あのときのこと
木陰で冷えた風が吹き抜けると、火照った体に心地よい。イエリは草むらの上に大の字で転がり、全身で風を受けていた。背中や関節の裏側がしっとりと汗で湿り、水浴びをしたいと思わせた。
王はここ数日、やることがあるといってあちこちへ出かけていた。イエリの足でついていくと足手まといだと判断したため、イエリは大人しくアオと留守番をしていた。といっても、していることは以前と変わらない。かくれんぼや鬼ごっこで森を走り回っている。
イエリが転がっていると、アオが勝ち誇った声で鳴きながら顔を覗き込んでくる。イエリが鬼役でアオを負っていたが、どうにも追いつけず諦めたのだ。翼を持つ竜と人では勝負にならないと、先に気が付けばよかった。
「アオ、手加減してよ。イエリの足じゃ追いつけないのに」
文句を言うが、アオはどこ吹く風だ。イエリの話を理解できないというよりは、理解してなお無視している雰囲気だ。彼は嬉しそうに翼を開いた。
最近、アオはイエリの言葉を理解しているように感じる時がある。細かい言葉の意味ではなく、込められたニュアンスを察し、会話のように成り立つことがままあった。
言葉は分からなくても、話したり遊んだりできるんだ。
イエリは嬉しくなって思わず笑う。アオは突然笑い出したイエリを不思議そうに眺めていた。
「あはは、走ったら喉乾いちゃった。水飲みに行こう?」
アオが首を捻ってギュ、ギュ、と鳴いている。以心伝心というには、だいぶ先が長そうだ。
いつものように川辺に出て水を浴びている時、イエリはその異変に気が付いた。
遠くで煙が上がっている。木々の隙間からかすかに見えるだけであり詳細な場所は分からないが、何かが燃えているのは間違いない。イエリは慌てて水から上がった。
竜は火を使わない。森で火が起きるとすれば自然発生の火事か、人の仕業だ。そして雷が落ちたわけでもないこの状況から察するに、人である可能性が高い。
王さま、ごめんなさい!
イエリは心の中で謝罪をすると、近くにあったシィラをむしりとる。そして大きな口をあけて齧りついた。酸味で口が痺れるが、止まらずに二口三口と食べ進める。
骨の谷に迷い込んだ一件以来、王からは「無闇にシィラを食べるな」と言われていた。しかし今は目的がある。後で叱られるとしても、こうするしかない。
シィラを咀嚼しながら考える。火元までの距離は不明であり、森の中か外か判断が難しい。ひとまず煙の方向へ向かってみるしかないだろう。最後の一口を飲み込むと、未だ川に浸かっているアオを呼んだ。
「アオ、行ってみよう。もし森の中だったら、王さまに知らせなきゃ!」
イエリが走り出すと、背後でアオが慌てる気配がする。アオには翼がある。多少イエリが先行してもすぐに追いつくだろう。そう判断し、イエリは煙の方角へ向かった。
どのくらい走っただろう。息が上がり、水浴びの直後とは思えないほど全身に汗をかいていた。アオもイエリに追いついて隣を飛んでいるが、翼のはためきに疲弊が見えた。イエリも疲れ切り、座ったらもう立てなくなりそうだ。
しかし見上げれば、煙の発生元まではあと少しだ。イエリは自分を叱咤激励しながら必死に足を進めた。
周囲を見るに、ここは森と平原の境界付近だ。恐らく煙の出所は森の外だが、ここまで来たら確認せずに帰れない。竜殺しがなにを考えているのか分からない以上、少しの違和感も見逃さないほうがいい。
とうとう、イエリたちは森の境界までやってくる。アオは不安げに甘える声をあげていたが、イエリにもここまできた意地がある。
「アオはここで待ってて。イエリがこっそり、ちょっとだけ見てくる」
イエリも脱走奴隷であり、見つかればただではすまないのだが、それ以上にアオが森から出るのは危険すぎる。掟を破った竜が居れば、人は嬉々として襲いかかるだろう。アオが殺されでもしたらイエリは耐えられない。
「待っててね」
強く言い聞かせる。アオは細い鳴き声を上げ続けていたが、森から出ようとはしない。イエリはほっとして森から一歩外へ出た。
森から出て少し歩くと、そこには燃えた家屋の残骸が並んでいる。どうやら煙の元はここらしい。家はほとんど燃えつくしたのか、煙だけがくすぶっている。それらを眺めながら、自分の予想が確信に変わるのを感じていた。
自分は、この景色を知っている。
「ここ……イエリの、村だ……」
呆然と呟く。家はすべて燃えているが、間違いない。かつてイエリが暮らしていた名無しの村、そのなれの果てだ。
身を隠すことも忘れ、イエリは走り出す。いつも漁っていたゴミ箱、母のいた娼館、イエリたちの家。全てが燃えて倒壊している。イエリは息を乱しながら村を見て回った。
なんで? どうして誰もいないの? どうして燃えたの?
