気配
草木には昨夜の雨粒が乗り、朝日に煌めいている。大雨から一転、今朝はすっきりと晴れて爽やかな陽気だった。雨のおかげで地面が潤い、しっとりとした涼しい朝だ。イエリがそのまま駆け出そうとすると、後ろから呼び止められた。王だ。
彼は木にもたれる形で座っていた。立ち去ろうとするイエリを鋭い目で見据えるため、少し身構える。
「どこへ行く」
「あ、えと……そのへん。空気が気持ちいいなって思って」
「近くへ」
呼ばれたイエリは素直に近くへ寄る。王は地面に座ったまま、イエリの顔を正面から見据えた。
「傷の具合は」
「もういいよ。痣がうっすらあるくらいかな?」
イエリが負った傷も、時間とともに軽快していた。シャツをめくりあげて腹部を確認するが、かすかに黄色い跡が残るばかりで、飛び回っても痛むことはない。
「そうか」
王の目が細くなる。そのまなざしは、かつてイエリを警戒していたものとは違う、竜を見つめる時と同じ優しさがあった。
「ちょっと散歩するだけ。すぐ戻るよ」
それだけ聞くと、王はようやく目をそらした。あまり遠くへ行かないように、と告げると、薄く目を閉じる。王はまだ起きるつもりはないらしかった。
「アオ、行こ」
むずがゆい気分になったイエリは、アオを急かしてその場から離れる。王が見えなくなるまで十分歩くと、顔を覆ってしゃがみこんだ。なぜか顔が熱い。
「なんか王さま、変だよね?」
アオは首を傾げている。イエリは王のように大きなため息をついた。
イエリが外で怪我をして以降、王の態度はまた少し変わった。以前はイエリから王につきまとっていたが、最近は王から離れないように言われる。イエリが何をやらかすのか不安なのだろうが、それにしては態度が柔らかい。あの目で見つめられると、つい勘違いしそうになる。
イエリ、もしかしたら王さまに嫌われてないのかもしれない。
これがとんだ勘違い、都合のいい妄想であることも否定できない。王はもともと優しい竜だ。嫌いな相手だろうと礼儀を尽くし、親切に接してくれる。イエリに対しても、苦手意識を抑え込んで優しくしているだけかもしれない。
「でも、もし、嫌いじゃないなら……」
王がイエリを抱きしめる時の感触を思い出す。王は力が強い。触れた時にイエリに怪我をさせないよう、おっかなびっくり触れてくるのが嬉しかった。小麦畑よりも深い金の瞳が、イエリを優しく見つめてくれるのが幸せだった。
隣にいてもいいよって、言ってほしい。ここにいてもいいんだよって。
浅ましい願いだと分かっていても、一度芽生えた思いは簡単には消せない。王の無慈悲な優しさは、イエリを喜ばせて苦しませた。
しゃがみこんだまま空を見上げる。青々とした葉の隙間からは、他人事のように透き通った空が覗いていた。
そのまま顔の熱を冷ましていると、遠くで竜が大きく鳴く声が聞こえた。体躯の大きな竜が移動する時特有の振動があり、森が揺れている。枝に止まっていた小鳥が驚いて飛び立つのを見送りながら、イエリも立ち上がった。
「なにかあったのかな?」
嫌な予感がする。アオを呼び、駆け足で王の元へ戻った。
戻ると、案の定竜と王が話している。やってきたのはティファレトだったようだ。美しい鱗が見え、イエリは嬉しくなった。彼女に会うのは久々だ。だが、喜びはすぐに萎んだ。二人は緊迫した様子で言葉を交わしており、遊びにきたわけではなさそうだ。
イエリは王の隣に立ち、二人の話が終わるのを待つ。王はイエリが戻ってきたことを確認すると一瞬目元を緩めたが、すぐに王の表情に戻った。
話を終えると、ティファレトは身を翻して立ち去ろうとする。王がそれに続こうとするため、イエリも慌てて駆け出した。
「イエリも行く!」
王は一瞬迷ったが、言い争っている時間はないと判断したらしい。イエリについてくるように告げるとティファレトを追いかけた。
「なにがあったの?」
走りながらイエリが問うと、王は渋面を作る。そしていつもより数段低い声で答えた。
「竜が死んでいるらしい。それも、大量に」
「そんな!」
ぎょっとしたイエリが叫ぶが、王もまた事態を把握できていないようだ。その声には動揺が滲んでいた。
