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イエリと王さま  作者: みつきあこ
第四章 炎の足音
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帰る場所

「駄目だ」

 とはいえ、面と向かって提案すればそう言われるのは目に見えている。王は用心深く、イエリに対しても無鉄砲なことはしないようにと何度も言ってくる。平原に戻って人の王と話に行くなど、認めてはくれないだろう。

 そのため、イエリは王ではなくティファレトへ提案することにした。彼女は人の言葉を理解するため、イエリがどこへ行ったのかを王に説明してくれるはずだ。

 王は森全体に異変がないか見てくると言ってイエリを置いて行ってしまった。お目付役としてティファレトが残されたが、イエリにとっては絶好のチャンスだ。王がいなくなると、イエリは勢いよく立ち上がった。横で丸くなっていたアオが驚いたように鳴く。

「ティファレト、お願いがあるんだけど」

 彼女は凛としたまなざしでイエリを見る。鱗だけでなく顔立ちまで美しい竜だ。森では王の右腕として様々なことを任されていると聞く。イエリとは違い、王から信頼されているのだ、と思うと心臓がちりちりとした。

「イエリ、平原に行ってくる」

 心臓の不快感を振り払い、イエリは宣言した。ティファレトはあっけにとられているが、構わずに説明する。

「あのね、森のすぐ近く、イエリの恩人が住んでるの。イエリが兵士に見つからないように匿ってくれた、優しい人。だからその人たちが今元気かどうか、確かめに行きたいの。でも……」

 イエリはふと、自分の首を見下ろした。首にある鉄の首輪に触れると、重く冷たい感触がした。

「イエリ奴隷だから、見つかったら掴まってお話どころじゃなくなっちゃう。だからティファレトの爪で、なんとか首輪だけ壊せない? そしたら見つかっても掴まらないと思うの」

「ィ、エリ」

 ティファレトは見るからに困惑していた。鼻先がぴすぴすと鳴り、落ち着きなく頭を振っている。イエリは彼女をなだめようと両手を振り回した。

「大丈夫だよ。イエリ、これまでなんだかんだやってきたし。首輪だけとって? そしたらイエリは勝手にするから。王さまには、イエリはちょっと平原の知り合いに挨拶に行きましたって言ってくれればいいよ。王さま心配性だけど、今はイエリなんかに構ってる場合じゃないでしょ?」

 猫なで声で語りかけてもティファレトは動かない。彼女ならば首輪を壊してくれると思ったが、イエリの判断ミスだっただろうか。話しかける声にも熱が帯びてくる。

「イエリ、平原に戻りたいの! 首輪があると出られないから……わがままなの分かってるけど、でもイエリ……」

「戻りたいのか」

 はっと振り返った。いつ戻ったのか、そこには所在なく立ち尽くす王の姿があった。

 王はティファレトとアオへ声をかける。席を外すように伝えたのか、ティファレトはすぐにこの場から離れ、アオもまた名残惜しそうにイエリを見ながら飛び去る。立ち去っていくティファレトを見ながらイエリは肩を落とす。作戦は失敗だ。

「平原へ行くのか」

 王の声にはいつもの覇気がなかった。迷子になった子供の声に似て、頼りなく揺れている。イエリは一瞬言葉に詰まったが、こくりと頷いた。王が来てしまったのなら仕方ない。彼を直接説得するしかなかった。

