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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第一章 竜の森へ
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出会い

 頬が濡れていた。

 イエリは背中の痛みに目を開けた。ズキズキと鈍い痛みが骨まで響く。体を捩りながらあたりを窺うと、目の前には木々が生い茂っており、見たことのない草木が好き放題に生えていた。

 イエリ、なにしてたんだっけ。

 数秒呆然としてから、唐突に記憶がよみがえる。そうだ、イエリたちは竜に襲われたんだ。はっとして体を起こすと痛みが激しくなり、イエリは顔をしかめる。

 イエリが気を失っていたのは短い間だったようで、土埃も完全におさまってはいなかった。それでも、周囲の異様さにはすぐに気が付いた。

「う、」

 地面に広がるのは、間違いなく血だまりだった。

 たった今、生きている人間から搾り取ったばかりの血液。ともすれば、赤々としたそれは作り物にも見える。地面を黒く湿らせ、獣臭さと生臭さが立ち込めていた。御者だけでなく、イエリと共に馬車で揺られていた奴隷たちも食われたのだろうか、明らかに一人分とは思えない血液量だ。

 みんな、しんじゃった。

 イエリは胃の底からこみ上げる不快感を必死で飲み込んだ。喉が焼け、口の中に酸っぱい味が広がるが、なんとかこらえる。あまりの衝撃に、涙すら出ない。強烈な恐怖だけがくっきりと焼き付いて、イエリを釘付けにした。

 惨事を引き起こした竜は、次の獲物を探している様子だった。大人たちは粗方食べられてしまったのか、姿がない。竜の目に止まらないよう祈りながら硬直していたイエリは、竜の足元に見知った姿を見つけた。

 ──ルオ!

 うっかり悲鳴をあげそうになる。ルオは顔を真っ白にして、震えながら竜を見上げている。彼が生きていた喜びと、すぐそばに迫った恐怖で、頭が真っ白になった。

 ルオはがたがたと震えるばかりで逃げようともしない。腰が抜けているのか、床に座り込んだままだ。竜はまだ彼に気が付いていないが、それも時間の問題だろう。このままでは、彼が竜の餌になってしまう。

 しかし、逃げるなら今だ。

 イエリの脳裏が閃いた。

 周囲に他の竜は居らず、例の一匹のみだ。つまり、奴が食事に夢中になっている間であれば逃げることができるかもしれない。幸い、奴はすでに他の奴隷たちを食らっている、一人くらい逃げ出したところで熱心に追いかけてもこないだろう。

 じわ、じわ。自分の頭が、最悪な最適解を導き出すのが分かる。

 逃げるなら、今。竜がルオを食べてる間。

 目の前で、小さな背中が震えていた。やがて首を回した竜が足元へ目線をやる。

 竜の目が、ルオを捉えた。

「あ、ああ、ああああああああっ!」

 イエリの絶叫が森に響いた。突然の大声に驚いたのか、竜はこちらを見、ルオも振り返っている。彼は顔をぐしゃぐしゃに濡らして泣いていた。

「ルオ、逃げて!」

 引き攣れた声で叫ぶなり、イエリはルオと反対方向へ駆け出した。転びそうになるたび、手をついてなんとか立ち上がる。足には力が入らずまっすぐ走れない。それでも、逃げなくては。

 バカ、バカ! イエリなんでこんなこと……!

 馬鹿げたことをした自分に涙が出る。しかし、嗚咽を飲み込んで足を前へ踏み出す。

「困ってる子がいたら、優しく……!」

 後ろから、猛烈な勢いで竜が追ってくるのを感じた。激しい呼吸音とともに、生温い息が背中を撫でていく。その威圧感に足がすくみそうになるが、そのたびに自分を叱りつけた。

 ルオも助けられないで、シオを助けられるわけないんだ。イエリは、シオを迎えに行くんだ。イエリが行かなきゃ。

 涙でゆがんだ視界の中、草をかき分けて進む。背後で竜が吠えると、イエリは滅茶苦茶に叫び恐怖を誤魔化した。

「ああああ、あ、はあ……うわあああっ」

 どのくらい走っただろう。一瞬の出来事のようにも、一時間ほど走ったようにも感じる。イエリは小さな木の根につまずき、あっと思う間もなく地面に叩きつけられた。

「うあっ」

 すぐそこまで竜が迫っている。ぐわっと開いた竜の口の中は、大小様々な牙が血に濡れていた。

 ──もうダメ!