「ティファレトが気がついたのは今朝らしい。争いの跡もなく、ただ死んでいる。南部の竜がかなりやられた」
「戦って、ないなら、なんで……」
王は答えなかった。王に追いつこうと全力疾走するイエリを見ると、イエリの腰を持ち上げて片手で抱えた。
「うわあっ!」
「我慢しろ。急ぐ」
必死に羽ばたいてついてきていたアオが、慌てて王の肩に掴まった。イエリの足が遅いために、王は抱えてくれたのだ。イエリは足手まといだったかもしれない、と反省するが、今更降りるわけにもいかなかった。イエリは王にしがみついて大人しくしていることにした。
「舌を噛まないように」
王はそう言うと、膝を曲げて高く飛び上がる。
「ひゃああ!」
独特の浮遊感は初めて味わうもので、イエリはつい叫び声をあげた。王は木の枝に飛び乗ると、軽い足取りで隣の枝へジャンプする。地面を走るよりも飛ぶほうが速いと判断したらしい。
王さま、こんなことも出来たんだ。
イエリは目を回しながら思った。さすがは竜の王、人に似た姿をしていても身体能力はずば抜けている。
そのまましばらく運ばれていくと、やがて王の足が鈍くなり、地面へと降りた。先についていたティファレトがこちらを振り向き、小さく鳴いた。
王はイエリをゆっくりと下ろすと、有無を言わさぬ口調で「私より前に出ないように」と言った。イエリは大人しく頷く。アオも王から離れ、イエリの頭の上に乗った。
王の後ろに隠れながら前を覗き込む。そこには、竜の死体があった。体の大きさは中くらいで、ティファレトより二回りほど小さい。青々とした綺麗な鱗をしているが、地面に力なく倒れているところを見るに、既に息絶えているようだ。
竜の死体を見ると、王はそばへ歩み寄る。倒れた竜の額に手を当て、そっと目を閉じた。その仕草は、鎮魂を祈っているように見えた。イエリは胸に悲しみが押し寄せ、慌てて目を閉じて両手を握りしめる。そうしなければ泣いてしまいそうだったのだ。
王は祈り終えると竜の体を検分し始めた。イエリも遠目に観察するが、竜の体には目立った傷もない。それに老衰にしては、随分若い竜に見える。なぜこの竜は死んでしまったのだろう。
王とティファレトが話し始める。イエリは邪魔をしないよう口を挟まずに待っていた。その間やることもないので、じっと竜を観察する。
外傷はないと思っていたが、よく見ると首の鱗に細かい傷がある。うっすらとした浅い傷が何本も走っていた。前にアオが痒がって体を木の幹に擦った時も同じような傷をつけていた。周囲を見ると、少し離れた木の幹には似たような跡が残っている。そしてその木の根本には、竜が吐き出したと思われる胃液が垂れていた。
「なにか、吐き出したかったの?」
イエリは胃液に触らないよう注意しながら観察した。アオがうっかり滑り落ちないよう腕に抱え、しゃがみこむ。竜はしばらく何も食べていないのか、胃の中は空っぽだったようだ。
竜は頑健で、数日は食事をしなくても問題ない。だが、水分だけは取らなければ弱ってしまう。そこは人と似ている点だ。ならばこの竜も、水だけは口にしていたはず。
その時、フリアナから聞いた話を思い出す。彼女は小麦だけに関わらず興味深い話をいくつかしてくれた。
イエリ。水ってすごく重要なの。人が生きるためにも必要だし、なにより植物もね。
ある年、タリステリアで農家をやってた人の作物が全滅してしまったことがあるの。広い畑全部。なぜかっていうと、水を媒介にして病気が広まったから。作物の病原菌が水を通して畑全部に広がっちゃって、取り返しがつかなくてその年の収穫はほぼゼロ。大変なことよね。
植物だけじゃなくて動物にも同じことが言えるのよ。畜産をしてた人も、家畜がみんな病気になったことがあった。その家畜はみんな同じ井戸から汲んだ水を飲んでいたんだけど、その井戸に毒の草が生えていたのね。早く気が付いたからこっちはなんとかなったみたいなんだけれど、危ないところだったと聞いてるわ。
水は大事よ。水が駄目になると、全部が駄目になってしまう。だから私たち農家は、土だけじゃなくて水にも気をつけなきゃいけない。分かった?