「森のすぐそばに、イエリの恩人が住んでるの。元気かなって……森でも色々起きてるし心配で」

「人の中にも、お前を受け入れる者がいるのか」

「えと、うん……フリアナって言うの。イエリが兵士に見つからないように匿ってくれてた」

 王の体がとても小さく見えた。形のいい眉が歪められ、なにか言おうとして唇が開かれる。しかし、言葉が発せられることはなかった。

 王は一歩一歩とゆっくり近づいてくる。そしてイエリの目の前に立つと、腕をそっと持ち上げた。

 王の手が首輪に触れる。長い爪の生えたその手は、鉄の輪を握り込んで力を込めた。

 バキ、と音がした。下を見れば、王の手によって首輪は砕けて曲がっている。長い間イエリの首を拘束し続けた鉛の塊が地面に落ちると、肩がとても軽かった。

「首輪がなければ、お前はどこにでも行ける」

 王の細い声がした。顔を見上げると、長い前髪の隙間で瞳が揺れていた。

「王さま?」

 名前を呼ぶと、王の手が背中にまわり、ゆっくりと、しかし力強く抱きしめられる。息苦しいけれど、温かかった。

「お前は、川に流れる木の葉だ」

「どういうこと?」

「気まぐれで、捕まえようとしても逃げてしまう。水に流されて一つ所に留まらない」

 イエリは首を傾げた。王の言っている意味がうまく理解できない。あちこち動き回るなと言うことだろうか。

 王の様子はどこかおかしい。いつも冷静で感情の薄い声が掠れている。まるで怯える子供のようだ。

 勘違いかな。王さまは、イエリに行ってほしくないみたい。

 どくどくと心臓が加速する。都合のいい妄想が浮かび上がり、イエリを期待させた。聞いてみたい。イエリを嫌ってはいないか、ここにいてほしいと思っていないか。

 乾いた唇を舐めて、小さく囁いた。

「イエリは、ここに帰ってきたいよ」

 王の肩がぴくりと動いた。たまらなくなったイエリは、王に飛びついてしっかりと抱き着いた。

「王さま、あのね」

 王の胸に顔を埋めながら、願いを口にする。

「イエリ、ここにいてもいい? どこかに行っても、王さまのところに帰ってきていいんだって、思っていい?」

 王が体を離してイエリの顔を見る。彼は目を見開き、口を薄く開いた。形のいい唇からは鋭い歯が覗いている。

「イエリの場所はずっとなかった。フリアナは親切だったけど、でも、ずっと森ばっかり見てた。森に帰りたかった」

 フリアナはイエリが不自由をしないよう、食事や生活の世話をしてくれた。感謝してもしきれないが、奴隷を匿っていると知られればフリアナも罰を受ける。そう思うと、申し訳なさが常に付きまとった。

 そんな時、森を眺める。竜たちの野性的で、けれど優しい姿を思い出すと懐かしかった。

 村にいる時からずっと、人が怖かった。イエリを見る目はいつも冷たく、近寄るだけで罵声を浴びせられた。母が死んでからは居場所をなくし、奴隷として売られた。

「イエリ、特別なものなんて持ってない。美人でもない、お金もない、頭も悪くて……最初に森で好きにさせてくれたのも、たまたまでしょ? イエリにすごい力があったとかじゃない。人の王さまの手下だと思ったから、殺さないでくれただけ」

 うすうす気が付いていた。王と初めて会った時、奴隷商人を食った竜から逃げた時、王の目はイエリを疑っていた。人の王が森になにか仕掛けようとしているのだと、それを探るためにイエリは生かされた。

 けれど、それでもよかった。

「王さまが、イエリのこと美しいって言ったから」

 話しているうちに、胸がいっぱいになり喉が熱を持つ。王の瞳には、半泣きのイエリが映っている。

 イエリは馬鹿で汚い娼婦の子。父親の顔を見てみたいな、おいおい鏡でも見ればいいんじゃねえの。こいつブリストのお手付きだろ。親子そろって哀れだなあ。

 脳裏にこびりつく声たちは、しかしもうイエリを苦しめない。イエリを認めてくれた竜がいるから。

「王さまと、一緒にいたい」

 視界が涙の膜でうっすらと滲んでいる。瞬きひとつで涙が零れてしまいそうだった。

 歪んだ視界で、王がゆっくりと動いた。

「私の負けだ」

 瞬きをすれば、涙が滑り落ちて視界が晴れる。一度決壊すれば、後はこらえることが出来ずに泣くことしかできない。

「お前は予想外のことばかりする。私には理解できないような突拍子もないことを、無邪気に」

 王の指が慎重にイエリの顔に触れた。指が曲げられ、爪が掠らないようにして頬を滑る。やや遅れて、零れた涙を掬ったのだと理解した。

「ここにいてほしい」

 低い声が囁く。

「隣にいることを、望んでいいか。お前と共にいることを」

 首から耳にかけて、血が昇りつめて熱くなる。目の端からは勝手に涙がはらはらと流れ続け、王の指を濡らしていた。イエリは王の服を強く握りしめた。喉の奥から嗚咽が響いてくる。