 真っ赤な口内が視界を覆った瞬間、イエリは固く目を閉じた。

「待て」

 低い声が飛んだ。

 その声は決して大きくはなかったが、やけに鋭く響いた。イエリは、待ち構えていた痛みが訪れないのを不思議に思い、恐る恐る目を開く。

 目の前には、先ほどと変わらず竜の口があった。今にもイエリを飲み込もうとしているが、時が止まったように動かない。生臭い竜の息が顔にかかりイエリの髪を揺らす。

「さがれ」

 同じ声が一喝する。すると竜は口を閉じ、素直に後ろへ下がった。

「うえ、な、なに……?」

 イエリには何が起きたのか理解できない。困惑しながら腰を抜かしていると、やがて竜の後ろから人影が現れるのを見た。

 それは美しい男だった。

 流れる濡羽色の髪は地面につきそうなほど長く、側頭部からは竜と同じ硬質な角が生えていた。冷たい双眸は金色で、薄暗い森の中で神秘的な輝きを放っている。目鼻立ちはこの世のものとは思えないほど美しいが、額や頬、首にかけて黒い鱗が覆っており、彼が人間ではないことを伝えている。身にまとうのは、遠く東の地で好まれている民族衣装に似ていた。一度だけ村で見たことがある、東方の商人が着ていたものだ。前開きの黒い衣を帯で締め、ゆるやかに着こなしている。

「一つ聞く」

 男は人語を話した。その発音はなめらかで、声だけならば人間だと思うだろう。彼はイエリを見下ろしながら尊大な態度で続けた。

「人の王の指示で来たのか。竜にあだなすためか」

 彼の声にはおよそ感情がない。憤り、嘲り、疑問、すべてが希薄。まるで義務感で問いかけているような不自然さがあった。

「答えろ」

 ぽかんとしたままのイエリに痺れを切らしたのか、男が催促する。イエリははっと我に返り、慌てて答えた。

「イエリ知らない! イエリたちは奴隷で、売られに行くところだったの。森に入ったのも知らなかった……」

 イエリの言葉に、男は頷くでもなく黙りこくっている。イエリは泣きそうになりながら必死で訴える。

「勝手に入ったのは謝るから……ごめんなさい! イエリたちも知らなかったの」

「では、最近森に踏み入る人間が多いことも、お前には関係がないと」

「へ……し、知らない。イエリ、森が竜の住処だってことも知らなかったもん」

 男の金目が細まった。射すくめられたイエリは体を小さくした。

「もしかして、みんなイエリみたいに森に入っちゃだめだって知らないのかも。だって、シオのことも森に捨てるって言ってた……」

 そう話してからピンと思いつく。この人は、どうやら竜や森のことに詳しそうだ。それなら、森にシオが捨てられたかどうかも知っているのではないか?

「あ、あの!」

 イエリは体を乗り出した。

「シオ、イエリの弟……まだ赤ちゃんなの。森で見たこと、ない? 村のみんなが、シオは森に捨てるって言ってた。だから、弟のこと探したくて……・」

 この人ならシオについてなにか知ってるかもしれない。先ほど馬車を襲った竜は男のそばに控えているが、彼の静止が効いているのか、襲いかかってくる様子はなかった。イエリは、自らの命の危険を忘れて淡い期待を抱く。

「村、か」

 男はふん、と鼻を鳴らした。温度のない瞳がイエリを頭から足先まで全身観察し、居心地が悪い。それでもイエリは目をそらさず、ひたと男を見つめ返した。

 やがて満足したのか、男が平坦な声で告げる。

「いいだろう。見逃してやる。森でも自由に過ごせ」

「え……?」

「弟とやらも、探したいのなら好きにしろ。協力はしないが、お前を襲わないように竜たちには言っておく」

「いいの?」

 イエリはぱっと顔を輝かせた。男は何の感情も浮かばない表情で、横の竜を見上げた。そして、イエリの知らない言葉で竜に語りかける。

 その言葉を聞くなり、竜は低く頭を下げて、男の足元に鼻先をつけた。そしてすぐに踵を返し、どこかへ行ってしまう。ひとまずの脅威は去ったようだ。イエリはほっと胸を撫でおろした。地響きを立てながら、竜が見えなくなるまでじっと見つめていた。

 あの大きな竜、いるだけで怖いんだもの。行ってくれてよかった。

「あ、そういえば、あなたって何者なの?」

 イエリは気になって男へ問いかけるが、振り向いた先には既に誰もいなかった。竜に気を取られている隙にどこかへ行ってしまったらしい。木々のざわめきの中、イエリだけが取り残された。

「……こんなことになっちゃうなんて」

 ルオは無事かな。イエリが時間を稼いでいるうちに逃げていればいいけど。それにシオも、はやく見つけてあげなくちゃ。

 期せずして、奴隷商人から逃げ出し、森の中を歩き回る自由も手に入れた。恐ろしい目にはあったが、運がよかったと思おう。

 イエリは唇をかみしめ、ふらふらと立ち上がった。

 待っててね、シオ。お姉ちゃんが助けに行くよ。

 目的地も定まらぬまま歩き出す。弟を迎えに行かなければという焦燥感だけが、イエリを突き動かしていた。

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