イエリははっと立ち上がると王たちへ駆け寄った。
「王さま、ちょっと行ってくるね」
話の邪魔をするのは恐縮だったが、黙っていなくなると余計な心配をかけてしまう。イエリはそのまま立ち去ろうとしたが、首根っこを掴まれた。
「うえ」
「どこへ?」
呆れたまなざしの王が言う。イエリは照れながらふやけた笑みを返した。
「水場。この辺だと、竜はどこで水飲むの?」
王の目がすっと細まる。そしてティファレトへ合図をするとイエリを抱えて歩き出した。ティファレトは頭を下げてイエリたちを見送る。彼女は共に来ないようだ。
「またこれ?」
王に持ち上げられたイエリは不満げに頬を膨らませるが、王は目線すらよこさず平然としていた。
「少し目を離すとすぐにどこかへ行く。とんだお転婆だな」
「先に声はかけたもん」
「喉でも乾いたのか」
「ううん。そうじゃなくて……」
イエリはフリアナの話を思い起こしながらたどたどしく説明した。
「動物とか、植物とか、水が駄目になると病気になっちゃうんだって。さっきの竜も、なにか吐き出そうとしてたみたいだけどなにも吐いてなかったし、でも水くらいは飲んでたんじゃないかな。もしかしたら、竜たちが死んじゃったの、水のせいかもしれないって……わかんないけど、思って……」
王はぴたりと足を止めた。話しているうちに自信がなくなり、言葉が尻すぼみになる。アオがキュイ、と首をかしげていた。水場へ行くのではないのか、と言いたげだ。
「ネツァク」
王が鋭い声でアオを呼んだ。そして何か指示を出すと、アオは途端に血相を変えて元来た道を戻っていった。そのスピードは、普段イエリと鬼ごっこをする時よりもよほど速かった。どうやら彼はいつも本気を出していなかったらしい。
王は表情を固くして再び歩き出した。先刻ほどではないが、かなりの早足だ。しかしそのおかげか、水場にはすぐに到着した。
普段イエリが利用している川と違い、南部の竜たちは湖を水場としているらしい。静かな湖畔は凪いでいて水面がきらめいている。壮大な海とは違う、落ち着いた場所だった。
イエリは王の腕から降りようとしたが、それは叶わなかった。王は腕にしっかりと力を入れているようで離れられない。降ろしてくれと頼もうとしたが、それよりも先に王が湖に近づいた。
じっと水面を観察する。王が指先を水に浸すが、特になにも起こらなかった。王の真剣な表情に、イエリも思わず黙り込む。彼は指先でしばらく水を弄んだあと、その水を掬いあげて口に含んだ。
「お、王さま!」
水が病気の原因かもしれないと言ったそばからどうして飲んでしまうのか。焦ったイエリはなんとか吐き出させようとするが、イエリの行動に関係なく王は自分で水を吐き出した。プッと草へ水を吐きかけ、口を拭う。
「飲んだ限りでは分からない。だが……」
金色の目が湖を観察する。そして、湖のそばにある草むらへ近づいた。
王がじっとそこを見ているので、イエリも注視する。草は誰かに踏まれたようで倒れている。萎れ具合からしてそう時間は経っていないだろう。竜が水を飲むときに踏んだのかもしれない。王が歩いたあとに似た足跡だ。
「イエリも飲んでいい?」
「駄目だ」
イエリの申し出は即座に却下されたが、めげずに王へ訴える。
「竜だけに効く毒かもしれないよ。泳いでる魚は元気そうだし、草も枯れてない……そういう毒とかないの? もちろん、イエリの考えが全部はずれで、水はなんともないのかもしれないけど……」
「竜にだけ効く……」
王は呟くと黙り込んでしまう。イエリが辛抱強く待つと、王はやがてぽつりと呟いた。
「パネノミか」
「パネノミ?」
イエリは首を傾げた。パネノミはフリアナの畑によく生えていた雑草だ。手のひらに収まる程の黄色い花を咲かせるかわいらしい花で、女性への贈り物や押し花として庶民に親しまれていると聞いた。
「あの花は竜の感覚を酷く鈍らせる。以前卵泥棒が持っていた護符にもあの花が使われていた」
「そうなんだ」
例の護符の中身について聞いたことはなかったが、パネノミの花が利用されていたとは。竜の感覚を鈍らせるのなら、護符を持った者を竜が認識できなくなるのも頷ける。それだけ強い力を持つ花なのだ。
「あの花は竜を狂わせる。体内へ取り込めば、内臓がおかしくなって死んでもおかしくない」
「じゃあ……」
イエリははっとして湖を見る。この水にパネノミが入っていたなら。
「王さま、一回降ろして」
「しかし」
「大丈夫だよ。王さまがいれば怖くないから」
イエリがそう言って微笑むと、渋っていた王は完全に沈黙してしまった。普段から仏頂面ではあるが、さらに口をへの字に曲げてしまったように見える。王は根負けしたのか、そのままイエリを地面に降ろした。