「はい……」

 イエリはやっとの思いで頷くと、王の首に抱き着いた。王の体はあちこちに鱗が生えて固く、母のような柔らかさもない。それでも、イエリにとってどこよりも安心できる場所だった。

 泣きじゃくるイエリを抱き返すと、王はぎこちなく尋ねてくる。

「名を、呼んでも?」

「名前……?」

 えぐえぐと息をしながら思い返す。確かに、王からは一度も名前を呼ばれたことがない。最初の頃は名前で呼んでほしいと思っていたが、そのうち諦めて「お前」呼びを受け入れていた。

「名を呼べば情が移る。王として判断を鈍らせたくなかった」

「じゃあ今は……?」

 イエリが疑問に思うと、彼は顔を背ける。王にしては珍しく歯切れが悪い。

「ここにいると、言った。森が、お前の居場所だろう」

 もしかして王さま、照れてるのかな。

 そう思った途端、イエリは心臓がぎゅっと苦しくなった。王といるとたびたび感じる痛みだ。イエリは痛みをかき消そうと、笑って頷いた。

「えへへ、うん! ここに帰ってくる。絶対。だから名前、呼んで!」

 王がイエリと目を合わせる。そして柔らかな声で言った。

「イエリ」

 その瞬間、王がふわりと微笑んだ。

 鋭い目つきが和らいで、瞳の色が深くなる。いつも眉間に寄っていた眉がほどけていた。彼の声は、ネツァクを呼ぶ時とも、ティファレトを呼ぶ時とも違う、甘い響きがあった。

 イエリは動けなかった。初めて見る王の笑顔はやはり美しく、そして少しばかり幼く見えた。王が微笑んで自分の名前を呼んだのだと思うと、心臓が暴れて苦しい。

「ありがとう……」

 上の空でお礼を言う。王はなぜ礼を言われたのか首を傾げているが、追及はしてこなかった。

 イエリの胸の奥、ぽっかりと開いた穴がじわじわと埋まっていくのを感じた。完全にその穴を埋めることはないが、傷を覆うようにあたたかな感触がする。そして、だからこそ自分にできることをしなければと決意がみなぎった。

「あのね、王さま」

 イエリは王の手を両手で包んだ。鱗のない手のひらは、イエリと同じく滑らかだ。

「イエリ、平原に行ってくる」

 王の手がイエリを握り返す。そうか、と静かな声が言った。

「止めても、無駄なのだろう」

「ごめんね」

 王の笑顔は、少し呆れた風に変わっていた。王が止めたとしても、イエリは隙をついて出ていく。そのことを彼も分かっているらしかった。

「イエリはここに帰ってくるよ。王さまの隣がイエリの場所だよ……そう思って、いいんだよね?」

「ああ」

 王がイエリの髪に触れる。ごわついた髪を弄びながら、王は言った。

「危険だと思ったなら、すぐに戻れ。人の動きは読めない」

「うん」

「お前が素直に戻るかは怪しいところだが」

「イエリ、信用ない?」

「あまり」

「ひどい!」

 王は再び微笑んだ。彼がじゃれあうようなやり取りをしてくるのは初めてだ。王の笑みを見るたび、イエリの心臓は加速する。嬉しさと苦しみが混じった複雑な感情は初めてで、どう反応していいか分からなくなってしまう。気持ちを持て余したイエリがむっと唇を尖らせると、王は触れていた髪を一房持ち上げた。

「イエリを信じる」

 王の薄い唇がイエリの髪に落ちた。閉じられた瞼には長い睫毛の影が落ち、一枚の絵のようだ。透けた木漏れ日が降り注ぎ、世界が明るくなった。

 時が止まっていると感じるほどの静寂。硬直していたイエリは、王が離れたことで永遠と一瞬の境目から抜け出した。王はいつもと同じ静謐の表情に戻っていた。

「平原のそばまではネツァクに送らせる」

「あ、うん……」

 王が喉を細めてアオを呼んだ。アオたちを迎えに行く彼の背中を見ながら、火照った頬を手のひらで押さえこんだ。胸の奥が酷くざわめいてうるさい。

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