村には人ひとりいない。イエリが奴隷になったときは、皆この村で生活していたはずだ。賊に襲われ、火をつけられたのだろうか。そこまで考えてから、はっと思い出す。
シオは一体どこへ行ったのだろう。
「シオ!」
イエリは大きく叫んだ。シオはこの村にいたはずだ。森に捨てられていなかったのなら、誰かが面倒を見てくれていたということ。しかしここには誰もいない。シオはどこへ行ってしまったのか。
「シオ? シオ! どこ行ったの?」
恐慌状態に陥りながらイエリは残骸をひっくり返す。黒く焦げた板材は熱を持っており軽くやけどをしたが、それどころではない。シオがいないのだ。
シオがいなくなったら、イエリはどうしたらいいの。イエリにはシオしかいないのに。
けれど、その瞬間によぎったのはシオの顔ではなかった。
「え……? あれ……」
イエリは足を止めた。乾いた地面を見つめて立ち尽くす。
イエリにはシオしかいない。母が死んだ後、シオだけがイエリの心の支えだった。弟のために生きなくては、そう決心して、今までやってきたはずだ。だというのに。
「シオ」
名前を呼んでも、かつてのように唯一のぬくもりは感じなかった。代わりにイエリの胸に去来するのは、これまで出会った人、竜たちだ。
フリアナ、アオ、ティファレト、ケセド。
──王さま。
愕然とする。いつのまにか大切なものが増えて、イエリの心に住みついた。シオだけだったイエリの世界は、様々なもので彩られていた。
ああ、と息が漏れる。
「ごめん、シオ……」
全身からどっと力が抜ける。目の縁が熱くなるが、涙は出てこなかった。
これはシオに対する裏切りだ。シオがこの村に置いていかれた後、イエリはたくさんの優しいものに出会い、心のよりどころを見つけた。無意識にシオを後回しにして、森で遊んでいたのだ。
だって王さまが、優しかったから。
王のことを考えると喉が詰まって呼吸が苦しくなる。けれど、イエリはこの感覚を知っている。イエリがかつて、シオだけに抱いていた気持ちだ。
イエリの中で、王は大きな存在となっていた。
「誰かと思えばお前か」
背後から投げられた声に、イエリはびくりと肩を跳ねさせた。考え事を遮られた事で、イエリの心臓がうるさいほど鳴りだす。
そこに立っていたのは、見たことのある男だった。よれたシャツにガタイのいい体を押し込み、額には汗をかいていた。かつてこの村に暮らしていた男、いつもイエリを意味有りげな視線で見ていた男だ。
イエリは咄嗟に逃げようとしたが、すぐに男の手が伸びてきて捕まってしまう。手足を振り回して抵抗するが、脇腹に肘を入れられて息を吐き出した。内臓が刺激され吐気を催す。
「お前売られる途中で死んだんじゃなかったっけ。なんでここにいるんだよ」
「……やだっ、離して!」
「首輪ついてるし、そうだよな。なんで今更戻ってきたんだ? 奴隷になっても馬鹿は治らなかったか」
地面に伏せられると、背中を膝で押さえられる。胸が圧迫されて息が苦しい。膝が背中に食い込んで鈍く痛んだ。イエリは呻きながら、首をねじって男の顔を見ようとする。
「なんで……なんでみんないないの?」
「ここはもう捨てることになったんだよ。兵士に見つかると厄介だからな」
そこでイエリは思い出す。この村には兵士がいなかった。村の名前もないなど普通ではない。
「ここ、普通の村じゃないの? なんで……」
イエリの言葉を聞くなり、男ははじかれたように笑い出した。大声で笑うたびに唾が飛び、イエリは眉をひそめる。男は涙すら浮かべながら、心底おかしそうに言った。
「お前、本当に村だと思ってたの? ここは盗みやら人身売買やら、人様には言えないことで暮らしてる盗賊の根城だよ。村ってのは、怪しまれないためのただの呼び名」
男のねばついた声が耳元に落とされる。ぞっと鳥肌を立てながら、その説明に納得もしていた。