「水は飲み込むなよ」
「うん!」
内心でガッツポーズをしながら水面に手をつける。
きんと冷えた水は心地よく、イエリが利用する川と大差ない。王に間近で見守られながら、そっと両手で水を掬い、口へ運んだ。
「うぶっ……! ぺ、ぺっ」
「どうした!」
王が勢いよく飛びついてくるため、イエリは水を吐きながら王を押しとどめた。
「大丈夫、なんともない……でも、この水……すっごく苦い!」
イエリは舌を出してうええ、と顔をしかめた。その様子を見た王は目を見開いている。舌を空気にさらしても、青臭い苦味が薄れることはない。イエリは何度もぺっと唾を吐きながら王へ尋ねた。
「王さま、なんともなかったの?」
「……ああ。なにも」
王は一瞬考え込むが、答えはほとんど分かったようだ。
「人が感じられる苦味、竜は感じないもの。竜の味覚が奪われている……考えられるのは、パネノミくらいしかない」
しん、と一瞬の沈黙。王は短く「戻るぞ」とだけ告げた。その声は酷く冷めていた。王の雰囲気から怒りが伝わってくる。
イエリは王の背を追いながら今回の件について考えた。
パネノミが森に生えているところは見たことがない。フリアナの畑では頻繁に見かけたが、森には全くないのだ。生息環境が森に合わないのだろうか。
平原にはあり、森にはない花。竜を殺す花。それがなぜか湖に溶けだし、多くの竜を殺している。
──竜殺しが何か企んでいる。
突然脳裏に蘇ったのは知らない声だ。
イエリは思わず足を止め、呆然と立ち尽くした。
見知らぬ声は言う。
──もしかしたら、森でも既に異変が起きているかもしれない。気をつけろ。
そうだ。この声は警告していた。竜殺しが何かを企んでいること。『人の侵略よりも先に』森に何かしかけたこと。
「しん、りゃく……」
彼は言った。争いの足音は、もう止められないところまで来ている。
悲鳴をあげそうになりすんでのところでこらえる。イエリは真っ青になり、体をふらふらと揺らした。血が下がって目の前に火花が散る。
どうして忘れてたんだろう。人は森に攻めてくる。これはその準備だ。
「どうした?」
声をかけられてイエリは顔をあげた。目の前には心配そうな王の表情がある。水を飲んだことで体調を崩したのではと危惧しているようだ。
「大丈夫……」
ひきつった頬を引き上げて下手な笑顔を浮かべた。王は納得していなかったが、ひとまずティファレトたちの元へ帰ることを優先したようだった。
「体調が悪ければすぐに言え」
王はイエリの様子を窺いながら、歩調を緩めて歩き出した。再び抱えて歩くべきか思案しているのかもしれない。その優しさを感じながら、イエリは打ちひしがれていた。
どうすればいい。
王は今回の事件が人の仕業だと察している。パネノミは森に生えない。それを意図的に水場にまいたとすれば、人以外にはないはずだ。
竜を虐殺された王は争いの道を選ぶかもしれない。むしろ、他の道など選びようもない。
戦いになれば、最初に戦場になるのは森と平原の境界地点──タリステリアだ。そこにはフリアナやクレイが暮らしている。彼女らが争いに巻き込まれたらと思うとぞっとした。
しかしイエリには疑問だった。こうして毒をまいたとしても、死んだのは南部の竜の一部だけだ。残っている竜と全面的に戦って人が勝てるはずもない。イェソドの時はうまくいったかもしれないが、森は竜の庭だ。竜たちが王の指示に従って戦えば、人などすぐにやられてしまう。だというのに、なぜ人は争いを仕掛けようとしているのか。
このまま戦って、本当にいいのかな。
胸に立ち込める不安の雲は、真っ暗な色をしていた。この懸念を王に伝えたいが、なんと伝えるのが正解だろうか。
竜殺しの企みについてイエリに教えた人物は不明だ。先日イエリが記憶を失っている間に出会ったとしか考えられないが、そんなあやふやな記憶を話して大丈夫だろうか。それに、はっきりと覚えていないけれど誰かから聞いたのだ、と説明しても信憑性は低い。不確定な情報で竜を混乱させたくなかった。
人の王さまは本気なのかな。食料に困っているだけなら、もしかしたら説得できないかな。
竜でも人でもない間の体を持ち、竜を憎む人々の中で暮らしている孤独はいかほどだろう。もしかしたら、人の王は理解者がいないまま閉じこもって生きてきたのだろうか。
人の王と話をしよう。本格的に侵攻が始まる前ならば、まだ間に合うかもしれない。
竜が森から出られない上、王は無防備に人前へ出ていくわけにはいかない。平原と森を自由に行き来できるイエリにしかできないことだ。
イエリは拳を握りしめると、力を込めてふん、と息を吐いた。




