く」と言って出て行った。しかし森の境界近くまで見送りに行ったネツァクによると、兵士たちの元へ直行し、人の王との面会を申し出たという。それを聞いた時、王は呆れて言葉も出なかった。危険ならばすぐに戻れと伝えたが、まさか自分から危険地帯へ突撃するつもりだったとは。無鉄砲にもほどがある。
日が落ちても戻らないと言うことは、彼女は人の王に捕えられた可能性が高い。奴隷の首輪は外したが、貧しい身なりの子供が王に突然面会できるとは思えない。人の王の前に飛び出して兵士に捕まる様子が、脳内で鮮明に想像できた。王は頭を抱えてため息をついた。
しかし王は不思議だった。
イエリを疑う気持ちが、欠片もないのだ。
彼女が竜を見限って人の元へ戻った、初めから人の王のために働いていた──その可能性もある。だが、王はそれはないだろうとすっぱり切り捨てることができた。
共にいてほしい、と伝えたとき、彼女は泣きそうに顔を歪めて頷いた。彼女が本心から自分を望んでくれたのだと、分かったのだ。
この直感は王としては正しくないかもしれない。けれど、王はイエリを信じていた。不用意な行動で人に捕まることがあっても、それは竜への裏切りではないと。
〈どうなさいますか〉
ティファレトが問う。イエリを探しに行くべきか迷っているのだろう。掟を破るわけには行かないが、彼女を放置することで森の情報が漏洩するリスクもある。彼女の考えに理解を示しつつ、王は冷静に告げた。
〈じっとしていろ〉
〈それは……〉
ティファレトは多少なりとも驚いたようだ。イエリが人に寝返ったと考えるか、そうでなくても捕まったのなら助けに行くと言い出すと思っていたのだろう。しかし、自分は竜を統べる王だ。軽率な判断はできない。
〈人の子ひとりのために掟を破ることはできない。これまで掟を遵守してきた先祖たちにも示しがつかない〉
〈それでは、彼女のことは捨ておくと……〉
王は首を横に振った。
〈人は、竜と争うつもりらしいな〉
〈恐らく。南部の竜を殺したのも人でしょうから〉
〈つまり、そう時間を置かずに人は森へ侵攻してくるはずだ〉
イエリから聞いた話を思い返す。増えすぎた人口を支えるだけの食料はなく、貧富の差は広がるばかり。人々は森を開拓して新たな農地を得たいと考えている。今回、湖にパネノミを投げ込んだのはその前段階だ。
〈人は掟を破り、大勢で森へ侵入する。それならば、竜が平原へ出ても問題はあるまい〉
〈あくまで先に掟を破るのは人であると?〉
王は頷いた。
ここ数か月感じていた不穏な空気。それはほぼ確信に変わっていた。人は森を奪いに来る。人がそのような手段に出るのなら、竜が平原で暴れたとしても咎める者はいない。イエリを助けに行くのは、人が森へ立ち入った後だ。
人がどこから侵攻してくるのかは不明だが、攻めてくると分かっていれば対策の取りようもある。王は各地の竜に警戒するよう伝達を飛ばした。
しかし、どうにも腑に落ちない。
鱗を貫通する槍があったとしても、人と竜の力の差は圧倒的だ。イエリが言うには「体を拘束する機械があった」そうだが、それだって一度見てしまえば二度は通用しない。だというのに、なぜ人は強気に攻めてくるのか? 竜が言葉を解さない知能の低い獣だと考えているのかもしれないが、それにしたって無計画な行動に思えた。
そこで思い出されるのは、太古にあった人と竜の戦争のことだ。
遥か昔、人と竜は争い殺しあっていた。そして現状を憂いた者たちが、争いを避けるために住処を分け、今の形に落ち着いた。
だが、なぜ「争い」となったのか?
人は竜にとって捕食対象である。もしもめごとが起きたのならば、人は一方的に竜に食われて終わるはずだ。争いというレベルにはならない。だというのに、祖先たちは人と竜の住処を分け、不可侵であれという掟を作り出した。そして、掟を守らせるために「王」を作った。
なぜ、人は絶滅しなかったのか。竜の圧倒的な力を見て降伏したのか。竜はその降伏を受け入れたのか。掟が生まれたのは何千と昔の話だ。最長齢であるケセドでさえ生まれていない時代のことを、今や誰も知らなかった。
なにか、重大な見落としがあるのではないか。王の胸に嫌な予感がよぎる。
しかし大人しく森を明け渡すなどできるはずもなかった。たとえ人が何を企んでいたとしても、戦わなくてはならない。森も、竜も、イエリも、人に渡すつもりはなかった。
空を仰ぐ。
木の葉の隙間からは星空が見える。闇の中に散らばった星々は、王の懸念を笑うように瞬いていた。