フリアナの家で暮らした時から違和感があった。フリアナは裕福な人間ではないと言いながら、イエリの村よりもよほどいい暮らしをしていた。朝晩の食事に困ることなく、洋服も数枚持っている。イエリの村では考えられないことだ。「村」はまっとうな商売をしていなかったために貧しく、タリステリアの隅で隠れて暮らしていたというわけだ。
「アーナが死んだのはみんな残念がってたな。ここ女少ないから。ガキ産んだせいで死ぬとは思ってなかったわ」
母を罵倒するような言葉に、かっと血が上る。唸りながら暴れるが、男は痛くもかゆくもないらしい。「騒ぐなって」と勢いよく頭を押さえつけられ、地面に顔をぶつけた。歯ががちりと音を立て、衝撃で頭がくらくらとする。それでも、イエリには確認しなければならないことがある。
「っシオは……シオはどうしたの? みんなと一緒に行ったの?」
「あ?」
男はとぼけた声を出すが、数秒置いてからシオについて思い至ったようだった。そしてまた、馬鹿にした様子でイエリを見下す。
「お前って馬鹿も通り越して頭おかしいよな。死体と一緒に暮らすとか、普通はしねえよ」
「そうじゃなくて! シオはどこにいるの?」
「だからさ」
男は短く告げた。
「お前の弟、とっくに死んでただろうが」
ぴたり、時間が止まった。
大人しくなったイエリを不審に思ったのか遠くで男の声がするが、イエリには届かなかった。
シオが死んだ。
一瞬気が遠くなったが、奥歯を噛み締めてこらえる。男を睨みつけて叫んだ。
「嘘!」
「こんな嘘ついてどうすんだって」
「シオは死んでない、だってイエリが売られる時も……」
「おいおい、本気で言ってんのか?」
男は不気味なものを見るように顔をしかめた。イエリに対し、うわ、マジかよ、と呟いている。
「あのガキだろ。とっくに死んで腐ってただろうが。お前、同じ家にいて気が付いてなかったのかよ」
ガツン。
頭を殴られたような衝撃。頭の血がすうっと下がり、目の前に星が飛び散った。耳鳴りが渦巻いてイエリの小さな体を連れ去ってしまう。
分からない。分からない、分からない。シオが死んだ。そんなはずはない。イエリが売られる直前まで泣いていた。最近は母乳を飲ませられず弱っていたが、生きていたはずだ。
シオは柔らかく、しっとりとした肌をしていた。かさついて異臭を放つ冷たい肉の塊などでは断じてない。あの死臭は母のものであって、シオではない。そうだ。そのはずだ。
本当に?
記憶がぐんにゃりと曲がり、溶けていく。シオは確かに弱ってからあまり泣かなかったが、それはいつからだ。母の死後、イエリはシオに水以外のものを与えただろうか。シオのトイレの世話をしなくなったのはいつだ。部屋の腐臭がより強烈になったのはいつだ。
「あ、ああ……あああ……!」
シオ、シオ、シオシオシオ。シオシオシオシオシオシオシオシオシオ。
「ま、お前が生きてたならちょうどいいわ。次の村が決まったからな。もう一度売りに出してもいいし、娼婦にしたっていい」
「ぅぎっ」
首輪を後ろから引かれ、喉が締まる。どうにか逃げ出そうともがくが、男がしっかりと体重をかけているせいで動けない。息を止めて気絶させるつもりか。
このまま連れていかれれば、イエリは元の生活に戻る。誰からも認められず、ゴミを漁って生きていたあの頃。虐げられ、蔑まれ、何度も殺される日々。そこには、イエリの望むものはなにもない。
──お前は、美しい。
遠くで声がした。
低く掠れた心地のいい声。イエリを安心させる声だ。怯えるイエリを優しく抱きしめて、認めてくれた。
連れていかれたら、王さまに会えなくなる。
イエリの心臓が強く脈打った。思考が凪ぎ、視界がクリアになっていく。
目の前に、尖った木片が落ちているのが見えた。




